第2話 物流の停止と「当たり前」の崩壊
ユーリ・ランバートが「無能」の烙印を押され、ヴェルダン王国の王都を追放されてから、わずか三日のことだった。
きらびやかな装飾に彩られたヴェルダン王宮を包んでいた、新聖女の就任を祝う甘ったるい祝賀のムードは、ある朝の食卓に運ばれた、たった一杯の「紅茶」によって無惨にも打ち砕かれることとなった。
「……おい、給仕! これは一体何だ? ドブから汲んできた泥水か? それとも、私を暗殺するための毒か!?」
第一王子エリックが、目の前の白磁のカップを睨みつけ、顔を真っ赤にして吼えた。
かつて彼が毎朝のように愛飲していた、隣国グラン・ルミナス帝国の特産であり、「黄金の雫」と世界中で謳われる最高級茶葉の芳醇な香りは、そこには微塵もなかった。
そこにあるのは、まるでその辺の雑草を適当に毟って煮出したかのような、鼻を突く青臭さと、舌が痺れるほどのえぐみが強い褐色の液体だった。
エリックの怒声に、給仕係の青年は全身をガタガタと震わせ、絨毯に膝をついて平伏した。
「も、申し訳ございません、エリック殿下! 今朝、これまで我が国に最高級茶葉を納品してくれていた『ルミナス中央商会』から、突如として一通の書簡が届きまして……! そこには『不慮の事態により、貴国への最高級茶葉の供給を無期限で停止する。今後はこの、家畜の餌にも劣る三級品しか卸せない』との一方的な通告があったのです……!」
給仕係の涙ながらの言い訳に、エリックは激昂し、拳で贅沢なマホガニーの机を激しく叩きつけた。
「三級品だと!? この偉大なるヴェルダン王国の王家に対して、これ以上の不敬があるか! そんな無礼な商会などこちらから見限ってやればいい! 他の商会から、いくらでも最高級の茶葉を買い漁れば済む話ではないか!」
「それが……それが、どこの商会も、昨日から一斉に手のひらを返したように同じ対応をとっておりまして……。これまでは我が国の信用を盾に『半年後の後払い(ツケ)』が認められていたのですが、どの商人も口を揃えて『現金先払い以外は一切受け付けない』と言い出したのです! しかも……」
「しかも、何だ! 歯切れの悪い言い方をするな!」
「は、はい! 提示された価格が、これまでの『十倍』という法外な値段でして……。おまけに、追放されたユーリ様の『個人名義の推薦状』を持っていない新規の客とは、そもそも商売の口も利かないと、王室の使者であっても門前払いを食らう始末なのです……!」
その報告を聞いたエリックは、忌々しげに派手な舌打ちをした。
「チッ、どいつもこいつも平民の分際で調子に乗りおって……!」
彼は苛立ちを紛らわせるように、隣の席で不安そうな表情を浮かべながら、高価なオムレツを小さく口に運んでいた聖女セシリアへと視線を向けた。
「……フン、気にするな、セシリア。商人どもの小賢しいお遊びなど、放っておけばいい。食べ物や飲み物が足りないというのなら、君のその素晴らしい奇跡の魔法で、無から生み出せばいいだけのことだ。そうだろう?」
エリックの期待に満ちた言葉に、セシリアは一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐにいつもの蠱惑的な笑みを取り戻した。
「ええ、もちろんですわ、愛しのエリック様。商人たちの機嫌を伺うしか能のなかったユーリ様とは違い、この私は神に選ばれた聖女。そのような安物の茶葉など、私の魔法の足元にも及びませんわ。……はっ!」
セシリアは誇らしげに胸を張り、仰々しい身振りでテーブルの上へと白く細い手をかざした。
彼女が精神を集中させると、その指先から、見る者の目を眩ませるような純白の聖なる光が、これでもかと放たれた。
光が収まった次の瞬間、豪華な朝食のテーブルの上には、山盛りの「まるで宝石のように五色に輝く、見たこともない瑞々しい果実」が、突如として出現したのである。
食堂に控えていた貴族たちや、エリックの側近たちは、その圧倒的な視覚的効果に満ちた光景に「おお……!」と地鳴りのような歓声を上げた。
「素晴らしい! これぞまさに神の奇跡だ!」
「平民から買い叩く必要など、最初からなかったのだ!」
誰もがセシリアの「奇跡」を称賛し、ヴェルダン王国の輝かしい未来を確信した。
だが――その歓声が、血の凍るような悲鳴と絶叫に変わるまで、一時間もかからなかったのである。
* * *
セシリアが魔法によって生み出した、美しく輝く果実を「美味だ、美味だ」と競い合うようにして口にした大臣や貴族たちが、次々と顔を青白くさせ、あるいは土気色に変えて、その場に倒れ込んだのだ。
「う、うあああッ!? お、お腹が……腹が引き裂かれるように痛いッ!」
「毒だ! 誰か、医者を、解毒薬を……!」
