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婚約破棄の前に、本人確認をお願いします ~王太子が捨てた私は三年前に死亡済みで、なぜか辺境伯の亡き妻になっていました~  作者: 小竹X


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第3話 生存届は受理されません

「生存届を出したいのですが」


 翌朝、わたしは王立名簿局の窓口に立っていた。


 眠れたかと聞かれれば、あまり眠れなかった。


 名簿局の客室は小さいが清潔で、鍵も内側からかかり、寝台の毛布も温かかった。けれど、目を閉じるたびに死亡届の文字が浮かんだ。


 届出人、ルシアン・アスターシュ王太子。


 三年前。


 わたしがまだ、殿下のために夜会名簿を整え、王妃教育の課題を提出し、ノールド伯爵家の役に立とうとしていた頃。


 その裏で、わたしは死んでいた。


 少なくとも、紙の上では。


 窓口の若い職員は、ひどく気の毒そうな顔をした。


「お気持ちは分かります。ですが、生存届という書式は通常、行方不明者や誤認死亡者に使われるものでして」


「わたしは誤認死亡者ではありませんか」


「その、死亡届に王家の封印指定がついていますので、通常窓口では処理できません」


「では、どちらで処理できますか」


「王宮名簿審査会です」


「審査会はいつ開かれますか」


「定例ですと、来月の第一水曜日です」


「それまで、わたしは死亡したままですか」


「制度上は……はい」


 前世の記憶が、ぼんやりと蘇る。


 窓口で「制度上できません」と言わなければならなかった日々。


 言う側にも事情がある。


 でも、言われる側は困る。


 わたしは深く息を吐いた。


「暫定生存申請は使えますか」


 若い職員が目を丸くした。


「よくご存じですね」


「規則集を読みました」


 眠れなかったので、名簿局の客室に置かれていた『名簿法施行細則』を読んだ。


 分厚かった。


 けれど、王妃教育の儀礼書よりはずっと面白かった。


「暫定生存申請には、本人の現認、二名以上の証人、死亡記録との矛盾を示す資料が必要です」


「証人は、マルタ局長とフォルナー辺境伯にお願いできますか」


「可能です」


 後ろから声がした。


 クラウス様だった。


 昨夜と同じ黒い服だが、今日は礼装ではなく、動きやすそうな上着を着ている。手には書類束を抱えていた。


「私が証人になります。マルタ局長も同意しています」


「ありがとうございます」


「ただ、矛盾を示す資料が必要です。あなたが三年前の死亡日に別の場所にいた証拠はありますが、王家封印を一時停止するには少し弱い」


「王妃教育院の出席記録では足りませんか」


「王宮側が『記録の方が誤っている』と言えば終わりです」


「王宮の記録なのに」


「王宮は、自分に都合の悪いときだけ記録を信用しません」


 クラウス様の声は淡々としていた。


 けれど、窓口の職員が小さく咳払いをしたので、わたしは少しだけ笑いそうになった。


 そのとき、隣の窓口で怒鳴り声が上がった。


「だから、俺は生きてるって言ってるだろう!」


 見ると、白髪まじりの男性が杖をついて立っていた。古びた軍服の上着を着ている。片足を少し引きずっていた。


 窓口の職員が困った顔をしている。


「ですから、名簿上では戦死扱いになっておりまして」


「戦死なら、なんで俺はここに立ってるんだ!」


「それは私にも分かりませんが、名簿が」


「名簿名簿って、俺より名簿を信じるのか!」


 胸が少し痛んだ。


 昨日までのわたしなら、聞こえないふりをしたかもしれない。


 余計なことをすれば、また面倒を起こすと言われる。


 誰かの問題に関わると、父に叱られる。


 でも、今のわたしは死亡者だ。


 死者が少し余計なことをしても、もう家名に傷はつかない。


「失礼します」


 わたしは隣の窓口へ近づいた。


 男性と職員がこちらを見る。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「……あんたは?」


「イリス・ノールドです。名簿読みです」


 男性の目が少し変わった。


「名簿読み?」


「記録の異常が見えることがあります。差し支えなければ、通知書を拝見しても?」


 男性はしばらく迷ったあと、くしゃくしゃになった紙を差し出した。


 退役兵扶助金停止通知。


 理由、本人死亡。


 氏名、ガストン・ベイル。


 死亡日、昨年の冬。


 わたしは文字を見る。


 黒い滲みがあった。


 死亡者欄の下に、別の名前が沈んでいる。


 ガストン・ベイル。


 その横に、薄く削られた文字。


 ガストン・ベイルの弟、ギルドン・ベイル。


「これは……」


 わたしは通知書を机に置いた。


「死亡したのは、弟様ではありませんか」


 男性の顔から血の気が引いた。


「ギルドンは、去年、国境で死んだ」


「死亡記録の名が上書きされています。扶助金の受取人も、変更されています」


 職員が慌てて台帳を開いた。


 わたしには、そこにも黒い滲みが見える。


 ガストン・ベイルは死亡。


 だが、その字の下に、弟ギルドンの名。


 さらに受取人欄には、見知らぬ商会の名があった。


