第陸話 支配とは愛の別名だ
俺の唇に弥生の舌が差し込まれ、歯茎や、唇の裏を這い回る。
だが、俺が弥生の体に手を伸ばそうとすると、彼女はそれをそっと払い除けた。
そして優しく耳元で言う。
「触らないで」
俺はまるで意味がわからなかった。
俺に接触するのが嫌なのか。では、なぜ口づけをした?
「私は、あなたが縛られている色々なものから、解放されるべきだと思っているの」
「そんなこと、俺に必要なのか」
すると弥生は妖艶に笑った。
「当たり前でしょ。しがらみを捨て去ることは、あなたが、あなたらしく生きることよ」
弥生の白い指が、俺のシャツの中へ滑り込んでくる。
「人間は突き詰めれば、一匹の獣と同じ。それなのに、カッコつけていろんな仮面を被ってるのよ。それは不自然なことだわ」
俺は弥生の強い目力に吸い寄せられていた。彼女の言うことが、もっともだという気がしていた。
その時、玄関の扉が叩かれた。
俺はハッとして玄関を見た。それは警察だった。
俺は残念なような、助かったような、複雑な心境だった。だが、おそらく残念だったのだろう。弥生は俺の顎に人差し指をちょっと当てて、優しく微笑んだ。
「湊……あなたは私の望むように、丸裸になればいいのよ。難しく考えることはないわ」
弥生はそう言うと、最後にもう一度だけ口づけをした。
警察の取り調べは、思ったより長かった。
俺と弥生は別々の部屋で事情を聴かれた。
影山には、弥生への接近禁止命令が出ていたらしい。そのせいもあって弥生は完全に被害者として扱われていた。俺も正当防衛を認められて、その日のうちに解放された。
母親が迎えに来ていて、泣きながら説教をしてくる。だが、それは俺の心に届かない。そんな上っ面な、綺麗事ばかりの台詞はもううんざりだった。
何かが変わってしまった。
これまで大事だと思っていたことが、急に無価値に思えて来た。それとは逆に、俺は自分自身に関心を持つようになった。俺が今、何を感じていて……何が好きなのか。
それはもう弥生以外に、考えられなかった。
母親に連れられて警察署を出ると、外は真っ暗だった。
雨が降り始めていた。
母親は俺をタクシーに乗せて、家へ向かった。途中、色々と話しかけられたが、俺は上の空だった。家に帰ると、俺は風呂も入らず自室に閉じこもった。
母親は心配して、何度も部屋をノックしたが、俺は返事をしなかった。
俺は、隙をみてこっそりと窓から抜け出した。
それは、弥生の元へ向かうためだった。
外は冷たい雨が降っていた。
弥生のマンション裏にある川も、雨で増水している。
俺はずぶ濡れになりながら、弥生の家へ向かって歩いていた。
だが俺は気付いていなかった。
俺の背後から、濡れながらついてくる何かがいることを。
◆
その日、俺は弥生と一線を越えた。
弥生は絶対に、俺に主導権を握らせなかった。
許可なく触れることさえ禁じられたのだ。
だが、俺は歓喜に打ち震えていた。
自分の中の恥ずかしいところをさらけだす、着飾らない自分でいられる解放感を感じていた。
それでいて、弥生は俺に所有されるという感覚を望まなかった。
むしろ俺が弥生から鎖で縛られているような錯覚を受けた。
俺は今なら影山の言っていたことがわかる。
あいつはこれを、悪魔的だと言っていたのだなって。
すべてが終わって、俺と弥生はベッドで抱き合いながら横になっていた。
俺は弥生の顔を見つめた。
「どうして、助けを呼ばなかったんだ?」
すると弥生はつまらなさそうに天井を見た。
「叫んでも誰も来ないってわかってたから」
「そんなの、大声を上げないと誰も気付かないよ」
「叫べば誰かが助けてくれるの? 日本刀を持った男から守ってくれる? 今の時代……そんな人いないわ」
雨粒の落ちる音が、窓の外で聞こえていた。
「あなたしかいなかったの」
弥生はジッと俺の顔を見た。
「もし、あの状況で私が生き延びられるとしたら……あなたが助けにくることだとわかっていたから」
「じゃ、俺がいかなきゃ、あのまま死ぬつもりだったってのか……」
「ふふふ、来ると確信していたわ」
弥生は妖艶に微笑んだ。
「影山と……前の学校で何があったんだ」
すると、弥生はジロリと一度睨むと、プイと俺に背中を向けた。その肌はなめらかで、背骨のうねりからできるビーナスラインが、美しい曲線を描いていた。
「随分とつまらないことを聞くのね」
「え?」
俺が覗き込むと、弥生はまた仰向けに戻った。
「悩みというものはね、未来と過去から生まれるの」
彼女はそういうと、俺の方へ身体を向けた。
「だから私には今しかない……今を精一杯生きるだけなの」
弥生は強い目で俺をみつめて来た。
「あなたがもし、私の過去を聞きたいのなら、今すぐここから出ていって。もし、そうでないなら……」
弥生は俺にそっと寄り添って来た。暖かな柔肌が俺に触れる。
窓の外には、雨音が響いていた。
部屋の中には弥生の甘い匂いと、雨の匂いが混ざり合っていた。




