第2話 三年前に死んだ私の夫
王宮を出たところで、足が震えた。
大広間では平気だった。
少なくとも、平気なふりはできていた。
けれど、夜風に当たり、王宮の白い階段を下りた瞬間、体の奥に溜まっていたものが急に重くなった。
婚約破棄。
名義移譲。
死亡届。
辺境伯の亡き妻。
ひとつひとつは書類の言葉だ。
けれど、全部を並べると、わたしの人生が誰かの机の上で勝手に整理され、処分済みの箱へ入れられていたように見えた。
「歩けますか」
クラウス様が尋ねた。
「はい」
そう答えたのに、足元が少し揺れた。
クラウス様はわたしの腕をつかもうとして、直前で手を止めた。
「失礼。触れても?」
「……お願いします」
短く答えると、彼は必要な分だけわたしの肘を支えた。
強くない。
けれど、倒れない程度には確かだった。
階段の下には、黒い馬車が停まっていた。扉にはフォルナー家の黒鷲ではなく、王立名簿局の銀の羽根印が入っている。
「名簿局の馬車ですか」
「ええ。今夜は私用ではなく、公務で来ました」
「辺境伯が、名簿局の公務を?」
「臨時監察官です。三年前から、私の名を使った虚偽記録が続いていますので」
馬車の扉を開け、クラウス様は先に乗り込むよう促した。
わたしは一瞬ためらった。
夜会の途中で、婚約破棄されかけた令嬢が、別の男性の馬車に乗る。
噂としては、最悪に近い。
けれど、王国名簿上のわたしは死者だ。
死者の評判を、どうやって悪くするのだろう。
そう考えると、少しだけおかしくなった。
「何か?」
「いいえ。死んでいると、噂を気にする意味が少し薄れるのだと思いまして」
クラウス様は一拍置いた。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「それは利点ですね」
「利点でしょうか」
「少なくとも、今夜の王宮よりはましです」
馬車の中は暖かかった。
厚手の膝掛けと、小さな湯気の立つカップが用意されている。向かいの席には、黒い革表紙の書類鞄が置かれていた。
「温かい香草茶です。飲めそうなら」
「ありがとうございます」
カップを受け取る。
指先が冷えていたのか、陶器の温かさがやけにしみた。
香草茶は甘くなかった。少し苦く、草の匂いがして、でも喉を通ると体の中がゆっくりほどけていく。
王宮では、いつも甘い花茶が出された。
ミレーヌが好きだったからだ。
わたしは苦いお茶の方が好きだったけれど、誰にも言ったことがなかった。
「イリス嬢」
クラウス様が、向かいに座った。
「まず確認します。私は、あなたを妻として扱うつもりはありません」
「はい」
「王国名簿上はそう記録されていますが、私はあなたと婚姻の同意を交わしていない。あなたにも記憶がない。ならば、これは婚姻ではなく記録犯罪です」
その言い方に、少し息がしやすくなった。
妻だと迫られるのではないか。
責任を取れと言われるのではないか。
そんな不安が、どこかにあったのだと思う。
「ただし」
クラウス様は続けた。
「今夜からしばらく、あなたは危険です。王国名簿に死亡者として登録されている者は、法的保護が薄い。生存届を出すまで、あなたを安全な場所に置く必要があります」
「名簿局に、ですか」
「局長の許可は取っています。客室があります。粗末ですが、鍵は内側からかけられます」
「十分です」
「ご実家へ戻りたい場合は、護衛をつけます」
わたしはカップを両手で包んだ。
実家。
父の怒鳴り声。
継母のため息。
ミレーヌの困った顔。
わたしの部屋に置かれた、王宮から回ってくる未整理の書類。
帰る場所のはずなのに、思い浮かべても胸が温かくならなかった。
「戻りたくありません」
声は小さかった。
けれど、はっきり言えた。
「承知しました」
クラウス様は理由を聞かなかった。
それも、ありがたかった。
馬車が動き出す。
窓の外で、王宮の灯りが少しずつ遠ざかっていく。あの中では今ごろ、ルシアン殿下や父が名簿局への抗議を考えているのだろう。
