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 重い天蓋付きの寝台。

 遮光カーテンの隙間から差し込む月光が、床に長い白銀の筋を描いている。

 部屋を支配しているのは、沈黙と、私が用意した強い香りの百合、そして……微かに残る血の匂いだ。


 私は寝台の傍らに置いた椅子に深く腰掛け、眠り続ける男の顔を眺めていた。

 普段の氷のように冷徹な威厳は消え、蒼白な肌と乱れた前髪が、彼をひどく脆い、硝子細工の彫像のように見せている。


(ああ、本当に……美しいわ、アウレリウス様)


 私はそっと手を伸ばし、彼の頬を撫でた。

 指先に伝わるのは、少し高めの体温。私が盛った『毒』と、それを打ち消すために流し込んだ『解毒剤』が、今も彼の体内で激しくせめぎ合っている証拠だ。

 

 普通なら侍女が王子の肌に直接触れるなど、死罪に相当する不敬だろう。

 だが今の彼には私を拒む力はない。

 そして目覚めた後の彼にも、私を切り捨てる選択肢は残されていない。

 私はそうなるように、この国の運命そのものを編み変えてきたのだから。


「……ん……っ」


 微かな呻き声。

 アウレリウス様の睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれた。

 深い紫の瞳が、焦点の定まらないまま虚空を彷徨い、やがて至近距離で見つめる私を捉えた。


「……ルキア……?」

「お目覚めですか、アウレリウス様。……ご気分はいかがでしょうか?」


 私は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、彼の背中に手を添えて、ゆっくりと体を起こす手助けをした。

 彼はひどく動揺しているようで、自分の手を見つめ、それから周囲を見渡した。


「私は……確か、執務室で……カッシウスと……」

「はい。カッシウス様たちの卑劣な罪が暴かれた直後、貴方様は突然倒れられました。……敵が放った暗殺者の毒によって」


 私はあえて「敵が放った」という嘘を、真実のように告げた。

 アウレリウス様は、こめかみを押さえながら苦痛に顔を歪める。


「毒だと……。あの場にいた誰かが、私に毒を盛ったというのか。……ロンギヌスか? それとも、カッシウス自身が……」

「いいえ、アウレリウス様。犯人は……クラウディア様が聖水と偽って、貴方様のデスクに置いていた花の香りに、毒が仕込まれていたのですわ」


 真っ赤な嘘だ。

 あの時、彼の喉を焼いた毒は、私が彼に淹れた最後の一杯の紅茶に含まれていた。

 けれどカッシウスたちが彼を陥れようとしていたのは事実であり、今の彼にとって、カッシウス以外の誰かを疑う余裕などないはずだ。


「……あいつか。……あの女まで……」


 アウレリウス様の瞳に、冷たい怒りの炎が宿る。

 誇り高き王子。誰よりもこの国を愛し、正しくあろうとした彼は、今、その「正しさ」ゆえにすべてを失いかけた。

 信頼していた騎士に裏切られ、肉親に命を狙われ、信じていた世界が足元から崩落していく。


 その絶望の淵で彼は私を見上げた。


「……なぜ、私は生きている。あの時、確かに……意識が消えるのを感じた。死を、覚悟したはずだ」

「私が救い出したのです」


 私は彼の手に自分の手を重ね、指を絡めた。

 

「貴方様が倒れた瞬間、私は迷わず口移しで解毒剤を飲ませました。……侍女としての分をわきまえぬ不敬、どうぞお裁きください。ですが、私は貴方様を失うことだけは、耐えられなかったのです」


 アウレリウス様は息を呑んだ。

 口移し。

 その言葉の響きに、彼の白い頬がわずかに赤らむ。

 

「お前が……私を……。……ルキア、お前は……。信頼していた者たちが私を罪人と決めつけようとしていた時に、なぜ……」

「申し上げたはずですわ、アウレリウス様。私は貴方の『共犯者』であると」


 私は彼に顔を近づけ、その耳元で甘く、残酷な真実シナリオを囁き続けた。


「カッシウス様はすでに、憲兵隊の地下牢に繋がれております。クラウディア様も、聖女の称号を剥奪され、謹慎を命じられました。……陛下も、今回の件でひどくショックを受けられ、しばらくは貴方様に政務を任せる(隠居)とおっしゃっています」

「……そうか。ならば、私の勝利だな」

「ええ。表向きは。……ですが、アウレリウス様。貴方は気づいていらっしゃいますか?」


 私はわざとらしく、悲しげに瞳を伏せた。


「貴方の近衛騎士たちの半分以上が、すでにカッシウス側に寝返っていました。貴方が信じていた部下たちは、貴方が死ぬのを待っていたのです。……今、この広い王宮の中で、貴方の無事を心から喜んでいる人間が、私以外に、誰かいると思われますか?」


 アウレリウス様の体が、微かに震えた。

 孤独。

 私が彼に与えたかった、最高のスパイスだ。

 無敵の王子から、味方を、誇りを、居場所を一つずつ奪い去り、最後に残った「たった一人の理解者」として君臨する。


「……誰も、いないのか。……私を、誰も……」

「いいえ、私がいます。私だけが、貴方の味方です、アウレリウス様。……たとえ世界が貴方を拒んでも、私は貴方の足元に跪き、貴方の影となって、貴方を傷つけるすべてを排除いたしましょう」


