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婚約破棄の前に、本人確認をお願いします ~王太子が捨てた私は三年前に死亡済みで、なぜか辺境伯の亡き妻になっていました~  作者: 小竹X


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第1話 死亡済みの婚約者

「イリス・ノールド。君との婚約を破棄する」


 王太子ルシアン殿下の声が、王宮大広間に響いた。


 春の叙勲夜会だった。


 壁には白百合の紋章旗が垂れ、天井の魔導灯は昼のように明るく、磨き上げられた大理石の床には、貴族たちの靴音と小さなざわめきが反射している。


 その中心で、わたしは婚約者だった人と向かい合っていた。


 ルシアン殿下の隣には、義妹のミレーヌがいる。


 淡い金髪に、潤んだ桃色の瞳。震える指先で殿下の袖をつかむ姿は、守られるために生まれてきた花のようだった。


「殿下……本当に、よろしいのですか?」


 ミレーヌが小さな声で言う。


「お姉様は、ずっと殿下のために頑張っていらしたのに」


「君は優しいな、ミレーヌ」


 ルシアン殿下は、ミレーヌを気遣うように微笑んだ。


 それから、わたしを見る。


 微笑みは消えていた。


「だが、イリスは王妃にふさわしくない。君のように、書類と規則ばかりを見て、人の心を見ようとしない女を、私は妻にはできない」


 周囲の視線が、一斉にこちらへ集まる。


 憐れみ。


 好奇心。


 そして、少しの期待。


 泣くか。怒るか。取り乱すか。


 そういうものを待っている空気だった。


 けれど、わたしは何も言えなかった。


 悲しみより先に、殿下の侍従が差し出した一枚の羊皮紙が目に入ったからだ。


 婚約解消承諾書。


 その下に、もう一枚。


 名義移譲同意書。


 わたしの名前と、王太子婚約者としての立場を、義妹ミレーヌに移すための書類だった。


「……名義移譲、ですか」


「そうだ」


 ルシアン殿下は当然のように頷いた。


「ノールド伯爵家から王家へ差し出された婚約者は、イリス・ノールドという名で登録されている。だが、実質的に私を支え、心を癒やしてくれたのはミレーヌだ。よって今後は、君の名と役目をミレーヌに引き継いでもらう」


