答えは猫です
午前終盤の講義室は、春の陽だまりのような微睡に包まれていた。
前方では教授の淡々とした声が響き、チョークが黒板を叩く乾いた音と、タイピング音がBGMのように流れている。
その静かな空間で、ユキはノートを広げたまま、魂が抜けたようにぼんやりとしていた。
講義の内容は、一文字も頭に入っていない。
視線の先にあるのは、机の上に伏せられたスマートフォン。
もう見ないと決めたのに、吸い寄せられるように指が動く。
ロックを解除し、メッセージアプリを起動する。
トーク一覧。
その中に、昨日までは存在しなかった、夢のような文字列。
《 依緒 》
視界に入るたび、心臓が跳ねる。
(本物だ……)
現実味のない幸福感に浸りながら、そっとトーク画面を開いた。
まだやり取りは何もない。けれど、画面上部の円形アイコンに、ユキの目は釘付けになった。
「……え」
小さく、掠れた声が漏れる。
そこにいたのは、白くてふわふわの、掌に乗りそうなほど小さな子猫だった。
潤んだ大きな瞳で、真っ直ぐにカメラを見つめている。
ユキは、そのまま思考を停止させた。
あの、ステージの上で圧倒的なオーラを放っていた依緒。
鼓膜を震わせる、鋭くも切ないあの歌声。
この世の理を超越したような「神」のアイコンが――。
(うそでしょ……子猫?)
ユキは堪らずスマホを両手で包み込み、胸の前に引き寄せた。
心臓の鼓動が耳元まで響く。
(まって、かわいい。無理。かわいすぎる)
ライブの時の、あの近寄りがたいまでのカリスマ性と、このあまりにも無垢な子猫。
その事実が、ユキの精神を限界まで揺さぶる。
(尊い……尊すぎる……!)
天を仰ぎ、危うく机に突っ伏しそうになった、その時だった。
前の席に座る男子が、ひょいと肩越しに振り返る。
「……香坂。呼ばれてる」
「えっ!?」
心臓が口から飛び出しそうなほど驚き、ユキの肩が跳ねた。
言われるままに教壇へ視線を向けると、チョークを止めた教授が、眼鏡の奥から冷ややかな眼差しをこちらに注いでいる。講義室中の視線が、一斉に彼女へ突き刺さった。
「香坂さん。今の話、理解できたかな?」
数秒前まで「神のギャップ萌え」の深淵にいたユキは、完全にフリーズした。
スマホの画面には、まだ愛くるしい子猫。そしてその上に、輝く《 依緒 》の二文字。
脳内メモリの100%をそれらが占拠し、学術的な思考を一切拒絶している。
「え……えっと」
沈黙が数秒、永遠のように引き延ばされる。
真っ白になった頭から、辛うじて絞り出されたのは、最も純粋で、最も場違いな一言だった。
「…………猫、ですか?」
講義室の空気が、氷点下のように凍りついた。




