32
32(ジョイル視点)
バタン
日が傾き、暗くなってきたころ、デシャン男爵領の大通りから帰宅したジョイル。
ドアを開けると、油絵で使用する絵の具と油、埃の臭いが鼻をつく。
最初は予想外の臭いで少し顔をしかめていたが、今は慣れてしまった。しかし、彼にとっては不快な臭いなので、外出から帰宅後に改めて嗅ぐと気持ちが悪い。
部屋の隅に埃が溜まっているので掃除も必要だが、ジョイルは元貴族。使用人の仕事を自分がするという考えに思い至らない。
お腹をすかせたジョイルは荷物を降ろし、食事の用意をする。といっても、食料はほとんどないので、この日の夕食は薄く切ったパンに水だけだ。
「こんなはずじゃなったのにな……」
そう呟き、薄く切ったパンを水でふやかしながら食べる。水でふやかして食べるのは、少しでも腹が満たされるのではないかという考えからだ。
デシャン男爵領の領民なら、自分の描いた絵が評価されるはず――そう思っていたのに、当てが外れてしまった。
意気揚々と今まで描いてきたスケッチ画を大通りで売ろうとしたが、散々な結果に。もう少しで老婆に売れそうだったが、値段を言うと取り消されてしまった。再び値段を下げて売ることは何度も脳裏をよぎったが、自分を安売りしたくない。
ジョイルにとって、五万は安すぎると感じていた。そのことから、値段を五万より下に設定することを避けたのだ。
すぐにパンを食べ終え、制作途中の油絵を見る。
そこには、いつか見たベルワーテ侯爵邸の庭園に咲いていた、赤い大輪の薔薇らしきものが描かれていた。
描かれている薔薇は一輪だけで、キャンバスのほとんどを占めている。
赤い花弁は、鮮やかな赤色のブライトレッド一色で塗られていた。輪郭を黒色ではっきりと描かれているので、どこか平面的だ。
背景は緑色一色で乱雑に塗られていた。おそらく葉や茎なのだろうが、あまりにも拙いので判別が難しい。
初心者のせいか、乾き切っていない上から色を置いたのだろう。ところどころ色が混じってしまって汚らしい。
「油絵の具が、こんなに乾くのに時間がかかるなんて知らなかった」
ジョイルは思い通りに表現できていないせいか、少し苛立っていた。彼が思い描く絵は、もっと鮮やかな色なのだろう。
しかし、スケッチ画が一枚も売れなかった今、この絵に賭けるしかない。
「デシャン男爵領の領民でも、やっぱり平民だな。僕の描いた絵の良さが分からないなんて」
スケッチ画が一枚も売れなかった腹いせか、ジョイルはデシャン男爵領の領民を貶す。
「僕は貴族――それも、侯爵家出身だ。大通りの画廊に持って行けば、すぐに評価されるだろう。なんてったって、あそこが相手にしている客は貴族や豪商だろうからな!」
初めてデシャン男爵領に来た日を思い出す。
身なりの良い貴族らしき男性が店に入っていくのを目の当たりにした。画廊にいた五人から十人ほどの客は皆、貴族や豪商だろうということは洗練された服装からして容易に想像できる。
きっと、自分の絵が評価されるのは、あのような特権階級に違いない。
そう思いながら、ジョイルは自身の描いた絵が評価されるのを夢見る。
想像したのか、自然と彼の顔がにやける。
元気を取り戻したジョイルは油絵を完成させるべく、再び絵筆を執った。




