第4章 魅惑のマレタラッタ(5)
キヒュームは口を挟むのを止めた。アイレーンが喋るのを自発的に待ったのだ。アイレーンは三人から目を伏せ、ぼそぼそと何かを詠唱する。すると、アイレーンの小さく薄い口から泡のようなものがぷわっと出てきたではないか。その泡は見る見るうちに大きくなり、すっぽりとアイレーンを包み込んでしまったのだ。
アイレーンを包む泡はキラキラと煌めいていた。それはまるで、シャボン玉が太陽に反射し、虹色に輝いているみたいな煌めきだった。
「防御魔法」
ラクビースは呟いた。耳馴染みのない言葉に、キヒュームは言葉を繰り返した。
「防御、魔法……?」
「うん、そうだよ。……本当にすごい。この目で初めてみた」
隣に立つドリュウルのハッと息を呑む音も聞こえた。キヒュームは渋面を作る。
三人が何も教えてくれなかったからではない。自分があまりに無知だからだ。
俺は何も知らない。常識も、歴史も、教養も、何も知らないのだ。
それがすごく恥ずかしい。
「ええ。防御魔法です。海底街の存在よりも、差別主義者であることよりも、おそらく、これが一番の秘密かもしれません。……わたくしたちハッコオイ族は防御魔法を使用することができます。それも、いとも簡単に」
「そんなことって……」
「びっくりなさるのは当然です。ですが、こうして皆様の前で防御魔法を披露できているのがその証拠。ですから、わたくしたちはマスクなどしなくても水の中で呼吸ができますし、毒の中でも生きていけるのです」
「水中では、君たちハッコオイ族は人魚の姿になる。だから、どこかでえら呼吸でもしてるんだってずっと思ってたよ」
「うふふ。そうですよね。きっとハッコオイ族の者たち以外はそのように勘違いしているかと思います。というより、そういう勘違いをするように、わたくしたちが仕向けましたから」
泡の中でアイレーンは笑った。
彼女が笑うだけで、周りが華やぐ。幻想的な泡のおかげで、彼女の華々しさがより際立っている気がした。
アイレーンが続ける。
「水の中で呼吸をするときは、ほんの小さな防御泡を作って行動しているのです。陸上にいる皆様……いいえ、たとえ他種族の方々が水の中にいたとしても、その泡には気づかないほどの小さな泡です」
「なるほど……。すごく賢い判断だ。水中にいれば水泡があるのは当たり前。誰も君たちの口周りにある泡なんて気にしないというわけか」
アイレーンが頷いた。
「防御魔法は攻撃魔法を得意とするクルダマオ族が喉から手が出るほど欲しいと願っていた魔力の一つです。……それに加え、先ほど説明したようにわたくしたちは他種族を嫌っています。だから、わたくしたちは終戦後もこの事実を隠したままにしておりました。人間族が世界平和のため、防御魔法を利用した科学品を作ろうと知っていてなお、です」
アイレーンは目を伏せ、唇を結んだ。
話は全て終わったみたいだ。
人間族も関わっていたのか……。
人知れず、ため息が出る。
自分の無知さ加減に腹が立ってきたのだ。
話から察するに、防御魔法はそれだけ高度な魔力を必要とするのだろう。物知りなラクビースが驚愕し、防御に長けたドリュウルが息を呑み、クルダマオ族が喉から手が出るほど欲しがり、そして、人間族が科学技術に組み込もうとするほどの魔法。
それほどのものなのに、知らなかった。
頭痛がしてきた。無知なことに対する怒りと、呆れと、悲しさと、情けなさが一気に押し寄せる。全ての感情がそれぞれに拳を握り、キヒュームをキヒュームの内側から殴りつける。
あぁ、なんて愚かなんだろう。
こんなことで悩んでいる場合ではないのに。今、やらなければいけないことは、アイレーンの故郷を救うことなのに。
いろんな感情が押し寄せてきて、眩暈がする。情けないことに、気落ちしてみんなの話を聞いているのが精一杯だった。
「なるほどね……。教えてくれてありがとう、アイレーンさん」
気の抜けているアホなキヒュームなんて気にも留めていないラクビースが、落ち着きはらった声で言った。
「いえ。これから海に入るなら知っておいて欲しかったのです。おそらく、海の中の全員が防御魔法に包まれ、防護マスクも無しに泳いでいるはずですから。……ふふ、本当はわたくしたちに、防護マスクなんてものは必要ないのです。彼らが今、陸地でマスクをしているのは、外へ向けたパフォーマンスなんですのよ」
「だろうね。アンタたちは防御魔法が使えるんだからね。つまり、こーんな腐った海に入ったって大丈夫なわけだ。その泡の中にいれば、体も汚染されないだろうしね」
「ドリュウル様の言う通りです」
アイレーンが頷く。
「それと、その……。皆様には本当に、心よりお詫び申し上げます。防御魔法があれば、これまでの道中、もう少し楽に進めたかもしれないのに……」
視線を外し、アイレーンは罪悪感を含んだ申し訳なさそうな顔のまま俯いた。キヒュームは拒否するわけでもなく、肯定するわけでもなく、ただ黙ってアイレーンを見つめていた。
「いいんだ。回復魔法に解毒魔法、それから肉体強化魔法まで、アイレーンさんにはお世話になりっぱなしだからね。防御魔法までしてもらったら、こっちが合わせる顔がないよ」