豪華だった食堂は、一瞬にして地獄絵図と化した。床を転げ回り、胃液をぶちまけて苦しむ重臣たちの姿に、エリックは完全に狼狽した。
「な、何事だ!? これはどういうことだ、セシリア! 君の魔法で作った果実だろう!?」
「そ、そんなはずはありませんわ! 私の聖なる魔法は完璧ですもの! 神の恵みが毒になるはずなんて……あ、あら? ああららら……!?」
セシリアがうろたえ、声を裏返したその時、信じられない光景が広がった。
テーブルの上にまだ残っていたはずの、あの「宝石のような果実」たちが、シュワシュワと奇妙な音を立てて、まるで朝霧が太陽に照らされて消えるように、みるみるうちに霧散し、消滅していったのだ。
後に残されたのは、空腹のまま内臓を激しく侵され、苦痛に顔を歪めて倒れ伏す貴族たちと、魔法の強力な反動によって、これまでに経験したこともないほどの酷い下痢と嘔吐に見舞われた哀れな大臣たちの姿だけだった。
これこそが、ユーリが予見していた『魔法の真実』だった。
この世界において、無から有が生じることはない。
セシリアが「聖女の奇跡」と称して作り出したものは、魔力によって一時的に構成された、中身の伴わない「幻影」に過ぎなかったのだ。
人間の身体は、実体のない魔力の塊を「栄養」として受け付けることはできない。それどころか、異物として拒絶反応を起こし、消化器官を過剰に刺激して暴走させてしまう。栄養で満たされるどころか、彼らはただ、己の魔力と体力を激しく消耗しただけだった。
そんな大混乱の最中、追い打ちをかけるように、王宮の管理兵が顔を真っ青にして食堂へと駆け込んできた。
「で、殿下! 大変です! 魔石の備蓄が、たった今、完全に底を突きました! それに伴い、王宮の最深部にある、すべてのエネルギーを賄っていた魔導炉が、完全に停止いたしました!」
「馬鹿なことを言うな!」
エリックは苦しむ貴族たちを踏み越えるようにして、兵士の胸ぐらをつかみ上げた。
「魔石の備蓄は、あのユーリの帳簿によれば、まだ最低でも一ヶ月分は残されていたはずだぞ!」
「そ、それが……! ユーリ様が裏で密かに管理・維持していた、王宮内の『魔力還流システム』ですが……。あれはユーリ様独自の、極めて緻密な魔力調律が毎日施されることで、初めて維持できる特殊な構造だったようです! 彼女という制御手を失った瞬間、システムの消費効率が従来の『百倍』にまで跳ね上がり……一ヶ月持つはずだった備蓄が、わずか三日で全て燃え尽きてしまいました!」
「なんだと……っ!?」
兵士の言葉を証明するかのように、王宮の天井や壁を美しく彩っていた魔導ランプの光が、パチパチと不吉な音を立てて、一つ、また一つと消灯していった。
豪華絢爛だった廊下や謁見の間は、瞬く間に薄暗い、不気味な静寂へと包まれていく。
それだけではない。魔導炉の停止によって、城内全体を暖めていた温熱魔導具もすべて沈黙した。外から容赦なく吹き付ける冬の刺すような冷気が、じわじわと、しかし確実に城内を侵食し始めた。
「……クソッ! あの平民女、去り際にこんな小細工をしていきおったか……!」
エリックは自身の無知を棚に上げ、ユーリへの憎悪を募らせて激しく歯噛みした。
「おい! ハンスはどうした!? あのただのデカブツ、荷運びの男だ! あいつのあの異常な怪力なら、力ずくで街の商人どもを脅し、魔石や食糧を強引に城まで運ばせることくらい容易いだろう! 今すぐあいつを呼べ!」
エリックが狂ったように怒鳴り散らした、その時。
今度は王宮守護騎士団の伝令兵が、甲冑をガタガタと鳴らし、恐怖で瞳を限界まで見開いて転がり込んできた。
「で、殿下ぁーーーッ!! 非常事態です! 地下にある王室専用の食糧倉庫の前に、あの荷運びのハンスが立ち塞がっておりまして……! 物資の引き渡しを求めた我が騎士団の一個小隊が、一人残らず、全員その場で『正座』させられております!!」
「……は? 正座だと……?」
エリックは、あまりにも状況と噛み合わないその報告に、自分の耳を疑った。
ヴェルダン王国が誇る、屈強で、並外れた武力を誇るはずの重装騎士たちが。
たかが一人の、魔力も持たない下級平民の荷運び役に、手も足も出ずに正座させられている?
薄暗く冷え切った王宮の中で、その報告は、もはや「単なる身内の反乱」という言葉では片付けられないものだった。
それは、この愚かな王国に訪れる、確実で残酷な「終焉」を予感させる、最初の明確な地鳴りであった。
王宮から、これまで当たり前だった光も、温もりも、食事も消え去った。
傲慢な支配者たちが、本当の意味での「飢え」と「寒さ」、放置すれば確実に訪れる絶望を思い知るまで、あとわずか数時間のことだった。




