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一階のテラスでぼんやりと庭を眺めながら、月葉はカップに口をつけた。
砂糖抜きの紅茶を一口飲み、一人言のように言う。
「さっきのローユンだけどさ」
「ああ」
白いテーブルの向かいで、イーライが答える。
食後のお茶の一時だが、月葉がイーライに付き合ったのは、話したいことがあるからだろう。
「ああいうあからさまな態度って、今までなかったよね」
「あからさま、というほどではないよ」
月葉が聞こえよがしに舌打ちをする。
「あのね、あなたの尺度でものを言わないでよ。
ローユンはあなたと違って、節度ある人間なんだからさ」
「きみがローユンの肩を持つとはね」
「逆だよ。
彼を味方しているんじゃなくて、あなたを非難しているだけ」
「はいはい、それで?」
おざなりに受け答えして、クッキーを摘まむ。
普段自分では食べないが、レイを手懐けるために部屋に置いてあったものだ。
「ローユンのあの行動、意味するところはなんだと思う?
ふんだんな経験に支えられた、あなたの意見を聞かせて欲しいなあ」
「一言多いね、月葉は。
しかしまあ、きみが考えているようなことでしょう」
「まずいじゃないか」
「いやなの?」
「ちょっといや」
月葉が姉ばなれするのには時間がかかりそうだ。
イーライは軽く肩を竦めて、またクッキーを囓る。
それを見やって、月葉が眉をしかめた。
「あれだけ食べた直後に、よくお菓子なんか入るな」
「うん?」
たった今気づいたように、イーライは摘まんだクッキーに目をやった。
口ヘ放り込み、噛み砕いて首を捻る。
「確かにおかしいな。
わたしが間食をしたくなるなんて」
「おかしくないよ。
それ副作用」
不意に声がするのには、もう免疫ができた。
可愛い声にふり向くと、窓からゴーシュが覗いていた。
イーライがクッキーを差し出すと、誘い出されて飛んでくる。
「副作用というと、カンフルのかな?」
「そう、お腹がすくのは薬のせい」
貰ったクッキーをゴーシュも囓る。
今になってイーライは心配になった。
背に腹はかえられなかったとはいえ、異世界猫製の薬は、果たして信用できるのか。
「副作用はそれだけかな?」
「うん、それだけ」
「症状があらわれる期間は?」
「個体差があるけど二ヶ月間くらい」
ちょっと待て、と言いたい気分にイーライはなった。
冗談ではない、こんな調子で二ヶ月も食べ続けたら、とても今の体重を維持できない。
「なんとかならないの、ゴーシュ。
食べている自覚がないというのは、とても怖ろしいことなんだよ」
少なくとも地球人には、とつけ加える。
しかしゴーシュはキャハハと朗らかに笑った。
イーライの深刻さが、まるでわかっていないことは明らかだ。
「なんとかなるなら副作用とは言わなーい。
だからカンフルを打つとね、みんな平均で二十パーセントくらい体重が増えるの」
自分の体重の二十パーセントを瞬時に算出して、イーライは血の気が引いた。
バッと立ち上がり室内へ駆け込む。
その後ろ姿を目で追って、月葉が会心の笑みを浮かべた。
そしておもむろに、揉み手をしながら立ち上がる。
イーライが飛び込んだのはバスルームだった。
無情なヘルスメーターの数値に愕然とする。
「なぜだ?」
なぜ一キロ近くも体重が増えているのか。
確かに今朝はたくさん食べたが、昨夜は夕食も摂っていないのに。
「あっ、もしや!」
イーライは胸に手をあてた。
そういえば昨日、宇宙空母での宴会で、終始ばくばく食べていたような気がする。
「イーライって、もしかして太りやすい体質?」
かけられた月葉の声に、背中を自動小銃で撃たれたような気がイーライはした。
振り返ってみると、半分だけ開けたドアから、嬉しそうに月葉が覗き込んでいる。
「とくに、そういうわけではないよ」
果たしてそうか。
色んなことに無節操なイーライも、ことプロポーションの維持にかけては、厳しく自分を律していることを月葉は知っている。
知っていてなお、からかうこの快感。
「二十パーセント増まで、あと何キロかな?
二ヶ月後が楽しみだよねえ」
「忘れていたけれど、人の不幸を喜ぶタイプなんだったね、きみは」
「日頃の並々ならぬご厚意に、ささやかな恩返しをしたくって」
「……」
絶句して、イーライは心の中で自分を罵った。
なんという失態、十歳も年下の月葉に言い負かされるとは。
久々に月葉は溜飲を下げた。
月葉がゴーシュを連れて行くと、貴奈津は珍しく机に向かっていた。
しかし、教科書を開いていたわけではなく、ただひたすらぼんやりとしていたらしい。
しばらく、こんな状態が続くのかもしれない。
「わたしに電子メール?
