第漆話 理性と欲望の狭間に答えはあるのか
その夜、雨は一層激しく降り始めた。
時計は十二時を回ろうとしていた。
俺と弥生はベッドで横になっていた。
「どうかしたか?」
弥生の様子がおかしい。俺は心配になって体を起こした。すると弥生は眉をハの字に寄せながら、横目で玄関を睨んだ。
「今……玄関で何か音がした気がする」
「ちゃんと鍵をかけたはずだけどな」
気になった俺は、下着姿のままベッドから降りて立ち上がった。
そして、暗い玄関へ向かおうとしたその時。
一筋の雷が光って、玄関を明るく照らした。
するとそこには、悲壮な顔をして佇む真央の姿があったのだ。
「ひいいっ!」
俺は思わず飛び退いた。
「真央! お前いつからそこにいたんだ!」
また雷が光った。
ゆっくりと、真央が部屋の中へと入ってくる。全身がずぶ濡れだった。
「湊、ここで……何をしてるの?」
「何って、そりゃ……」
俺は思わず視線を逸らした。だがすぐまた顔を上げて真央を見た。
「って、いうかお前こそ何してんだ」
俺がそう言うと、急に真央は泣き始めた。
静かにしゃくりながら。
「酷いわ……」
真央は手の甲で涙を拭った。
「小さい頃からあなたが好きで……ずっと尽くしてきたのに。最後はこんな仕打ちなの?」
涙を拭いながら、上目遣いに真央が睨んできた。
「待ってくれ、真央……」
「何を待つの? 私、この目で見たんだよ。あなたたちが抱き合っている所を」
俺は問い詰められて、額に脂汗が流れ始めた。真央の刺すような視線に、心臓が破裂しそうになる。
そこで弥生が立ち上がった。彼女はふわりと上着をまとうと、真央の前へ進み出た。
「いい加減にしなさいよね」
弥生は腕を組んで仁王立ちした。
「あなた、誰に断ってこの家に入ってきたの? ここは私の家よ」
「それはそうだけど——」
「そうだけどじゃないの。それにあなた、湊とお付き合いしているわけでもないんでしょ?」
俺は心の中で頷いた。そうだ。俺は真央と付き合ってはいない。空気を読むことに長けた俺は、決して口には出さなかったが、真央に弥生のことで責められるのは少し違うと思った。
「だからといって、湊がこうなったのはあなたのせいよ。あなたのせいで湊は変わってしまったわ」
すると弥生は腰に手を当てて、身を乗り出すように真央を睨んだ。
「何よ、湊が自分のものにならなかったのがそんなに悔しかったの? それであなたは他人の家まで上がり込んできて、わざわざ文句を言いにきたのかしら」
弥生は一気に捲し立てると、続けた。
「湊は私を選んだの。あなたじゃなくて、私をね」
すると真央は両目に涙をにじませた。そして俺を睨んで来る。
「湊! あなた本気なの? ねえ、違うって言って!」
「湊、何黙ってるのよ。ハッキリ言ってやりなさいよ」
俺は天を仰いだ。
ここは地獄か?
