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 深夜の王宮は昼間の喧騒が嘘のように静まり返る。

 石造りの廊下は冷え冷えとしており、等間隔に置かれた魔石の灯りが、壁に映る私の影を長く、不気味に引き伸ばしていた。


 私は足音を殺し、アウレリウス様の寝室へと続く私用通路を歩く。

 手元には、深夜の喉の渇きを癒やすための白銀の水差し。それが私の「建前」だ。


(来るわ。……あと、三十二秒後)


 脳裏に硝子が砕けるような予知の残響が響く。

 角を曲がった先。そこには、王宮の宝物庫から盗み出されたはずの「呪いの魔道具」を抱えた、一人の男が立っているはずだ。


 曲がり角に差し掛かる直前、私は足を止めた。

 暗闇の中から、微かな、だが確かに聞き覚えのある金属音が聞こえる。

 鎧が擦れる音。

 アウレリウス様が最も信頼を寄せている近衛騎士団の一人、ロンギヌスの足音だ。


「……誰だ」


 低い声が闇を打つ。

 私は静かに、だが優雅に姿を現した。


「夜分に失礼いたします、ロンギヌス卿。アウレリウス様がお目覚めになり、お飲み物を所望されましたので」

「……侍女のルキアか」


 月光の下で、ロンギヌスの顔が青白く照らし出される。

 彼の腕には、絹の布で包まれた「何か」があった。

 私の予知によれば、その布の中身は、先代皇帝の命を奪ったとされる伝説の毒薬『レテの涙』が塗布された短剣。それをアウレリウス様の寝所に隠し、明朝、「皇帝暗殺計画」の証拠として突きつける――それが、カッシウス様たちが描いたシナリオだ。


 ロンギヌスは私を鋭い目で見据えた。

 彼はアウレリウス様の腹心でありながら、すでにカッシウス側に買収されている。

 理由は単純だ。彼の妹が公的には秘匿の不治の病に侵されており、カッシウス側が「聖女」クラウディアの奇跡による治療を条件に提示したから。


(愛ゆえの裏切り。……なんて使い古された、美しい悲劇かしら)


 私は微笑を浮かべたまま、彼に近づく。

 ロンギヌスの手が、剣の柄にかけられた。口封じのために私を斬るか、あるいは脅しつけるか。


「ロンギヌス卿。その布の中にあるものを、あえて問いはいたしません。……ですが、アウレリウス様の寝所に『それ』を置くのであれば、位置は寝台の枕元ではなく、クローゼットの奥にある隠し金庫の『裏側』になさってください」


 ロンギヌスの瞳が驚愕に大きく見開かれた。

 呼吸が止まり、殺気が霧散する。


「……貴様、何を言って……」

「枕元では、明日の朝、私が掃除をする際に見つけてしまいますもの。それでは、憲兵隊が踏み込んでくる前に、私が処分してしまいますわ? それでは困るのでしょう?」


 私は一歩、彼との距離を詰め、その耳元で囁いた。

 毒を孕んだ蜜のような声で。


「カッシウス様には、こうお伝えください。『ルキアはすでに、私の手足となりました』と。……私は、アウレリウス様が堕ちていく様を、誰よりも近くで、一番美しく見届けたいだけなのですから」


 ロンギヌスの額から、冷や汗が伝い落ちる。

 彼は私の瞳の奥にある「本物の狂気」を悟ったのだろう。

 この女は味方ではない。かといって、単なる敵でもない。

 ただ、破滅を愛でる観測者なのだと。


「……狂っているな」

「最高の褒め言葉ですわ」


 彼は何も言わず、私の横を通り過ぎていった。

 彼が寝室の裏口へと消えていくのを見送り、私はふう、と深く息を吐く。


(ああ、心臓が痛い。……アウレリウス様、ごめんなさい。貴方の信頼していた騎士が、今、貴方の喉元にナイフを置きましたわ)


 その光景を想像するだけで、指先が歓喜に震える。

 完璧な王子の、完璧な世界が、音を立てて崩れていく。

 その崩壊の旋律を指揮しているのは、他ならぬこの私だ。


 翌朝。

 アウレリウス様の執務室は、重苦しい空気に包まれていた。


 定例の閣議が行われるはずの時間だが、そこに現れたのは大臣たちではなく、武装した憲兵隊と、勝ち誇ったような笑みを浮かべたカッシウス、そして、ハンカチを口元に当てて悲劇を装うクラウディアだった。


「兄上。非常に、非常に残念です」


 カッシウスが進み出る。

 アウレリウス様はデスクから顔を上げ、冷ややかな、けれどどこか疲弊した瞳で義弟を見つめた。


「カッシウスか。朝から騒々しいな。何の真似だ」

「真似ではありませんよ。……陛下より、兄上の『大逆罪』に関する調査権限を賜りました。兄上が隣国のスパイと内通し、陛下の御命を狙っているという告発があったのです」


 アウレリウス様は、ふっと短く笑った。

 その笑みはあまりに冷淡で、憲兵たちが一瞬気圧される。


「私を失脚させたいのなら、もう少しマシな嘘をつけ。スパイだと? 私がこの国の誰よりも、この領土と民を愛していることを知らぬはずもなかろう」

「ええ、表向きはね。ですが……聖女クラウディア様が、神のお告げを聞かれたのですよ。『不浄なる刃が、北の翼の主の元に隠されている』と」


 クラウディアが、潤んだ瞳でアウレリウス様を見つめる。


「アウレリウス様……信じたくありませんでした。でも、神様は嘘をつきません。どうか、身の潔白を証明するために、お部屋の捜索を許してくださいませ……っ」


 見事な演技だ。

 私はアウレリウス様の背後に控え、その光景を脳裏の予知と照らし合わせていた。

 