「わたしの、名前を」


「君には十分な手当を出す。修道院でも、地方の別邸でも、好きな場所へ行くといい」


 わたしの父であるノールド伯爵は、広間の端で満足そうに頷いていた。


 継母も同じだ。


 ミレーヌだけが、今にも泣きそうな顔をしている。けれど、殿下の袖をつかむ指は離れない。


「お姉様、ごめんなさい」


 ミレーヌは言った。


「でも、私、殿下をお支えしたいの。お姉様のように難しい書類は読めないけれど、殿下が疲れているときに笑って差し上げることはできます」


 周囲から、かすかな同意の息が漏れた。


 可憐な妹。


 冷たい姉。


 真実の愛。


 場の空気は、もう決まっていた。


 だからわたしは、目の前の羊皮紙へ視線を落とした。


 書類の文字は整っている。


 王宮書記官の手によるものだろう。署名欄には、わたしの名が美しく書かれていた。


 イリス・ノールド。


 その名の下に、薄く、黒い文字が沈んでいる。


 普通の人には見えない。


 けれど、わたしには見える。


 この世界で授かった《名簿読み》の力だ。


 人の名前、契約、出生、婚姻、死亡。王国名簿に結びついた記録の綻びが、わたしの目には余白の文字として浮かび上がる。


 前世のわたしは、日本の小さな市役所で戸籍係をしていた。


 出生届、婚姻届、離婚届、死亡届。


 毎日、誰かの人生の節目を受け取り、本人確認をし、記入漏れを直し、押印の位置を案内していた。


 派手な仕事ではなかった。


 けれど、名前は人生そのものだと知っていた。


 だからこそ、今、わたしの喉は乾いた。


 署名欄の下に沈む黒い文字は、こう告げていた。


 イリス・ノールド。


 三年前、死亡。


 死亡届受理済。


 配偶者、クラウス・フォルナー辺境伯。


「……殿下」


「何だ」


「恐れ入りますが、婚約破棄の前に、本人確認をお願いします」


 ルシアン殿下の表情が止まった。


「本人確認?」


「はい」


 わたしは羊皮紙を両手で持ち、軽く掲げた。


「この書類に署名する者が、本当にイリス・ノールド本人であり、生存しており、署名権限を持つ者であるかの確認です」


 広間のざわめきが、一瞬だけ途切れた。


 そして、くすくすと笑いが漏れる。


「この期に及んで、また規則か」


 ルシアン殿下は呆れたように言った。


「君は本当に変わらないな。愛も誇りも傷つけられた場面で、まず本人確認とは」


「本人確認を怠ると、後で大変なことになります」


「これは王太子である私の決定だ」


「王太子殿下の決定でも、死者に婚約破棄を申し渡すことはできません」


 今度こそ、広間が静まり返った。


 ミレーヌが目を瞬かせる。


 父が、わずかに顔色を変えた。


 ルシアン殿下は眉をひそめる。


「何を言っている」


「この書類上、イリス・ノールドは三年前に死亡しています」


「馬鹿な」


「王国名簿では死亡済みです。さらに、わたしは三年前、クラウス・フォルナー辺境伯と婚姻し、その翌日に死亡したことになっています」


 誰かが扇を取り落とした。


 乾いた音が、床に響く。


 ミレーヌの顔から血の気が引いた。


「お、お姉様……?」


「わたしにも分かりません」


 それは本当だった。


 わたしは三年前、王都にいた。


 王妃教育を受け、王宮の予算補助書類を整理し、ルシアン殿下の側近たちに頼まれた祝賀会の名簿を作っていた。


 辺境伯と結婚した覚えもなければ、死んだ覚えもない。


 けれど、書類は嘘をつく。


 人が嘘を書けば、書類も嘘を抱える。


 そして、わたしの目には、その嘘の縫い目が見える。


「父上」


 わたしはノールド伯爵を見た。


「この件をご存じでしたか」


「し、知らん。くだらない小細工だ。殿下、この娘は混乱しております」


「混乱しているのは、たぶん王国名簿です」


「黙れ、イリス!」


 父の怒鳴り声が、広間に響いた。


 幼い頃から、その声を聞くと体が強張る。


 出来損ない。


 融通が利かない。


 妹を見習え。


 その言葉は、何度も聞いた。


 けれど今日は、わたしの手の中に羊皮紙がある。


 名前がある。


 そして、名前の下に死がある。


 わたしは顔を上げた。


「死亡済みの者から名義を移すことはできません。また、死亡者を王太子婚約者として扱っていた場合、過去三年間にわたる王宮契約の一部について、署名権限の確認が必要になります」


「イリス!」


「それから」


 わたしはルシアン殿下へ向き直った。


「もしこの記録が正しいなら、殿下は死者と婚約していたことになります。もし記録が誤りなら、誰かが王国名簿へ虚偽の死亡届を提出したことになります。どちらの場合でも、まず名簿局への照会が必要です」


 殿下の顔が赤くなった。


「君は私に恥をかかせるつもりか」


「いいえ。本人確認をお願いしています」


 そのとき、大広間の扉が開いた。


 冷たい夜気が流れ込む。


 黒い礼装の男が、一人、入ってきた。


 背が高く、肩幅が広い。銀に近い灰色の髪を後ろで結び、深い青の瞳には笑みがない。


 けれど、その歩き方は静かだった。


 大勢の視線を受けても、まるで書庫の廊下を歩いているように落ち着いている。


 男の胸には、辺境伯家を示す黒鷲の徽章があった。


 ルシアン殿下が目を見開く。


「フォルナー辺境伯……?」


 男は殿下へ一礼したあと、わたしを見た。


 初めて会う人だった。


 少なくとも、わたしの記憶では。


「クラウス・フォルナーです」


 彼は低い声で名乗った。


「三年前に死んだ私の妻が、ずいぶんお元気そうで何よりです」


 広間が、今度こそ完全に沈黙した。


 クラウス様は、わたしへ手を差し出す。


「イリス・ノールド嬢。あなたが望むなら、名簿局まで同行します。私も三年間、自分の名で登録された妻の死亡届を調べていました」


「わたしは……あなたの妻ではありません」


「ええ。ですから、まず本人確認をしましょう」


 その言葉に、胸の奥が不意に熱くなった。


 泣きそうになったわけではない。


 ただ、初めてだった。


 わたしの話を、最初からおかしいと決めつけず、確認が必要だと言ってくれた人は。


 クラウス様は、わたしの手を取らないまま待っていた。


 無理に引かない。


 命じない。


 こちらが選ぶまで、ただ待っている。


 わたしは一度だけ、ルシアン殿下を見た。


 殿下の隣で、ミレーヌが震えている。


 父は何か言おうとして、言葉を探していた。


 わたしは婚約解消書をそっとテーブルへ置いた。


「殿下」


「何だ」


「この書類には署名できません」


「今さら拒むのか」


「いいえ」


 わたしは、できるだけ丁寧に礼をした。


「死者には署名権限がありませんので」


 そのまま顔を上げ、クラウス様の隣へ歩いた。


 背後で、誰かが息を呑む。


 わたしは振り返らなかった。


 今夜、婚約は破棄されなかった。


 代わりに、わたしの死亡届が見つかった。


 そしてわたしは、会ったこともない夫とともに、自分の死を確認しに行くことになった。

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