第十話 有紗と京矢
血相を変えて駆け寄ってきたのは、姉の有紗だった。
京矢との間に割って入り、千里を守るかのように手を広げる。
「私の大事な千里ちゃんに、何のご用ですか! 話があるのなら、姉の私が代わりに聞きます!」
「……姉だと? 悪いが本人に直接聞いてくれ。こそこそと人のことを嗅ぎ回って、どういう教育をしたらこうなるんだろうな」
突然割り込んできた有紗に驚くでもなく、京矢は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
だが、有紗はますます強い口調で京矢に言い返した。
「あなたにこの子の何が分かると言うの! 千里ちゃんはそんな子じゃありません! 失礼なことを言わないで!」
「なっ……」
有紗が強い言葉を使うところは初めて見た。
京矢にいじめられていると勘違いしているのかもしれない。
「もし千里ちゃんが悪いことをしたのならきちんと謝ります。ですが、千里ちゃんは昔から心優しい子で、人様に悪事を働くような子ではないんです!」
「姉さん待って、違うの、これは……」
「違うものですか! 千里ちゃんがこんなに泣きそうな顔をしているというのに、黙って見ているなんてできないわ!」
涙目に見えているというのなら、それはおそらく怯えているのではなく怒りからなのだが、有紗からしたら千里が京矢を怖がっているように見えたのだろう。
「教えてください、千里ちゃんが何かしてしまったのですか?」
「あ、その……」
京矢もすっかり有紗の勢いに押されてしまっている。
一気に形成逆転してしまった。
京矢がかえって冷静になってくれたのは良いが、有紗は完全に京矢に対して警戒心を向けている。
(ま、まさからこんな展開になるなんて……!)
ただならぬ勢いの有紗に、九朗が手早くことの経緯を説明する。
「すみません、お姉さん。僕が悪かったんです。彼は僕の友人で、僕と同じ趣味を持つ千里さんを紹介するつもりだったんですが、行き違いがあったようで」
「行き違い? それに趣味って……」
「外国文学ですよ。それで、僕の説明不足のせいで、千里さんが彼に金目当てで近づいたと誤解させるようなことになってしまったんです。本当にすみません」
千里も必死に首を縦に振り頷いてみせれば、有紗はすぐに納得してくれた。
「まあ……そうだったの……」
それからすぐに、有紗は顔を青くして京矢に謝る。
「ごめんなさい、私ったらとんだ勘違いを」
「いや……私の方こそ、すみませんでした。私の思い込みのせいで、妹さんを傷つけてしまった」
京矢も口調を改めつつ頭を下げた。
誤解は解けたようで一安心だが、有紗に京矢を紹介する計画は崩れてしまった。
だが、悩む千里をよそに有紗はほっと表情を崩して微笑んでいる。
「でも、それなら良かったわ。だって、千里ちゃんはそんな子じゃないもの。お金目当てなんて、考えたりしないわ」
「……姉さん、私の母親がどんな人間か分かって言ってるの」
庇ってもらった立場なのに、千里はいつもの不機嫌な顔で有紗に言い返す。
「いいえ。喜久子さんは喜久子さん、千里ちゃんは千里ちゃんでしょ。いつも言っているじゃない。千里ちゃんはとっても優しい子だって」
有紗は穏やかに、千里を諭すように優しく語る。
京矢のことは誤解だったとはいえ、千里は朝霧家の金目当てで転がり込んできた人間だ。
有紗だってそれを分かっているというのに、どうしてそう人の善性を無条件に信じられるのか、千里には理解し難かった。
「千里さんのお姉さん、優しい方なんだね」
「お人好しなだけよ」
九朗のにやにやした視線がうっとうしくてふいと顔を背ける。
仲良し姉妹だ、なんて言われても千里が素直に頷くはずがない。
「あの……貴女のお名前は」
すっかり放心状態だった京矢が、おもむろに有紗にそうたずねる。
「朝霧有紗ですが」
有紗はそれだけ答えると、またすぐに千里に視線を戻した。
「千里ちゃん、近頃よく本を読んでいると思ったら外国文学だったのねぇ」
「ま、まあね」
誤魔化しつつ九朗に視線を向けると、彼はにこりと笑うだけだった。
千里は文学どころか少女向けの雑誌しか読まない。
このままでは千里の趣味は、怪談話に超能力に外国文学にと、嘘をつきすぎて本当のこととかけ離れていくばかりだ。
「それより、姉さんはどうしてここに」
「千里ちゃんがなかなか帰ってこなかったから、心配になって。近所でも日が暮れたら一人でお出かけは危ないわ。一緒に帰りましょう」
有紗の言う通り、いつの間にか空は橙色に染まり、日が落ちようとしている。
「じゃ、千里さん。また今度ね」
前回と同じように、九朗は手帳のメモ書きをちぎって千里に渡す。
最初に提案してきたデートとやらの内容が書かれていた。
(日時と場所と……映画館?)
九朗はにこりと笑って千里に手を振っている。
有紗に手を引かれ境内を去ろうとするが、最後にもう一度振り返れば、京矢は惚けたように有紗をじっと見ていた。
「有紗、さん……。そうか、貴女は有紗さんと言うのか……」
京矢は有紗の名前をくり返し呟いている。
瞬間、彼の表情を見て千里は理解した。
(この人、まさか……)
千里に対しては冷徹な表情だったというのに、有紗を見るその目はまるで別人のようだ。
頬を染め、まるで恋患うかのような愁いを帯びている。
一体何が彼の心を動かしたのか、千里には見当がつかない。
けれども確かに、その日、千里は人が恋に落ちる瞬間というものを初めて知った。