「退役兵の扶助金が、商会に流れています」


 職員が息を呑む。


 クラウス様がわたしの横に来て、台帳を覗いた。


「同じ筆跡だ」


「え?」


「あなたの死亡届を上書きした筆跡と、よく似ています」


 その瞬間、背中が冷えた。


 わたしひとりの問題ではない。


 誰かが、死者の名前を使っている。


 生きている人を死んだことにして、金や権利を動かしている。


 ガストンさんは、震える手で通知書を握った。


「じゃあ、俺の扶助金は」


「止まっていたのではなく、奪われていた可能性があります」


 わたしが言うと、彼は唇を噛んだ。


 怒りか、悔しさか、それとも安心か。


 たぶん、全部だった。


「俺は……自分が間違ってるのかと思った」


 低い声だった。


「家に帰っても、死んだ人間に金は出せないって言われてな。俺はここにいるのに、紙の上じゃ死んでるって」


「分かります」


 思わずそう言った。


 ガストンさんがわたしを見る。


 わたしは少しだけ困って、正直に続けた。


「わたしも、昨日死んでいることが分かりましたので」


「そりゃ大変だな、お嬢さん」


「はい。なかなか不便です」


 ガストンさんは一瞬ぽかんとしたあと、声を出して笑った。


 窓口の職員まで、少しだけ肩の力を抜いた。


 クラウス様がマルタ局長を呼び、ガストンさんの記録はすぐに保全処理へ回された。扶助金の流出先も調査されることになったらしい。


 ガストンさんは何度も頭を下げた。


「ありがとう。本当に、ありがとう」


「まだ戻ると決まったわけではありません」


「それでもだ。俺が生きてるって、誰かが認めてくれた」


 その言葉に、胸の奥が静かに熱くなった。


 生きていると認められること。


 それは、当たり前ではない。


 名前が正しく記録されることも。


 誰かが本人を見て、本人だと言ってくれることも。


 わたしは、窓口へ戻った。


「クラウス様」


「はい」


「暫定生存申請の矛盾資料に、今の記録を使えますか」


「使えます。あなたの死亡届と同じ筆跡、同じ上書き方法、同じ王宮封印系統が確認できれば、連続した名簿改竄として扱える」


「では、申請します」


 若い職員が緊張した顔で書式を用意した。


 わたしは羽根ペンを取る。


 署名欄には、イリス・ノールドと書いた。


 その瞬間、紙の上に薄い光が走った。


 名簿局の奥で、鐘が鳴る。


 一度。


 二度。


 三度。


 職員たちが一斉に顔を上げた。


「暫定生存申請、受理されました!」


 若い職員が叫んだ。


「王国名簿に保全印が入ります。イリス・ノールド名義の死亡記録、婚姻記録、王宮契約記録、すべて要確認状態へ移行します!」


 奥の部屋から、別の職員が飛び出してきた。


「王宮予算台帳にも保全印が出ています!」


「叙勲者名簿もです!」


「王太子府の契約書が、三年分まとめて仮停止に!」


 名簿局が、一気に騒がしくなった。


 わたしは羽根ペンを置いた。


 手が震えている。


 怖い。


 けれど、後悔はなかった。


「イリス嬢」


 クラウス様が静かに言った。


「今ので、王宮はあなたを無視できなくなりました」


「怒りますよね」


「怒るでしょう」


「殿下も」


「かなり」


「父も」


「間違いなく」


 わたしは息を吐いた。


「それでも、死んだままでいるよりはましです」


 クラウス様は、少しだけ目を細めた。


「ええ。生きている人は、怒られることもできます」


 その言い方が妙で、わたしは小さく笑った。


 そのとき、名簿局の入口が乱暴に開いた。


 職員たちが振り向く。


 王宮の使者だった。


 白い外套を着た若い騎士が、息を切らして立っている。手には黒い封筒があった。


「名簿局長マルタ・エインズ殿へ、王宮より緊急記録です」


 マルタ局長が封筒を受け取った。


 黒い封蝋には、王家の百合紋。


 それを見た瞬間、わたしの《名簿読み》が強く反応した。


 嫌な冷たさが、指先から背中へ走る。


 マルタ局長が封を切る。


 中から出てきたのは、一枚の死亡届だった。


 名前、イリス・ノールド。


 死亡予定日、明日、正午。


 死亡場所、王立名簿局。


 届出人欄は、まだ空白。


 けれど、その下に黒い文字が沈んでいる。


 わたしには読めた。


 届出人、イリス・ノールド本人。


 わたしは、しばらくその文字を見つめていた。


 そして、ゆっくりと息を吸った。


「クラウス様」


「はい」


「本人が出していない死亡届は、受理されませんよね」


「当然です」


「では」


 わたしは死亡届から目を離さなかった。


「明日の正午までに、わたしがわたしを殺す予定の人を探しましょう」


 名簿局の鐘は、まだ鳴っていた。


 王宮に、わたしが生きていることを知らせるために。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

続きが気になる、イリスの名前を取り戻すところを見たいと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると非常に励みになります。

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