誰から?」
床の絨毯に場所を移して、ゴーシュに聞く。
「レイ」
「なんでわざわざ電子メールなの?」
「知らない。
ボク、頼まれただけ」
差し出されたのは例のレンズで、メールの読み出しかたとしまいかたをゴーシュが教える。
「放っておいても五十年くらいは平気だけど、たまに日光に当ててやってね。
動力源はソーラーだから」
「うん、わかったわ」
じつはよくわからないままに、貴奈津が肯く。
「じゃあボク、これで帰るから。
さよなら貴奈津、月葉もね。
地球でみんなと一緒に暮らして、けっこう楽しかった。
今度はボクたちの星に遊びに来てね」
「え?」
ちょっとゴーシュ、それどういう意味?
持ちあげた貴奈津の手の先で、もう一度「さよなら」と言ってゴーシュは消えた。
芽ばえた懸念に、貴奈津と月葉が顔を見あわせる。
「とにかく、その電子メールとやらを見てみようよ」
「そ、そうね」
ゴーシュに教わったとおり操作すると、床に置いたレンズの上に、身長十五センチくらいのレイがホログラフで表れた。
「あら、可愛いじゃない」
わけのわからんBGMが流れ、小さなレイが日本式のお辞儀をして話し出す。
「やあ、貴奈津。
ボクはこれから故郷の星に帰るんだ。
そこで、このレンズを特別におまえにプレゼントする。
そのうちまた遊びに来てやるからな。
それまでに、おまえももう少し知的な生物に進化しておけよ。
じゃ、バイバーイ」
言って手を振り、その場でおかしな踊りを始める。
貴奈津と月葉は踊るレイのホログラフを眺めて、しばらく身動ぎもしなかった。
この電子メールが、あまりに呆気ない別れの挨拶なのだと、ようやく飲み込む。
「なによ、これ!
あんまりだわ」
「ぼくもそう思うよ」
「こんなに急に帰るなんて、レイは一言も言っていなかったじゃないの」
最後のほうは声がかすれた。
顔をおおった両手の間から鳴咽がもれ、すぐに貴奈津は声を上げて泣き出した。
泣きながら月葉に訴える。
「こんなの、ひどいじゃない」
「うん……」
貴奈津の背に手をまわして慰めながら、ずいぶんなやりかただと月葉も思う。
だいたい貴奈津が可哀想だ。
それに、こんな別れかたはレイにとっても不本意ではないのか。
とすると、考えられる理由がある。
「もしかすると貴奈津。
レイはお別れの挨拶が苦手なのかもしれない。
だから、電子メールにしたのかも」
それはありえる、と貴奈津は思った。
自分だってそうである。
しかし、だからといって、こんな電子メールで済ませていいのか。
突然こんなものを送られたら、心の準備が出来ていないこちらはたまらない。
「散々人様に迷惑をかけるだけかけまくって、帰るときだけ一言で済まそうなんて、勝手すぎるわよ」
あまつさえ、地球文明を一度は滅亡の縁まで追い込む事態を引き起こしておきながら。
これが外交交渉なら即、国交断絶ものであろう。
しかし、そんなことはじつはどうでもいいのだ。
貴奈津はきちんとレイを送り出してあげられなかったことが、悲しくてくやしいのである。
「そういえば、また遊びに来るとレイは言ったな。
そうだよ貴奈津。
レイはきっとまた会いに来るつもりなんだ。
だから、挨拶が簡単だったんだよ」
貴奈津の背中を叩いて励ましてやる。
だが、月葉は自分の言ったことを、本気で信じたわけではない。
そして、貴奈津もだまされなかった。
「うそ!
レイの故郷と地球じゃ、時間の流れが違いすぎるじゃない」
向こうの二ヶ月が、こちらでは一万八千年になる。
レイが一週間後に来てくれたとしても、地球では二千年あまりが過ぎ去っている。
「レイがいったん故郷に帰ったら、もう二度と会えないのよ」
貴奈津の悲痛さが伝染して、月葉もつらくなってきた。
泣き崩れる貴奈津とうな垂れる月葉の前で、小さなレイは踊り続ける。
映像はどこかで繰り返しになっているのだろう、小さなレイは、スイッチを切るまで永遠に踊り続けるらしかった。




