無自覚と煙草の香り
講義室を出た瞬間、ユキは小さく息を吐いた。顔がまだ熱い。さっきの空気が、頭から離れない。
「……猫ってなに……」
自分で呟いて、さらに顔が赤くなる。教授の沈黙、周囲の視線、前の席の男子の吹き出しそうな顔。思い出すだけで胃がきゅっと縮む。ユキは俯いたまま廊下を歩いていた。人と目が合わないように、なるべく下を見て、なるべく早く、この場所から遠ざかりたかった。
そのとき。
「……ユキ?」
聞き慣れた声がした。顔を上げると、そこに葵が立っていた。長身。アッシュグレージュの髪。壁にもたれるように立って、こちらを見ている。
「葵」
ユキは少しだけ安心した顔をした。
「なにしてるの?」
「講義終わった」
葵はそう言ってから、少しだけユキの顔を見た。
「……顔赤いけど」
「いや、ちょっと……」
言いかけて、やめる。説明したくなかった。
葵はそれ以上聞かなかった。ただ、少しだけ笑う。その軽さが、今のユキにはありがたかった。
ふと、ユキは葵の服に目が止まった。グレーのパーカーに、黒いパンツ。昨日見た、あの組み合わせだ。
「葵、昨日と同じ服だね」
その瞬間、葵の肩がほんのわずかに止まった。
「……え」
「珍しくない?」
ユキは首を傾げる。
葵は一瞬だけ言葉に詰まった。
やば、と頭の中で小さく呟く。
昨夜のホテル、そのまま帰宅、シャワーだけ浴びてほぼそのまま出てきた。完全に油断していた。
「いや、まあ」
と言いかけたそのとき、ユキが一歩近づいてきた。
くん、と鼻を寄せる。葵の肩口のあたりに。
葵が固まる。
「……あれ」
もう一度、くん。
「しかも」
ユキは真顔で言った。
「なんかお酒とタバコ、臭い……」
葵の思考が一瞬止まる。
あー、と心の中で天井を仰ぐ。このタイミングで、この状態で。まさかユキに嗅がれるとは思っていなかった。
葵は静かに息を吐いた。
「……気のせい」
「ほんと?」
「たぶん隣のやつが吸ってた」
適当な嘘だった。
ユキは「ふーん」と言ってから、また少しだけ葵を見た。そして、何でもない顔で言う。
「でも葵ってさ」
少しだけ笑う。
「ほんと女の子にモテそうだよね」
葵は一瞬、言葉を失った。それからゆっくりと、小さく笑う。
「……今それ言う?」
「え?」
本気で分かっていない顔だった。
葵はその顔を見て、少しだけ目を細める。
――ほんと。俺の気持ちなんてわかっちゃいねぇ。
でもそれは、口には出さなかった。




