第4章 魅惑のマレタラッタ(6)
海の中は思った以上に深く、穏やかだった。目の前を得体の知れない浮遊物が漂っていく。ときに、防御魔法の泡にはりつき、存在を十分にアピールした。水の感触も匂いもしない。油が水に混ざりとろりとしていそうな、汚らしい海の中に自分が入っているとは微塵も感じさせないほど、泡の内側の空気は澄み渡っていた。防御魔法の中にいても、物理法則は自分が現在いるところに準拠しているらしく、海の底に行くためには精一杯泡の中で泳がなければいかないようだ。キヒュームは必死で足を動かす。やや褐色がかった虹色に汚れた水の中では、視界がかすみ、前を泳ぐアイレーンを追いかけるだけで一杯一杯だったのだ。
アイレーンはふわりと舞うように泳ぎ、キヒュームたちを先導する。和服のスカートの裾からは、美しい足ではなく、魚のような尾びれが見える。【水に浸かると人魚になる】というハッコオイ族の特性は防御魔法を使っている場合でも適用されるらしい。
「さぁ、こちらです」
アイレーンがふわっと止まり、水を掻くように手を横に動かすと、そこに激しい水流ができた。ドリュウルもラクビースも躊躇うことなく、水流に入り込む。キヒュームもまたそれに続こうと、足を動かす。
「キヒューム、さま」
水流に伸ばしている片手がが巻き込まれそうになったとき、アイレーンが伸びていない方の手を引っ張った。体がガクンッと変な風に止まる。防御魔法越しに体が柔なものに包まれた。衝撃が柔なものに吸収される。ほっとした途端、自分の現状に気がついた。アイレーンが、キヒュームを、抱きしめていたのだ。
「えっ……? あっ?」
「急に引き止めて、ごめんなさい。それとその、わたくし、ずっとキヒューム様には謝罪をしたくて……」
甘やかな声が耳に直接届く。頭の奥が痺れる感じがした。とろけてしまいそうだ。次の瞬間、体の支えを失った。アイレーンの腕が放され、体が海に投げ出される。
「そこの貴女、逢い引きをしているの?」
海中を冷たい水が吹き通った。心臓が縮まる。
「貴女たち、ちゃんと覚悟はしてるいるんでしょうね? まさか何も考えずに逢い引きなんてものをしてるわけじゃないでしょうね?」
身も心も凍えるような冷たい声、冷たい言葉、こんな冷たいものを投げつける者たちは一種族しかない。
「クルダマオ族……」
キヒュームはバランスが崩れていた体を立て直し、声のする方を見た。泡がふよふよと漂う。
「クルダマオ族? 私のどこをどうみてクルダマオ族なんて言うのかしら」
キヒュームは口をつぐんだ。目の前の者の異様さに、咄嗟にアイレーンを後ろに匿う。
「……やっぱり、貴方も変な目で見るのね」
「え、いやそれは、だって」
「貴方たちの行き着く先は、ここにあるのに、ね」
足は人魚のそれなのに、体はシルバーの毛で覆われた毛むくじゃらで、シルバーの髪が生えた頭には、同じくシルバーの猫の耳がついている。それは、今までキヒュームが見たことのない種族の形だった。
「ハーフ」
自分自身にまとわりつく視線を振り払うように、その場でくるりと一回転すると、女は一言だけつぶやいた。ハーフ、その意味を考えるまでもなかった。彼女はハッコオイ族とケモタリア族の混血児なのだ。そういった類の者たちがいることは知っていた。けれど、実物を見るのは初めてだ。女の耳が、やけに忙しくピクピクと動く。
「そんなにマジマジと見ないでくれるかしら? あまりいい気はしないわ」
「あっ、その、ごめん」
キヒュームは、アイレーンを庇うために出していた手を下ろした。敵意を感じなかったからだ。彼女はただ、同情と哀れむような目で見ているだけだった。キヒューム自身も目の前にいる者は見てはいけない部類の存在のようで、目を逸らしたくなる。
「貴方たちの愛の先にあるのは、これよ。貴方たちに耐えられるかしら。汚いようなものを見るような目で見られること、愛する子供が謂れのない迫害を受けること。耐えられると踏んだ上で、愛し合っているのかしら」
女は、もう一度その場でくるりと回りながら、いじらしく笑いながら、言葉を続ける。
「まぁ、いいわ。貴方たちがどのくらいの覚悟かは、今のところ、関係ないもの。ただ、貴方たちの子が悲しまないようにだけはしてあげて。私はそれを忠告したかっただけだから。それじゃ、またどこかで会えたらいいわね」
女が上へ舞う。キヒュームは、上を見た。
女は綺麗さっぱり消えていた。どこに行ったのか、見当もつかない。そういえば、女も防御魔法の泡に守られていた。ハーフでも防御魔法は使えるのだろうか。
「キヒューム様……。守っていただき、ありがとうございます」
アイレーンが一歩前へ出て、キヒュームと並ぶ。
「これで守っていただけるのは二度目ですね。……その、言い訳がましくなってしまうのですが」
「ん?」
「わたくし、キヒューム様には防御魔法のこと、伝えようと思っていたのです。……競売での爆発の時、わたくしたち、爆破から免れて無傷だったでしょう? キヒューム様はそれに大変驚かれていて……。だから、わたくし、その時に防御魔法のことを伝えようとしていたのです。キヒューム様は命の恩人でしたから、伝えても良いと判断したのです」
——目の前で爆発されては、俺も、君も、バラバラになってもおかしくなかったんじゃないか?
——その通りです。その通りなんですが……。実はわたくしたちハッコオイ族には……。
廃墟が爆発し、瓦礫になったあの場所、あの時、あの場面が、セピア色になって蘇ってくる。
「そういえば、そうだったね。いまの今まで忘れてたよ」
「本当は、お礼と謝罪と共に、防御魔法について打ち明けたかったのです。ですが、旅の中で伝えるタイミングがなかったと言いますか……」
「いいんだ、気にしないでくれ。今、こうして教えてくれただけで十分だよ」
キヒュームは笑う。酸素ボンベを口から外しているおかげで、キヒュームの表情はアイレーンによく見えているはずだ。
アイレーンも目を細め、笑った。しなやかで、儚い可愛らしさを含んだ笑みだった。