わたしがいない場所で、わたしの処遇が決められている。
それは、これまでと同じだ。
でも今夜は違う。
わたしの手元には、王宮で署名しなかった書類の感触がまだ残っていた。
「クラウス様は、いつからご存じだったのですか」
「三年前です」
彼は書類鞄を開け、一枚の写しを取り出した。
「フォルナー辺境伯家に、王国名簿局から婚姻および死亡記録の通知が届きました。相手はイリス・ノールド。婚姻日、三年前の十月十六日。死亡日、十月十七日」
「一日だけの妻、ですね」
「書類上は」
「そのとき、わたしは王宮で王妃教育を受けていました」
「確認済みです」
クラウス様は淡々と言った。
「あなたはその日、王妃教育院に出席している。講義記録も、昼食の記録も、図書室の貸出記録もある。死亡届の日には、王宮予算補助の下書きを提出している」
「そこまで調べたのですか」
「私の妻が死んだと通知されたので」
淡々としているのに、言葉だけ聞くと妙だった。
わたしが少しだけ笑うと、クラウス様は首をかしげた。
「変でしたか」
「いえ。自分のことなのに、他人事のようで」
「あなたにとっては、他人事であるべきです。勝手に殺され、勝手に嫁がされている」
その言葉で、胸の奥にあったものが形を持った。
そうだ。
これは悲しいだけではない。
怒っていいことなのだ。
わたしは死んでいない。
結婚もしていない。
名前も、人生も、誰かに渡すための道具ではない。
「わたしは、自分の名前を取り戻したいです」
カップを置いて、わたしは言った。
クラウス様は頷く。
「そのために、まず死亡届の原本を確認します」
「原本は名簿局に?」
「通常は。ですが、あなたの死亡届は王宮保管に回されていました。今夜、局長が写しを取り寄せています」
「王宮保管」
「王家に関わる重要記録として、封印指定されています」
封印指定。
ただの伯爵令嬢の死亡届に、そんなものが必要なはずがない。
馬車が、王宮外郭を抜けた。
名簿局は王都の中央通りから少し外れた、古い石造りの建物だった。夜でも明かりがついている。窓の向こうに、書類束を抱えて走る職員の姿が見えた。
役所は、どこの世界でも夜に弱い。
前世を思い出して、少しだけ親近感を覚えた。
「到着しました」
馬車を降りると、初老の女性が入口で待っていた。
灰色の髪をきっちりまとめ、丸眼鏡をかけ、分厚い台帳を抱えている。
「名簿局長のマルタ・エインズです」
「イリス・ノールドです」
そう名乗った瞬間、胸が少し痛んだ。
この名前は、まだわたしのものなのだろうか。
マルタ局長は眼鏡越しにわたしを見て、それから静かに頭を下げた。
「生きておいでで何よりです」
その一言だけで、目の奥が熱くなった。
可哀想に、ではない。
大変でしたね、でもない。
生きていてよかった。
それだけを、確認するように言ってくれた。
「ありがとうございます」
「原本の写しが届いています。こちらへ」
名簿局の中は、紙とインクと古い木の匂いがした。
前世の役所とはまるで違う。けれど、書類棚が並び、窓口があり、奥の机で職員が眉間に皺を寄せている空気は、どこか似ていた。
案内された小部屋には、ランプが三つ灯っていた。
机の上に、黒い封筒が置かれている。
マルタ局長が封を切り、中の羊皮紙を広げた。
死亡届。
名前、イリス・ノールド。
死亡日、三年前十月十七日。
配偶者、クラウス・フォルナー。
死亡理由、病死。
届出人。
そこまで読んだ瞬間、文字の下に黒い滲みが走った。
わたしの《名簿読み》が、偽られた記録の奥を拾う。
表の文字とは別の、押し隠された名。
わたしは思わず机に手をついた。
「イリス嬢?」
クラウス様がこちらを見る。
わたしは死亡届の下段を指差した。
「届出人の欄が、上書きされています」
「読めますか」
「はい」
声が少し震えた。
死亡届の提出者。
ルシアン・アスターシュ王太子。
ついさっき、わたしに婚約破棄を告げた人の名だった。