 アウレリウス様は、ゆっくりと立ち上がった。

 彼の視線が、一瞬だけ私に向けられる。

 助けを求めているのではない。

 「お前はどう思う」という、いつもの問いかけ。


 私は彼の期待に応えるように、深々と頭を下げた。


「……アウレリウス様。疑念を晴らすためにも、ここは調査を受け入れられるのが、王子の誇りというものでございますわ」


 私の言葉を聞き、アウレリウス様の瞳に、微かな、だが決定的な「失望」の影が走った。

 彼にとって、私は最後の防波堤だったはずだ。

 その私が、敵の提案を受け入れろと言った。


 ――ああ、その目。

 その裏切られたという確信に揺れる、美しい瞳。

 私はその光景を、永遠に記憶の絵画に閉じ込めておきたいと思った。


「……よかろう。調べろ。何も出なければ、カッシウス、貴様の首を吊る準備をしておけ」


 アウレリウス様の許可が下りる。

 憲兵たちが雪崩を打って、彼の寝室へと向かう。

 カッシウスとクラウディアが、すれ違いざまに私に目配せをした。

 「よくやった」と言わんばかりに。


 けれど彼らはまだ気づかない。

 ロンギヌスが隠した「短剣」には、私が昨夜、密かに細工を施しておいたことを。

 

 そして。

 アウレリウス様。

 貴方が今、感じている絶望は、私が用意した最高級の演劇の序章に過ぎません。


 三十分後。

 王宮の廊下を、カッシウスの叫び声が突き抜けた。


「……ない!? どういうことだ! 隠し金庫の裏に、あるはずだろう!?」


 寝室から戻ってきたカッシウスの顔は、灰色に変わっていた。

 憲兵隊の手には何も握られていない。


「報告いたします! 第一王子の寝室からは、不審なものは一切発見されませんでした! それどころか……」


 憲兵の一人が、代わりに差し出したのは、数通の手紙だった。


「……カッシウス殿下の署名が入った、隣国への軍事機密の譲渡案。そして、聖女クラウディア様が管理されているはずの公金を、私的な贅沢品に充てていた帳簿の写しです。これらが、アウレリウス閣下の寝室ではなく、なぜか『カッシウス殿下の随行員の荷物』から発見されました!」


 場が凍りつく。

 アウレリウス様は、デスクに肘をつき、組んだ指の隙間から冷酷な笑みを漏らした。


「……ほう。カッシウス。私の部屋を調べる前に、自分の足元を固めておくべきだったな」


 状況は一変した。

 冤罪を仕掛けられた側が、一瞬にして仕掛けた側の罪を暴く。

 これこそが「逆ざまあ」の醍醐味。


 しかし。

 私の計画は、こんなところで終わらない。


 私は震えるクラウディアの元へ歩み寄り、優しく彼女の肩を抱いた。


「クラウディア様。お可哀想に。……カッシウス様に唆されたのですね? 貴女のような清らかな聖女様が、そんな恐ろしいことをなさるはずがありませんわ」


 私の慰めに、クラウディアは縋りつくように頷いた。


「そ、そうなの! そうよ! 私はカッシウス様に脅されて……っ!」

「なっ……貴様、クラウディア! 何を!」


 カッシウスが激昂する。

 仲間割れ。

 醜い争い。

 アウレリウス様は、それを冷ややかに見下ろしている。


 だが、その時。

 アウレリウス様が急に激しく咳き込んだ。


「……アウレリウス様!?」


 私が駆け寄るよりも早く、彼はデスクに手をつき、真っ赤な鮮血を吐き出した。

 白磁の書類が、不吉な赤に染まっていく。


「……ッ、これは……毒……?」


 アウレリウス様の意識が遠のき、その体が床へと崩れ落ちる。

 

 予知の中の彼は、もっと後で、もっと屈辱的な形で倒れるはずだった。

 けれど、私は未来を書き換えた。

 彼が「無実の罪」で処刑される前に、「正義を成し遂げた直後に、愛する侍女(私)の手で毒を盛られる」という、究極の悲劇を付け加えたのだ。


(ああ、アウレリウス様。世界を敵に回した貴方を救えるのは、貴方に毒を盛った、この私だけ……)


 私は倒れ伏す王子の体を抱き止め、誰にも見えない角度で、その血に濡れた唇に自らの唇を重ねた。

 解毒剤を、口移しで流し込むために。


「大丈夫ですわ、アウレリウス様」


……貴方の冤罪も、貴方の命も。すべて、私の手のひらの上で守って差し上げます」。狂乱する王宮の中で、私だけが恍惚とした微笑を浮かべていた。

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