その通りだと思った。
ラクビースの言葉にかろうじて頷いてみせる。
アイレーンはサラサラとした砂を足先で遊び、そして、再び三人を見た。そこに罪悪感の陰はもうない。
「皆様、お優しいお言葉ありがとうございます。本当に感謝してもしきれません」
アイレーンは丁寧に頭を下げると、今度は自分のポシェット(紫色と水色の紫陽花が描かれているがま口のショルダーバッグだ)から、ウェットスーツ、スノーケル、足につけるフィン、潜水酸素ボンベ……等々、潜水に必要なものを三人分取り出した。
「こちらを、お持ちになって。海の中にいる間、もちろん、わたくしが皆様に防御魔法をおかけします。……ですが、戦いの際、わたくしが瀕死になった場合、防御魔法も消失してしまいます。ですので、その、念のため、です」
歯切れの悪い物言いだった。
「……こんなものを用意してしまった失礼を、どうぞお許しくださいまし。先ほど一人で行くと言ったにもかかわらず、わたくしは、皆様がついてきてくれると勝手に信じ、勝手に道具を用意してしまいました。このような無礼をどうか、お許しください」
「色々と準備をしてくれてありがとう。助かるよ。アイレーンに知らないうちに負担をかけていてごめんな。話しづらかっただろうに、話してくれて、ありがとう」
キヒュームはやっと口を開いた。お礼と謝罪を伝えたかった。本当に感謝をしているのだと伝えるために、微笑んでみる。けれど、自分の口がマスクで覆われていることに気がつき、急いで優しく目を細めた。
「……皆様。本当に、本当に、ありがとうございます。では、いきましょう。わたくしの生まれ育った海に。……あぁ、ウェットスーツをお召しになって。マスクを取り、酸素ボンベとゴーグルも着用してくださいまし。匂いと毒にやられないよう、防御魔法をかけさせていただきます。……本当に、お手間をおかけしてしまい、大変申し訳ございません。いつも通り後方に回り、サポートに徹しますわ。絶対に気絶しないことを誓います。この予備の服が杞憂だったと言わせて見せますから」
アイレーンが手を前にかざす。真っ白で細長い指の先から、シャボン玉のような泡が三つ現れた。アイレーンが今、体に纏っている泡だ。その三つの泡は、アイレーンと同様、キヒュームたちの体をすぽりと覆う。
キヒュームたちは着替えた。着替えたといっても、ボタンをひとつ押すだけで、姿が魔法のようにくるりと変わっただけだ。かつてのように、服やズボンを脱ぎ、そして、ウェットスーツを履くなんてまどろっこしいことはせずに、ボタンひとつで着替えることができる。
……ボタン?
疑問が頭を掠める。
ボタンってなんだ? というか、今まで来ていた服を、俺はウエストポーチに入れたよな? どうして服のような嵩張るものが、俺の小さなウエストポーチに、すんなりと吸い込まれるように入ったのだろう。俺のウエストポーチは魔具や魔力が注入された科学品なんかではなく、普通の茶色いウエストポーチなのに。
喉の奥が鳴る。しばらく飲み物を飲んでいないことに気がついた。
だけど、全く喉が渇いていない。なぜだ?
服を着替え終えた他の二人が、アイレーンと話している。キヒュームだけがその情景を客観的に眺めている。
彼らもまた、早着替えをしていたようだし、彼らのバッグも大容量の荷物が入るようだ。
疑問を投げかけようと三人に近づいたキヒュームに、アイレーンが声をかけた。
「皆様、準備ができたようですね。おそらく、海の中は汚染され、猛毒の海水になっていると思われます。ですから、皆様、油断しないように。そして、その、こんなことをわたくし自身が提案するのは全くもって卑怯な話ですが……もし、わたくしが気絶した場合には、優先して復活草をわたくしにお与え下さると、皆様が毒でダメージを受けずに済むかと存じます」
キヒュームを除く二人が頷く。
復活草。気絶したり、瀕死の状態になったものを回復させる草のことだ。その草は貴重な品で、お店に並ぶことはない。入手方法は、宝箱から入手するか、時々地面に生えているものを拾うかの二択だ。かなり入手困難の品なのである。
できればその草は使いたくない。これから待ち受ける敵に対して使うよう取っておきたいのだ。そのためには、回復薬をアイレーンに全部使い、誰かの気絶瀕死に際して、アイレーンの復活魔法を利用するのが一番効率がいいだろう。
——自分の見解が思わぬ方向へと向かっていることはないか?
不意に、再びルブフの声が脳に響いてきた。
真実を見透かしたような、灰色の瞳が目の前に浮かぶ。
あぁ。なんなんだよ。本当に、なんなんだよ。
泡から出てくる磯のような匂いが僅かに鼻につく。
クルダマオ族の妄言に、惑わされている。どうやら、俺は頭がおかしくなってきてるらしいな。
キヒュームはルブフの言葉を打ち消すように、声を出す。
「さあ、行こう。海底外へ」
ルブフの瞳も、変な思考も消えていく。手でゴーグルの位置を直すように、フレームを持った。指先に力がこもる。ゴーグルが微かに持ち上がり、パチンと目の周りに刺激が来た。