俺の心臓は破裂しそうに鼓動した。長距離マラソンでも、ここまで心臓が高鳴ることはないだろう。
「おい、お前ら一旦落ち着こう……いいか、落ち着くんだ」
すると真央が俺をキッと睨みつけた。
「湊、目を覚まして! この女は悪魔なのよ!」
「やめろ、真央!」
「いいえ、やめないわ。……私、調べたの。影山って人が言っていた、ピニャタルテという悪魔のことを」
真央がピニャタルテという名前を出した瞬間、弥生の顔色が変わった。
「ピニャタルテはね……人の被っている仮面を剥いで、心の中身を覗き込む悪魔なの。人の秘密、欲望、嫉妬、後悔……そういうものを丸裸にするのよ」
「お前、影山みたいな奴の言うことを信じるのかよ」
「いいえ、私は自分で調べたの」
真央は弥生を睨みつけた。
「ネットには様々な情報が隠されていたわ。ピニャタルテは一人じゃない。世界中に何人もいて、被害者も大勢見つかったの」
「ネットの情報なんて、アテになるかよ」
「そうかしら。少なくとも、今の湊を見てたら、信じたくもなるわよ」
真央は俺に縋りついた。
「ねえ、湊、私と一緒に帰ろう。ピニャタルテは人を操るのが好きなのよ。そして、中身が壊れようとお構いなしなんだから」
すると弥生がイライラした様子で口を開いた。
「さっきから黙って聞いていたら随分な言われようね」
弥生は一歩前へ出て、真央を睨んだ。
「あなた、人を悪魔呼ばわりしてるけど……要するに、好きな男を転校生に取られて嫉妬に狂う女じゃない」
それを聞いた真央は顔を真っ赤にして、弥生に掴みかかった。
「くそう、言わせておけば!」
「それはこっちの台詞よ!」
真央と弥生は、お互いの髪を掴んで引っ張った。
「おい、やめろ、喧嘩はやめるんだ!」
俺は二人の間に入って引き離した。そして真央の顔をジッと見た。
「人の家に勝手に入ってきて、言いたい放題言って……いくらなんでも酷すぎるぞ、真央!」
すると真央は、パッと飛び退いて俯く。それを見た俺は、安心して腕を下ろした。
「真央……今回のところは謝ってくれ。事を大きくしたくない」
すると真央は、しばらく俯いたまま前へ出た。俺は真央が頭を下げて謝るのかと思って、道を譲った。
だが、次の瞬間——真央が弥生に何か液体をぶちまけたのだ。
「キャア!」
弥生が悲鳴を上げて飛び退く。
「ははは、ぶっかけてやったわ!」
「ま、真央! お前!」
「これで正体を現すといいのよ!」
「何かけやがった、真央!」
「聖水よ!悪魔にはこれが一番効くんだから!」
「お前、どうしちまったんだ、気は確かか?」
弥生は聖水とかいうものを頭から被ってずぶ濡れになっていた。だが、真央が考えていたような変化は何も起きなかった。何も変わらなかった。ただ、びしょ濡れになっただけだった。
「嘘……どうして? ネットにはこれで正体を現すって書いてあったのに」
俺はカッとなって真央の頬を叩いた。
「何を馬鹿なことやってんだ、真央!」
すると真央は顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
「だいたいお前、そんなんだから——」
「うるさい!」
泣いた真央が暴れ出した。
「ちくしょう! ちくしょう!」
手当たり次第に物を投げる。
「おい、やめろ、真央!」
真央が弥生に飛び掛かっていく。
弥生も頭にきているのか、真央に容赦がない。取っ組み合いになった。髪を引っ張る、平手打ち、怒鳴り合い。
俺はもう見て居られなかった。
「おい、やめろ、二人とも!」
「うるさい、どいて!」
「湊、邪魔!」
「俺が悪いのかよ!!」
ガリガリ、バリン、ガッシャーン。
二人はもつれ合いながら、ベランダへと突っ込んでいった。
「ああっ、そっちは危ないって!」
だが二人にそんな声は届かない。彼女たちが手すりにぶつかった瞬間、手すりがバリバリッと音を立てて崩れ始めた。
「ああっ!」
崩れたベランダから落ちそうになる二人を、俺は身を乗り出して掴んだ。
雨が叩きつけてくる。雷が光る。
「うぐぐ、辛いっ……!」
だが、俺のそんな苦労は他所にして、二人は落ちかけの手すりに引っかかりながら取っ組み合っている。
「離しなさいよ!」
「嫌!」
「あ、暴れんな……落ちんぞ!」
俺は足元を覗き込んだ。
ベランダの下は川である。そこは増水して、黒い濁流が渦巻いていた。あんなところへ落ちたらまず助からない。
ギギギギ……。
手すりが折れて、弓なりにしなった。
俺と真央と弥生が、それにぶら下がって落ちそうになっている。
かろうじて俺が二人の服を握りしめているから落ちていないものの、二人が喧嘩をやめないから引き上げられない。
「やめろ……お願いだから今はやめてくれ!」
「ちゃんと持ってて、湊!」
「落とすんじゃないわよ!」
「俺が悪いのかよ!」
俺は歯を食いしばって引き上げようとした。三人はベランダで荒い息を吐いた。
「もう、いい加減にしてくれ……」
その時だった。
バキバキバキバキ……。
ベランダが崩れた。
「あっ!」
「きゃああっ!」
そら言わんこっちゃない……!
三人は悲鳴を上げながら、川の中へ落ちていった。




