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第3話 ハンス無双、倉庫の扉は「荷物」です

王宮の最地下、ひんやりとした湿った空気がどんよりと漂う食糧備蓄庫の前で、第一王子エリックは血管が浮き出るほど顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。


彼の背後には、空腹で腹の虫を鳴らし、魔導ランプが消灯したことによる凍えるような寒さでガタガタと無様に震える貴族たちと、面目を潰されて苛立ちを隠せない騎士団の面々が、抜き身の武器を構えて控えている。



「そこをどけと言っているんだ、この不気味な木偶の坊が! 倉庫の中にある小麦も、残されているはずの予備の魔石も、すべて今すぐ外に出せ! これらはすべて、尊き王家の所有物だぞ! 平民風情が私物化するなど、大逆罪で即座に極刑に処せるのだぞ!」


エリックの鼓膜を破らんばかりの怒声を、まるで春の微風であるかのように平然と受け流し、巨大な石造りの頑丈な扉の前に泰然と立ちはだかっているのは、荷運び役のハンスだった。

彼は、かつて騎士団の誰もが数歩で音を上げるほどの重い荷を一人で背負いながら、一歩も遅れることなく、大陸中のあらゆる険路や魔境を歩き通した男だ。

その丸太のように逞しい両腕は今、静かに、そして強固に胸の前で組まれている。


「……重ねてお言葉ですが、エリック殿下。この倉庫内に保管されている物資はすべて、前管理官であるユーリ様が、他国の商会と『個人名義』において、血のにじむような交渉の末に締結し、一時的にここに預かっているものです。彼女が本日までに受理すべきであった、一方的な解任に伴う未払い賃金、ならびに各種清算が正式に終わるまで、これらは法的に『預かり資産』として扱われます。王家の勝手な判断で消費させるわけにはまいりません」


「貴様、たかが日雇いの平民の分際で、この私に口答えし、説教する気か! おい、騎士団! 何をボサッと遊んでいる! その不敬者を今すぐ叩き伏せ、その背後にある石の扉を力ずくでこじ開けろ!」


エリックの狂ったような命令により、十数人の精鋭からなる重装騎士たちが、一斉に鋭い抜き身の長剣を構え、じりじりとハンスを包囲するように距離を詰めた。


「……やれやれ。やはり、ユーリ様という『知性の塊』がこの場にいらっしゃらないと、この国の立派な騎士様方は、文字の読み書きどころか『物の道理』や『所有権の概念』すら、綺麗さっぱり忘れてしまわれるようだ」


ハンスは深く、呆れたような溜息をつくと、足元に立てかけてあった、ある「巨大な木箱の蓋」を、まるで羽毛でも扱うかのようにひょいと右手一本で持ち上げた。

それは、彼が普段、馬車に積み込んだ荷物が険しい山道で荷崩れを起こさないよう、固定するために使っている、ただの分厚いオーク製の板切れに過ぎない。


だが――ハンスがその板切れを盾のように両手で構え、低く身構えた瞬間、地下倉庫を満たしていた空気が、まるで強力な重力魔法でもかけられたかのように一変した。

それは、幾多の死線を潜り抜けてきた、圧倒的な強者だけが放つことのできる、濃厚な威圧感そのものだった。


「止まれ! ――と言っても、今のあなた方には何を言っても無駄なのでしょうね。ならば、この私が直々に、基礎から教育して差し上げましょう。荷運びの基本とは、何よりもまず『重心の絶対的な制御』です」


雄叫びを上げながら突進してきた、先頭の頑強な重装騎士が、渾身の力で長剣を振り下ろす。

ハンスはその直線的な剣筋を避けることもせず、手にした「木箱の蓋」の端を、ほんのわずかに傾けて、軽く撫でるように滑らせて受け流した。


ガギィィィン――ッ!!!


地下空間に激しい金属音が炸裂する。凄まじい衝撃と共に、攻撃を仕掛けたはずの騎士の身体が、まるで自重を失ったかのようにふわりと宙へと浮き上がった。

ハンスは流れるような動作でその蓋を水平に大旋回させ、後続から一斉に襲いかかろうとしていた騎士たちの足元を払うように、鋭く一閃させたのだ。


* * *


「ぐわあああッ!?」

「な、なんだこの、馬鹿げた質量と力は……っ!?」


鎧の擦れ合う激しい音と共に、屈強な騎士たちが次々と床へ叩きつけられていく。ハンスは一歩もその場から動くことなく、蓋をピタリと静止させて冷徹に言い放った。


「荷物を運ぶ際、足元を疎かにして重心を乱しては、運べるものも運べなくなります。……さあ、その乱れた姿勢を正し、そこに正座なさい」


ハンスが低く、しかし逆らいがたい魔力のような説得力を持った声で命じると、信じられない奇妙な現象が起きた。

弾き飛ばされ、床に無様に転がっていた騎士たちが、まるで目に見えない不可視の手に身体を強制的に操られるかのように、空中で奇麗に姿勢を制御され、着地した瞬間に、吸い込まれるようにして床へ膝をついたのだ。

