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 銀のティーポットから注がれる液体の音が、静まり返った執務室に不自然なほど高く響いた。

 琥珀色の紅茶は、白磁のカップの中でゆらりと揺れ、湯気と共にベルガモットの香りを立ち昇らせる。

 私はそれを、寸分狂わぬ動作でデスクの端へと置いた。


「……ルキア」

「はい、アウレリウス様」


 名を呼ばれ、私は静かに頭を下げる。

 デスクの向こう側に座る男――この帝国の第一王子、アウレリウス・アウグストゥス・フォン・アルカディアは、視線を書類に落としたまま、低く、冷ややかな声を漏らした。


「最近、妙な噂を耳にする。王宮の地下、あるいは西の離宮で、私の失脚を望む者たちが夜な夜な会合を開いていると」

「左様でございますか。……鼠の鳴き声にしては、少々騒がしすぎるようですわね」


 私は表情を変えず、淡々と答える。

 彼の指先が、万年筆を握る力がわずかに強まったのを見逃さなかった。

 

 アウレリウス様は、冷徹なまでの完璧主義者だ。

 汚職にまみれた貴族を容赦なく切り捨て、国庫を食いつぶす寄生虫どもを次々と「ざまあ」な末路へと叩き落としてきた。民衆からは「氷の断罪者」と畏怖され、敵対する者たちからは「血も涙もない怪物」と呪われている。

 今まさに彼が手にしている書類も、公金を横領している侯爵家を追い詰めるための、決定的な証拠のはずだった。


 けれど。

 私は知っている。

 その書類の裏に、もっとどろりとした、救いようのない「悪意」が張り付いていることを。


 私の脳裏には、時折、硝子細工が砕けるような音と共に「未来」が降ってくる。

 それは、今から一ヶ月後の光景。

 この壮麗な王宮の大広間で、アウレリウス様が跪かされ、民衆や貴族たちの前で「冤罪」を着せられる瞬間の、あまりにも美しい絶望の光景だ。


(ああ、楽しみ……いえ、なんておいたわしいのかしら)


 私は胸の内で、熱い吐息をつく。

 

 本来、彼は加害者であるはずだった。自分を害そうとした者たちを、知略と権力で叩き伏せる側。

 しかし、運命の歯車は狂い始めている。

 彼の異母弟であるカッシウスと、その婚約者であり「悲劇の聖女」を演じるクラウディア。あの二人が仕組んだ罠は、アウレリウス様がこれまで積み上げてきた「正義」のすべてを、「罪」へと塗り替えてしまう。


 国家反逆、毒殺未遂、公金横領――ありとあらゆる泥を塗られ、誇り高い彼が泥にまみれ、最後には処刑台へと送られる。

 ……そんな、報われない「バッドエンド」を、私は予知の中で何度も繰り返し観賞してきた。


 そう、私は彼が大好きだ。

 無敵の王子の、折れそうな横顔が。

 完璧な知性が、卑劣な罠に嵌められて曇っていく様が。

 誰も信じてくれない孤独の中で、ただ一人、世界の全てを呪いながら消えていく姿を想像するだけで、心臓が痛いほどに脈打つ。


 だからこそ、私は彼を救うことに決めたのだ。

 彼を陥れる連中を、さらに残酷な絶望へと叩き落とすために。

 そして、傷ついた彼が最後に縋りつく唯一の場所が、この私の腕の中でなければならないから。


「アウレリウス様、少し……お疲れのようですね」


 私は歩み寄り、彼の肩にそっと手を置いた。

 侍女としては、許されざる不敬。

 普通なら「控えろ」と一喝される場面だ。


 しかし、彼は拒まなかった。

 ただ、重い瞼を閉じ、深い溜息をついた。


「……ルキア。お前だけだ。この王宮の中で、私の背後を任せられるのは」

「光栄でございます。私はどこまでも、貴方様について参りますわ」


 その言葉の裏側で、私の脳裏に新しい「ビジョン」が過った。


 ――夜の回廊。

 クラウディアが、隠し持った偽の「証拠品」を、アウレリウス様の寝室に忍ばせようとしている姿。

 彼女の隣で、カッシウスが下劣な笑みを浮かべ、兄の失脚を確信している。


(ふふっ。お馬鹿さんたち)


