第六話 分岐点
千里は脇目も振らずに走り出した。
日頃走ることなどないおかげで、ずいぶんとおぼつかない全力疾走だったが、とにかく無我夢中だった。
けれど、着物では大股で走ることなどできず、しばらくして見覚えのない景色が見えたところで、千里は立ち止まることになった。
「待って!」
繋ぎ止めるかのように千里の右腕を掴んだのは、九朗だった。
九朗に追いつかれていたことに千里が気づいたのは、息切れが治まって呼吸が落ち着いた頃だった。
「園村さん、離して!」
千里がそう言うと、九朗はぱっと掴んでいた手を離してくれた。
「さっきみたいに九朗と呼んでおくれよ。京矢のことで何か隠しているだろ」
「いいえ」
「そんなに青い顔をしていれば、聞くまでもなかったか。もしかして、未来予知で怖いものでも見たのかい?」
どうしてこの人は簡単に言い当てるのだろうか。
自分が未来予知なら九朗は読心術だ、なんて思っていれば、ふいに九朗が再び千里の手を引く。
「こっちだ。おいで」
「な、急に……」
あっという間に連れて来られたのは、すぐ近くの甘味処だった。
九朗は千里を席に座らせると、手早く注文する。
「みつ豆二つお願い」
「はあい。あら、今日は可愛い恋人さんを連れてるのね」
「まあね」
なんてことだ。そこはハッキリ否定してくれないか。
九朗はここの常連らしく、若い女給はくすくすとからかうように笑っている。
なぜか九朗はふふんと得意げな顔をしており、目線で抗議してやろうと思ったものの、女給が微笑ましそうに見ているものだから恥ずかしくて千里は俯いた。
「どう、ちょっとは落ち着いた?」
「……急になんなんですか」
「だって君、こうでもしなきゃ逃げちゃいそうだったから。それに、往来であれこれ話すよりここなら目立たないだろう?」
「それはそうですけど。佐倉さんはいいんですか」
「今頃館で仲間の誰かと花札でもやってるんじゃないかな。あいつもなんだかんだ言って僕と同じように入り浸ってるからね。京矢は多分、僕が君を悲しませることをしたんじゃないかって疑ってるよ。今帰ったら尋問されそうだ」
そう言って九朗は肩をすくめる。なるほど、京矢から見たらそう思えるのかと、少し申し訳なさを覚えた。
そうしているとすぐにみつ豆が運ばれてくる。
器に盛り付けられた半透明の寒天とえんどう豆にフルーツ。
黒蜜の甘い香りが食欲を唆る、見ているだけでもうっとりする一品だ。
いつもなら顔を綻ばせて食べていただろうが、今は違う。
甘いもので慰められているような気がして、なんだか自分らしくない。ますます気落ちしてしまいそうだった。
(一人で勝手に混乱して飛び出して、私は本当に何をやっているのかしら……)
だが次の瞬間、千里はそれをすぐさま撤回する羽目になる。
「それ僕の奢りだから。食べ終わるまでに何があったか全部教えて」
「なっ……ずるいわ!」
しまった。これでは逃げられない。
九朗はにこにこと笑っているが、千里を逃がす気は無さそうだった。
出されたものに手をつけないわけにもいかない。
ムッとした表情は隠さないまま、千里は諦めて白状することにした。
「……佐倉さんに、殺される夢です」
思った通り九朗は眉をひそめる。
「殺される? 何故だ、未来じゃ君たちは結婚して幸せになるはずじゃ」
「私にも分からないんです。どうも、幸せになるというのは嘘だったみたいで……」
本を渡して付け加えられた箇所、というよりもこれまで隠されていた部分をかいつまんで説明する。
「おかしいですよね。佐倉さん、全く怖いお人じゃなかったはずなのに。夢で見た佐倉さんと、今の佐倉さん、まるで違う人みたいで混乱してしまって……」
「確かに、未来の京矢は俺の知る京矢とは別人のようだな」
先日会った時点で既に、九朗は未来の京矢が想像できないと言っていた。
あの時もっと深く聞いておけばよかったと後悔してしまう。
「考えられる可能性としては、君が見た未来は全く別の世界なのか、それともこれから先数年の間に京矢の人格が大きく変わるような出来事が起こるか、ということだな」
「全く別の世界、ですか」
「そもそも、君と僕が出会った時点でここに記されている未来から現状が乖離し始めている。既にここにある通りの未来にはならないことが確定した今となっては、未来予知は現実の話では無くなったと言えるだろう」
未来予知の冒頭とも言える京矢との出会いは、今日で既に違うものになった。
それにより、京矢と結婚するこの先の流れも全て無くなったと考えられる。
だが、これだけでこの先起こる不幸を回避できたとは言い難い。
「でも、もし佐倉さんの人が変わってしまうような出来事がこの先起こるとしたら……」
