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第4章 魅惑のマレタラッタ(3)

 


 結論から言えば、防護マスクを買って正解だったと言える。海が近づくにつれ、腐臭は強くなり(というのも、ドリュウルが意地を張って、お店から出てしばらくは防護マスクをつけなかったのだ)、匂いはそのうち毒のようになって、マスクをつけていない者の体力を削っていったのだ。


「これは……たまらないね……」


 本当に堪らないのだろう。いつも上気して赤みが差しているドリュウルの顔は真っ青になり、今にも倒れてしまうのではないかと心配になってしまうほどだった。キヒュームは慌てて、ドリュウルの頭に真っ黒な防護マスクを被せる。


「……ありがとね。こりゃ、マスクがなきゃ死んでたね」


 強がってマスクを拒むんじゃないかと思っていたドリュウルの行動は、まるで予想と反対だった。いや、むしろマスクを誰よりもありがたがっているように見える。ドリュウルはマスク越しでもわかるくらい、大きく深呼吸をした。


「……アイレーンさんがいないんだ。無駄な体力消費は避けたほうがいい」


 ラクビースは先に先にと進みながら言う。


 キヒュームもドリュウルも頷いた。アイレーンの治癒魔法はとても重宝していた。けれど、アイレーンと離れて、改めて彼女の魔力の有り難さが身に染みてわかったのだ。


 水色のかわいらしい建物群を抜け、海辺の近くまできたとき、海の水が浜辺に打ち上げられる音を聞いた。音だけ聞けば広大な海の癒しの空間だと勘違いしてしまいそうだけど、マスク越しに見える海は緑と紫に濁り、癒しの空間とは程遠いほどに汚らしい。汚染、という言葉がぴったりだ。今ここでマスクを外したら、強烈な臭いに即死してしまうかもしれない。


 キヒュームたちはアイレーンを探す。彼女は一体、どこにいるのだろう。何をしているのだろう。


 キヒュームは焦る。もし、変なことに巻き込まれていたらと思うと、居ても立っても居られなかったのだ。


 しかし、その心配は杞憂だった。しばらく歩いた先に、アイレーンはいた。マスクをしていても、青の美しい髪と、美しい服で彼女だとすぐにわかった。彼女はじっと海を見つめている。


「アイレーン!」「アイレーン!」「アイレーンさん!」


 三人が同時にが叫ぶ。三人は一斉に仲間の元へ駆け出した。足を素早く動かすほどに砂が舞う。真っ黒なマスクがこちらを向いた。


「みなさま……。あぁ、ごめんなさい。わたくしったら、勝手に一人で暴走して……心配、かけましたよね。ああ、ほんとうに、申し訳なく……」


「いいんだ。いいんだよ! アタシにはアンタの気持ちがよくわかる。自分の故郷がこんなんになってたら、誰だって取り乱すさ! アタシだって取り乱したんだ。お互い様だよ」


 ドリュウルがアイレーンの肩を抱く。その口調は妹を慰める姉の如き物言いであった。


 ドリュウルは生まれながらの気性なのか、面倒見がよく、人を安心させる独特の雰囲気を持っている。ドリュウルに励まされると、自然と肩の力が抜けるのだ。彼女のその気質に何度支えられたか数えきれない。


「あぁ、あぁ……ドリュウルさま……。ありがとうございます」


「いいんだ、いいんだ。気にすること、ないんだからね」


 肩をポンポンと優しく叩くと、ドリュウルはアイレーンの肩を離した。それから、頭を掻くそぶりをして、軽口を叩く。


「そういえば、アイレーン、アンタ、お金持ってたんだね。二万ゲルカもどこに隠し持ってたんだい? あっ、家にお金を取りに戻ったのかい? それなら大金を持っていても納得だ」