 私は心の中で嗤う。

 彼らはまだ気づいていない。

 自分たちが仕掛けた「ざまあ」の罠が、実は巨大な鏡のようなもので、そのまま自分たちの喉元へ突き刺さるように、私が書き換えているということに。


「アウレリウス様。今夜は、西の庭園で咲いた月下美人を活けておきました。……少し、香りが強いかもしれません」

「……そうか」


 「香りが強い」というのは、符牒だ。

 今夜、敵が動く。そう伝えた。

 アウレリウス様は、私の意図を察したのか、わずかに目つきを鋭くした。


「ルキア。一つ聞きたい。……お前は、私が罪人になっても、同じように茶を淹れてくれるか?」


 自嘲気味な問い。

 彼はすでに、自分が孤立無援になりつつあることを悟っているのだ。

 どんなに正しくあろうとしても、周囲の悪意が彼を黒く染めようとしていることを。


 私は、彼の耳元で囁くように答えた。


「もちろんですわ。たとえ世界中が貴方を断罪しても、私だけは貴方の『共犯者』でございますもの」


 アウレリウス様が、私の手首を掴んだ。

 痛みを感じるほどの強さ。

 冷徹な王子の瞳の奥に、獣のような、切実な渇望が揺れている。


「共犯者、か。……悪くない響きだ」


 彼は私の手を離し、再び書類に向き直った。

 その背中は、以前よりもずっと孤独で、けれど、私にとってはたまらなく愛おしい。


 窓の外では、夕闇が王宮を飲み込もうとしていた。

 これから始まるのは、美しき王子の冤罪劇……を舞台にした、残酷な逆転劇。


 クラウディア様。

 カッシウス様。

 あなたたちが用意した「断罪の宴」を、私が最高の「地獄」に変えて差し上げます。


 だって、私はアウレリウス様を愛しているのですから。

 彼がどん底まで落ちる瞬間を特等席で見届け、そして、彼をどん底から引き上げた後に、彼を傷つけた全ての者を、私自身の足で踏みにじるその日を。


 私は優雅に一礼し、執務室を後にした。

 廊下を歩く私の足音は、静かな夜の闇に、復讐のカウントダウンのように刻まれていった。


────


 同じ時刻。

 王宮の南翼にある豪華な私室では、一人の少女が鏡の前で、恍惚とした表情を浮かべていた。


「ねえ、カッシウス様。これで本当に、あの傲慢なアウレリウス兄様を追い出せるの?」


 クラウディア・ネロ・クラウディウス。

 公爵令嬢であり、聖女と謳われる彼女は、無垢な少女のように小首をかしげた。

 その瞳には、聖女の慈愛など微塵も存在しない。


「ああ、間違いないよ、クラウディア。あいつが隠し持っていたとされる『禁書』と、不当な資産運用の記録。すべて準備は整った。父上……国王陛下も、最近のアウレリウスの強引な改革には眉をひそめておられる。トドメになるだろう」


 カッシウスが、彼女の肩を抱き寄せ、冷笑を浮かべる。


「あいつは正しすぎたんだよ。正しすぎる人間は、往々にして、誰よりも醜い罪を着せられて死ぬのが世の常だ」

「楽しみだわ……。あの冷たいお顔が、絶望に歪む瞬間が見られるなんて」


 二人の笑い声が、豪華な部屋に響く。

 彼らはまだ知らない。

 その会話の一部始終が、廊下の影で静かに佇む一人の侍女に、筒抜けになっていることを。


 影の中から、ルキアの冷ややかな眼差しが二人を射抜いていた。


(……台本通りのような、完璧な悪役ぶりですね)


 ルキアは、胸元に隠した小さな手帳に、何かを書き留める。

 それは、予知した未来を、自分にとって都合の良い形に歪めていくための「筋書き(シナリオ)」だった。


 冤罪を回避させるだけでは、足りない。

 一度、彼は絶望の淵まで落ちる必要がある。

 なぜなら、人は極限状態においてのみ、真の「味方」を認識するからだ。


 彼を陥れようとする者たち。

 彼を裏切る騎士たち。

 彼を罵る民衆たち。


 すべてを「逆ざまあ」の舞台装置として整え、ルキアは闇の中に消えていった。


 運命の審判まで、あと二十八日。

 物語は血と硝子の香りを孕んで、加速し始める。

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