変わったのは千里の未来であって、京矢の未来ではない。
もしこの先京矢の未来に不幸が降りかかるとしても、何らおかしくはないだろう。
「どうだろうな。京矢もなかなか難しい生い立ちをしているからな。無いとは言いきれない」
「心当たりでもあるんですか」
九朗は頷く。
「ああ。京矢が商社の御曹司なのは知っているだろ。ただ父親とかなり険悪な仲らしくてな。今も家を出て知り合いのツテで働いてるぐらいだし」
「えっ、そうなんですか」
通りで家を出て下宿生活を送っているわけだ。
京矢と九朗がそう歳が離れていないように見えたから、もしかすると学生なのかもしれないとも考えたが、思い返せば京矢は九朗と違い制服ではなかった。
それに、夢の中でも京矢の家族とはほとんど関わることは無かった。
むしろ、千里に対して嫌悪の様子がうかがえたぐらいだ。
「どうも家族仲が相当に悪いらしく、あいつは絶縁したとまで言い切っている。ただ、あまり奴も自分のことを語ろうとしないから僕も詳しくは無いんだ」
「もしかすると、ご家族との関係が悪化して京矢さんの性格が変わったりとか」
「未来では、実家に戻っていたんだったな。その可能性が高そうだが、それなら尚更部外者の僕たちがあれこれ悩んでも仕方ないだろう」
自分のことさえままならないというのに、他人の心配をしている場合では無い。
こんな調子で本当に姉を幸せにすることが出来るのか。
不安を感じながら小さくため息をつけば、なにやら九朗が真面目な顔つきになる。
「とにかく、今の京矢が君を傷つけることはない。もしそんな奴がいたとしたら、僕が許さない。必ず君を守ってみせる」
改まって急に格好つけたことを言われて、千里は困惑した。
ここは乙女らしくきゃあと喜ぶのが正しい反応なのだろうが、あいにく千里はそんな可愛らしい人間ではない。
「……急になんですか?」
「あれ、思ってた反応と違うな?」
思ってた反応とやらは、一体何なんだと千里はしかめっ面をする。
「九朗さんはずいぶんとお上手なようですけれど、相手をお間違えですわ。協力してくださるのはありがたいですけれど、そこまでしてなんて頼んだ覚えはありません」
「おやおや、怒らせてしまったかな」
「怒ってないです。守ってくれなんて私がいつ言いました?」
ふいと顔を背け、あからさまにつんけんした態度で千里は言う。
だが九朗は気分を悪くするどころか、ますます楽しそうに笑うばかりだった。
「何が面白いんですか」
「ごめんごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。普段はそういう態度なんだね? 素顔が見えたみたいで嬉しいなって思って」
「無愛想で悪かったですね」
「それだけ僕に心を開いてくれたってことだろう? 無愛想な君も素敵だよ」
千里がツンケンした態度を取れば取るほど、九朗は心を開いている証拠になると捉えているらしい。
九朗はやたらと女性の扱いに手馴れているように思える。
今どきの学生は、こんな風にさらりと口説くような真似ができるものなのだろうか。
千里自身も十代の学生だが、日頃同世代の男性と関わることなんてほとんどない。
九朗だけがそうなのか、みんなそうなのかは分からないが、ともかくこれ以上九朗に対して感情を乱すようなことはしたくなかった。
「ね、敬語なんて使わなくていいからさ。もっとそういう顔を見せてよ。僕はもっと君と仲良くなりたい」
「お断りよ」
千里がそう言った時、横を通った女給が笑いながら口を挟んできた。
「あらやだ、九朗ちゃんが女の子口説いてるわ」
彼女の言葉で、店内にいた他の客からもどっと笑いが飛んでくる。
「やめてよ由実さん。僕は真剣なんだ」
「まあまあ、今度遠野さんが来たら教えてあげなくっちゃ」
他の常連客にまで広められてしまうなんて勘弁して欲しい。
「九朗さん……!」
「もう、由実さんってばいっつも僕をからかうんだよ」
なんて言って九朗は恥ずかしがっているが、千里の心はすっと冷めていくようだった。
(やっぱりこの人、ほんとに女性慣れしてるんだわ)
今度から九朗の言うことは絶対に真に受けたりするものか。
「ともかく、『セイレーンの館』にはまた日を改めて訪ねます。ご馳走してくださってありがとうございました」
「そうか。じゃあまた会えるのを楽しみにしているよ」
それから九朗は、初めて会った時のような彼らしい笑顔を浮かべる。
「次会う時も、名前で呼んでくれると嬉しいな」
「……あ」
そう言われて初めて、無意識のうちに彼を九朗と呼んでいたことに気づかされた。