「代金……? えーっと、何の話でしょうか?」


「とぼけたって無駄だよ。その防護マスクさ。このマスク、需要と供給とかで一つ、二万ゲルカしただろう? よくそんな大金を持ってたなって思っただけさ」


「え……? 二万ゲルカ……?」


 ガラス越しに見える雪の結晶のように美しい青い瞳が、ぱちくりと瞬かれる。


「二万ゲルカって何のことでしょう……? こちらの防護マスクはお優しいお婆様に無料でいただいたものですが……」


「はぁ?」


 今度は三人が目をぱちくりする番だった。絶句してしまう。唇の端がピクピクと痙攣する。防護マスクが無料。つまり、タダだったってことだ。


「もしかして……、お婆様に二万ゲルカも取られてしまったのですか……?」


「正確には、三つ合わせて六万ゲルカ、だね」


 ラクビースが自嘲気味に言う。


「それは……えっと、ぼったくり……ですね。えーっと……ごめんなさい!」


 アイレーンが思いっきり頭を下げた。ふわりと青い髪の毛が舞った。一瞬、その髪が煌めく水面のように見えた気がした。


「この街の人は、ハッコオイ族の人にはとても優しいのです。……ですが、それ以外の種族にはどうも守銭奴じみてしまうと言いますか……。お金をたくさん奪ってやろうという心意気があるのです。多分、この街が観光地として栄えてしまった代償なんでしょうけれども……。まさか、こんな緊急事態にも選民思想を全面に出すとは……。わたくしが側にいればこんなことにはならなかったのに。皆様には幾重にも迷惑をおかけしてしまって、本当にごめんなさい」


 アイレーンが再び頭を下げる。


「いいって、いいって。アタシたちももっとごねて値切れば良かったんだ」


「それか、買わなければ良かったよね」


 二人の視線をマスク越しに感じる。キヒュームは黙っていた。二人のこの言葉が嫌味であるとわかっていたからだ。


「いえ、本当に、わたくしの不徳の致すところで……」


「いいんだよ、アイレーン。この街の腐敗臭をどうにかしたら、返金をお願いしに行けばいいんだし。この街を救った勇者様となれば、幾らかはお金を返してくれるだろう」


 キヒュームはヴォルペレスで受けた歓待を思い出しながら言う。


 ルブフたちを倒し、祝福を得たキヒュームたちは、店に置いておいたコートの代金を返してもらい、良いお酒、良い食べ物をたらふくご馳走になった。感謝の印、ということだそうだ。だからこそ、この街での問題も解決すれば、おそらくは歓待されるだろうと邪推してしまう。事実、クルダマオ族を倒せば皆が喜び、感謝を伝えられることは間違いがないのだ。


「そうでしょうか……。この街の人たちは少し変わったところがありますから……いくら恩があったとしてもお金は返してくれないかもしれません」


 こくり。キヒュームが頷く。


「それはそれでいいさ。高かったとはいえ、このマスクのおかげで、みんなが快適に呼吸ができてるんだ。六万ゲルカの価値はある」


 強がりだ。


 そうでも思っていなきゃ、やってられない。六万ゲルカだぞ。今までの冒険で手に入れたお金の合計金額だぞ。軽くなった財布をぶら下げている腰がどうにも落ち着かない。


「そう、ですね。マスクがなければきっと、皆さまは、今ここに立ててはいなかったでしょうから」


 違和感が頭をもたげる。


【みなさまは】とは、随分と他人事だ。まるでみなさんの中に自分は入ってない、みたいな……。


「談笑しているところ悪いけど、そろそろ本題に戻ろう」


 場を取り持ったのはラクビースだ。


「クルダマオ族がいる場所に、どこか心当たりはないかい?」


 アイレーンは背筋を伸ばした。三人から目線を外し、汚染された海を見つめる。


「これ以上、皆様を巻き込むわけには……。いいえ、でも、わたくし一人では到底太刀打ちできない。力をお借りして……でも、そんなことをしたら、わたくしたちの街の秘密がバレてしまう……。けれど、わたくしはドリュウル様の故郷、ヴォルペレスの秘密を知ってしまった。でしたら、皆様にわたくしたちの街の秘密も話すことがフェアなのではないかしら。ああ……わたくしは一体どうしたら」


 ボソボソとアイレーンが何かをつぶやいている。マスクをしているせいで、その声はガラス越しに聞く声のようにくぐもっていた。彼女の言葉を聞き取りたくても、ほとんどを聞き取ることができなかった。


「……みなさんに、聞いていただきたいお話があります」


 アイレーンがピシリと姿勢を正す。珍しくきっぱりとした物言いだった。


 大きく息を吐き、真っ白な美しい手を胸元に当てる。


「マレタラッタには秘密があるのです。皆様にはこの秘密を聞いていただきたいと思っております。……ただ、この秘密は街の根幹に関わる秘密ですから、どうぞ、ご内密にお願いいたします」


 波打つ音が聞こえる。音だけは涼やかなのに、紫と緑が混ざった水は毒々しい。


 アイレーンの瞳は真剣そのものだった。


「もちろん、誰にも言わない」


 キヒュームの言葉に続いて、ドリュウル、ラクビースがうなずく。アイレーンの目元が微かに緩んだ。




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