第1話 死亡済みの婚約者
「イリス・ノールド。君との婚約を破棄する」
王太子ルシアン殿下の声が、王宮大広間に響いた。
春の叙勲夜会だった。
壁には白百合の紋章旗が垂れ、天井の魔導灯は昼のように明るく、磨き上げられた大理石の床には、貴族たちの靴音と小さなざわめきが反射している。
その中心で、わたしは婚約者だった人と向かい合っていた。
ルシアン殿下の隣には、義妹のミレーヌがいる。
淡い金髪に、潤んだ桃色の瞳。震える指先で殿下の袖をつかむ姿は、守られるために生まれてきた花のようだった。
「殿下……本当に、よろしいのですか?」
ミレーヌが小さな声で言う。
「お姉様は、ずっと殿下のために頑張っていらしたのに」
「君は優しいな、ミレーヌ」
ルシアン殿下は、ミレーヌを気遣うように微笑んだ。
それから、わたしを見る。
微笑みは消えていた。
「だが、イリスは王妃にふさわしくない。君のように、書類と規則ばかりを見て、人の心を見ようとしない女を、私は妻にはできない」
周囲の視線が、一斉にこちらへ集まる。
憐れみ。
好奇心。
そして、少しの期待。
泣くか。怒るか。取り乱すか。
そういうものを待っている空気だった。
けれど、わたしは何も言えなかった。
悲しみより先に、殿下の侍従が差し出した一枚の羊皮紙が目に入ったからだ。
婚約解消承諾書。
その下に、もう一枚。
名義移譲同意書。
わたしの名前と、王太子婚約者としての立場を、義妹ミレーヌに移すための書類だった。
「……名義移譲、ですか」
「そうだ」
ルシアン殿下は当然のように頷いた。
「ノールド伯爵家から王家へ差し出された婚約者は、イリス・ノールドという名で登録されている。だが、実質的に私を支え、心を癒やしてくれたのはミレーヌだ。よって今後は、君の名と役目をミレーヌに引き継いでもらう」
「わたしの、名前を」
「君には十分な手当を出す。修道院でも、地方の別邸でも、好きな場所へ行くといい」
わたしの父であるノールド伯爵は、広間の端で満足そうに頷いていた。
継母も同じだ。
ミレーヌだけが、今にも泣きそうな顔をしている。けれど、殿下の袖をつかむ指は離れない。
「お姉様、ごめんなさい」
ミレーヌは言った。
「でも、私、殿下をお支えしたいの。お姉様のように難しい書類は読めないけれど、殿下が疲れているときに笑って差し上げることはできます」
周囲から、かすかな同意の息が漏れた。
可憐な妹。
冷たい姉。
真実の愛。
場の空気は、もう決まっていた。
だからわたしは、目の前の羊皮紙へ視線を落とした。
書類の文字は整っている。
王宮書記官の手によるものだろう。署名欄には、わたしの名が美しく書かれていた。
イリス・ノールド。
その名の下に、薄く、黒い文字が沈んでいる。
普通の人には見えない。
けれど、わたしには見える。
この世界で授かった《名簿読み》の力だ。
人の名前、契約、出生、婚姻、死亡。王国名簿に結びついた記録の綻びが、わたしの目には余白の文字として浮かび上がる。
前世のわたしは、日本の小さな市役所で戸籍係をしていた。
出生届、婚姻届、離婚届、死亡届。
毎日、誰かの人生の節目を受け取り、本人確認をし、記入漏れを直し、押印の位置を案内していた。
派手な仕事ではなかった。
けれど、名前は人生そのものだと知っていた。
だからこそ、今、わたしの喉は乾いた。
署名欄の下に沈む黒い文字は、こう告げていた。
イリス・ノールド。
三年前、死亡。
死亡届受理済。
配偶者、クラウス・フォルナー辺境伯。
「……殿下」
「何だ」
「恐れ入りますが、婚約破棄の前に、本人確認をお願いします」
ルシアン殿下の表情が止まった。
「本人確認?」
「はい」
わたしは羊皮紙を両手で持ち、軽く掲げた。
「この書類に署名する者が、本当にイリス・ノールド本人であり、生存しており、署名権限を持つ者であるかの確認です」
広間のざわめきが、一瞬だけ途切れた。
そして、くすくすと笑いが漏れる。
「この期に及んで、また規則か」
ルシアン殿下は呆れたように言った。
「君は本当に変わらないな。愛も誇りも傷つけられた場面で、まず本人確認とは」
「本人確認を怠ると、後で大変なことになります」
「これは王太子である私の決定だ」