それも、ただ倒れ込んだのではない。指先まで綺麗に揃え、背筋を限界までピンと伸ばした、完璧なまでの、寸分の乱れもない「正座」の姿勢であった。


これこそが、ユーリと共に大陸全土の悪路を歩み、あらゆる凶悪な魔物や盗賊の手から、傷一つつけずに大事な物資を守り抜くために磨き上げられた、ハンス独自の絶対不可避の必殺技「完璧な礼儀作法(物理)」であった。


「な、なんだこれは……っ!? 身体が……言うことを聞かん!? なぜ俺は、よりによって平民の前でこんな姿勢で正座をしているんだ!?」

「膝の関節が……完全に固定されて動けない……っ!」


冷たい床の上で、脂汗を流しながら必死にもがく騎士たちの無様な姿に、エリックは完全に狂乱した。


「我が国が誇る最強の守護騎士団が……ただの、文字も読めないはずの荷運び役に、一瞬で無力化されただと!? そんな馬鹿なことがあってたまるか!」


エリックの耳障りな絶叫を完全に無視し、ハンスは、背後にある倉庫の重厚極まりない、数トンの重量を誇る石造りの扉へと、ゆっくりと向き直った。


「さて。ユーリ様がおられない、沈みゆくことが確定したこの泥舟に、これほど上質な物資の数々をいつまでも残しておくのは、治安の観点からも非常に危険ですね。……ですので、これらはすべて、ユーリ様の正当な『お荷物』として、この私が責任を持って、今すぐここから運び出させていただきます」


「なっ……何を、寝言をバカなことを言っている! その巨大な、城の壁の一部でもある石の扉が、人力で動かせるはずが――」


エリックの負け惜しみの言葉が最後まで紡がれるより、ハンスの行動の方が遥かに早かった。

ハンスは、分厚い倉庫の石の扉の、わずかな隙間に太い指先をかけると、フンッ、と短く息を吐いた。


グォォォォォォン…………ッ!!!


王宮全体が地震でも起きたかのように激しく揺れ、地下室の天井からパラパラと砂埃が舞い落ちる。地鳴りのような凄まじい轟音と共に、ハンスは数トンはあるはずの巨大な石の扉を、周囲の強固な石枠ごと、強引にメリメリと引き抜いてしまったのだ。


「よし、これで中身を傷つけることなく、倉庫ごと一括して運べますね」


ハンスは、引き抜いた巨大な扉(と、その背後に直結していた、倉庫内の全食糧と魔石を瞬時に詰め込んだ特製の広容量マジックバッグ)を、まるで軽いリュックサックでも背負うかのように、軽々とその強靭な背中へと担ぎ上げた。


「ではエリック殿下、ならびに騎士の皆様、お先に失礼いたします。私はどこまでいっても『ただの荷運び』ですので、主の正当な荷物を、安全な場所へと運ぶのが唯一の仕事でございますから」


/

ハンスは、唖然として開いた口が塞がらないエリックと、相変わらず床に完璧な正座のままピクリとも動けない騎士たちの間を、鼻歌でも歌い出しそうな足取りで、悠々と歩き始めた。


「ま、待て! 待てと言っているんだ! それを、我が国の食糧を持っていくなあああーーーッ!!」


薄暗い通路に、エリックの惨めな絶叫が虚しく響き渡る。

ハンスは一度として振り返ることはなく、そのままの足取りで、正面から立ち塞がろうとした城門の防衛兵をも「作法」で蹴散らし、主であるユーリが待つ、栄華を極める隣国へと歩みを進めた。

その背中に背負った、あまりにも重い「荷物」の重みは、彼にとってはこの上ない誇りであり、彼が胸に抱く、主への絶対的な忠誠心の重さそのものだった。


こうして、ヴェルダン王国の王宮からは、餓死を免れるための最後の希望であった「食糧」と、それを物理的に守るための「扉」までもが、完全に消え去ったのである。


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