 私は彼の腕の中に滑り込み、その胸に顔を埋めた。

 アウレリウス様の手が、迷うように空を彷徨い……やがて、私の背中に回された。

 すがりつくような、切実な力。


「……ルキア。お前だけだ。……お前だけが、私を見ていてくれた。……私を裏切らなかった……」


 彼の声は震えていた。

 あんなに冷淡で、傲岸不遜だった男が、今は一人の侍女に魂を委ねようとしている。

 

(ふふっ……ああ、愛おしいわ、アウレリウス様。……もっと、もっと私なしでは生きていけないようになって。……貴方の世界から、私以外の光をすべて消してあげます)


 私は彼の胸の中で、人知れず暗い笑みを浮かべた。


 翌日。

 王宮の大広間では、昨日の事件の「後始末」が行われていた。


 囚人服を纏わされ、鎖に繋がれたカッシウスと、髪を振り乱して泣き叫ぶクラウディア。

 二人の前には、玉座に座る国王陛下と、その隣に立つアウレリウス様の姿があった。


「……言い訳はあるか、カッシウス」


 アウレリウス様の声は、以前よりもさらに低く、感情の欠落した響きを持っていた。

 毒の影響か、あるいは心が壊れかけているのか。

 彼は冷徹な瞳で、かつての弟を見下ろしている。


「あ、兄上! 誤解だ! 私は……私はただ、この国を思って……! 全てはあの女、クラウディアがやったことだ!」

「違うわ! カッシウス様、貴方が私を唆したんじゃない! 聖女である私を、道具のように扱って……っ!」


 醜いなすりつけ合い。

 それを見守る貴族たちの間には、冷ややかな空気が流れている。

 昨日までカッシウスに媚びを売っていた連中も、今は彼を「国家反逆者」として指差し、唾を吐きかけていた。


「黙れ」


 アウレリウス様の一喝で、広間が静まり返る。


「貴様たちの罪は、すでに明白だ。……私への冤罪工作、毒殺未遂、そして隣国との内通。……これらすべてに対する罰は、死罪をもって贖わせるべきだが」


 アウレリウス様は、一度言葉を切った。

 そして、私の顔を一瞬だけ見た。

 事前の打ち合わせ通りに。


「……だが、私の侍女、ルキアの慈悲深い進言により、刑を軽減してやることにした」


 広間にどよめきが走る。

 カッシウスとクラウディアの瞳に、絶望から一転、卑しい希望が灯る。


「死罪は免じてやる。……その代わり、貴様たちは『不浄の者』として、北の国境にある鉱山へ送る。魔力が枯渇し、命が尽きるまで、そこで帝国のために働き続けるがいい」


「鉱山……!? あんな地獄のような場所に!?」

「嫌よ、嫌! 私は聖女なのよ! あんな汚い場所へ行くなんて……!」


 死よりも過酷と言われる、魔力鉱山での強制労働。

 そこへ送られた者は、一年と持たずに心身を病み、ボロ雑巾のように捨てられる。

 一時の死を与えるよりも、ずっと長く、ずっと惨めに、自分たちの愚かさを呪わせ続けるための「慈悲」。


「連れて行け」


 アウレリウス様の冷酷な宣告と共に、二人は衛兵たちによって引きずられていった。

 去り際、私はクラウディアと目が合った。

 彼女の瞳には、私への底知れぬ恐怖が刻まれていた。


 彼女は気づいたのだ。

 自分がアウレリウス様を陥れようとしていたことさえ、実は私の手のひらの上での「おままごと」に過ぎなかったことを。


 広間に静寂が戻る。

 貴族たちは、まるで自分たちも断罪されるのではないかと戦々恐々とし、アウレリウス様に跪いた。


「アウレリウス殿下、万歳!」

「真の皇帝の継承者に、栄光あれ!」


 喝采が響き渡る。

 アウレリウス様はそれを無表情に受け流し、私の元へと歩み寄った。


「……終わったぞ、ルキア。お前の望み通りにな」


 彼は私の手を大勢の前で取った。

 侍女の手を取るなど、本来なら許されない行為。

 だが、今の彼にそれを咎める者はいない。


「いいえ、アウレリウス様。……これはまだ、始まりに過ぎませんわ」


 私は彼の耳元で、誰にも聞こえないように囁いた。


「次はこの国を腐らせている貴族たちを、一人残らず掃除いたしましょう。……そして、貴方が真の唯一無二の支配者となった時。……その隣にいるのは、私だけでございます」


 アウレリウス様の瞳が、わずかに揺れた。

 それは恐怖か、それとも、抗いようのない快楽か。

 彼は私の手を強く握り返し、広間の中心へと向かって歩き出した。


 硝子細工のような予知の未来は、すでに砕け散った。

 ここにあるのは、私が書き換えた、新しい「物語」のみ。

 

 王子の冤罪を回避し、共に逆ざまあを成し遂げ、そして。

 彼を私だけの専属の王へと堕としていく。


 私の予知は、今、新しい光景を映し出していた。

 それは、真っ赤な血で染まった王座に座るアウレリウス様と、その膝元で微笑む私の、あまりにも幸福な地獄の光景だった。

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