「王太子殿下の決定でも、死者に婚約破棄を申し渡すことはできません」
今度こそ、広間が静まり返った。
ミレーヌが目を瞬かせる。
父が、わずかに顔色を変えた。
ルシアン殿下は眉をひそめる。
「何を言っている」
「この書類上、イリス・ノールドは三年前に死亡しています」
「馬鹿な」
「王国名簿では死亡済みです。さらに、わたしは三年前、クラウス・フォルナー辺境伯と婚姻し、その翌日に死亡したことになっています」
誰かが扇を取り落とした。
乾いた音が、床に響く。
ミレーヌの顔から血の気が引いた。
「お、お姉様……?」
「わたしにも分かりません」
それは本当だった。
わたしは三年前、王都にいた。
王妃教育を受け、王宮の予算補助書類を整理し、ルシアン殿下の側近たちに頼まれた祝賀会の名簿を作っていた。
辺境伯と結婚した覚えもなければ、死んだ覚えもない。
けれど、書類は嘘をつく。
人が嘘を書けば、書類も嘘を抱える。
そして、わたしの目には、その嘘の縫い目が見える。
「父上」
わたしはノールド伯爵を見た。
「この件をご存じでしたか」
「し、知らん。くだらない小細工だ。殿下、この娘は混乱しております」
「混乱しているのは、たぶん王国名簿です」
「黙れ、イリス!」
父の怒鳴り声が、広間に響いた。
幼い頃から、その声を聞くと体が強張る。
出来損ない。
融通が利かない。
妹を見習え。
その言葉は、何度も聞いた。
けれど今日は、わたしの手の中に羊皮紙がある。
名前がある。
そして、名前の下に死がある。
わたしは顔を上げた。
「死亡済みの者から名義を移すことはできません。また、死亡者を王太子婚約者として扱っていた場合、過去三年間にわたる王宮契約の一部について、署名権限の確認が必要になります」
「イリス!」
「それから」
わたしはルシアン殿下へ向き直った。
「もしこの記録が正しいなら、殿下は死者と婚約していたことになります。もし記録が誤りなら、誰かが王国名簿へ虚偽の死亡届を提出したことになります。どちらの場合でも、まず名簿局への照会が必要です」
殿下の顔が赤くなった。
「君は私に恥をかかせるつもりか」
「いいえ。本人確認をお願いしています」
そのとき、大広間の扉が開いた。
冷たい夜気が流れ込む。
黒い礼装の男が、一人、入ってきた。
背が高く、肩幅が広い。銀に近い灰色の髪を後ろで結び、深い青の瞳には笑みがない。
けれど、その歩き方は静かだった。
大勢の視線を受けても、まるで書庫の廊下を歩いているように落ち着いている。
男の胸には、辺境伯家を示す黒鷲の徽章があった。
ルシアン殿下が目を見開く。
「フォルナー辺境伯……?」
男は殿下へ一礼したあと、わたしを見た。
初めて会う人だった。
少なくとも、わたしの記憶では。
「クラウス・フォルナーです」
彼は低い声で名乗った。
「三年前に死んだ私の妻が、ずいぶんお元気そうで何よりです」
広間が、今度こそ完全に沈黙した。
クラウス様は、わたしへ手を差し出す。
「イリス・ノールド嬢。あなたが望むなら、名簿局まで同行します。私も三年間、自分の名で登録された妻の死亡届を調べていました」
「わたしは……あなたの妻ではありません」
「ええ。ですから、まず本人確認をしましょう」
その言葉に、胸の奥が不意に熱くなった。
泣きそうになったわけではない。
ただ、初めてだった。
わたしの話を、最初からおかしいと決めつけず、確認が必要だと言ってくれた人は。
クラウス様は、わたしの手を取らないまま待っていた。
無理に引かない。
命じない。
こちらが選ぶまで、ただ待っている。
わたしは一度だけ、ルシアン殿下を見た。
殿下の隣で、ミレーヌが震えている。
父は何か言おうとして、言葉を探していた。
わたしは婚約解消書をそっとテーブルへ置いた。
「殿下」
「何だ」
「この書類には署名できません」
「今さら拒むのか」
「いいえ」
わたしは、できるだけ丁寧に礼をした。
「死者には署名権限がありませんので」
そのまま顔を上げ、クラウス様の隣へ歩いた。
背後で、誰かが息を呑む。
わたしは振り返らなかった。
今夜、婚約は破棄されなかった。
代わりに、わたしの死亡届が見つかった。
そしてわたしは、会ったこともない夫とともに、自分の死を確認しに行くことになった。




