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第4章 魅惑のマレタラッタ(2)

 


 キヒュームたちは毒の沼が発生しているジメジメとした湿地を抜け、ハッコオイ族の街、マレタラッタ入り口に来ていた。ここまで来るのも一筋縄では行かなかった。


 ヴォルペレスではルブフを倒したことにより、雪が止んだ。雪は完全には溶けていないが、クルダマオ族の魔力が弱まり、温度は少しずつ上昇し始め、街は人間族にとって程よい気温となっていた。それに伴い、ドラガンシア族は続々と目を覚まし、活動を始めたのである。事情を知ったドラガンシア族の者たちにキヒュームらは祝福を受け、そうして、ヴォルペレスにより近い街、マレタラッタの街へと出発したのだ。


 暴走した魔物を倒しながら、ヴォルペレスの火山を降り、毒を浴びながら(浴びるたびにアイレーンの解毒魔法により回復していた)毒沼湿地を抜け、そうして今、マレタラッタの入り口に立っている。


 大変だった。けれど、有難いことにキヒュームの意識はぼんやりとしていたため、いつの間にかこの場所へ着いていた、という認識だ。だから、精神的にはさほど疲弊していない。


 ——其方は自分の行動を誰かに託しているのではないか?


 ルブフの問いかけが聞こえる。


 うるさいな。そんなわけないだろう。俺は自分の意思で行動している。


 突如現れた生ゴミのような腐敗臭に顔を顰めながら、心の中でルブフの言葉に反論する。


 惑わされるな。考えるのはいつだってできる。


 今、目の前のやらなければいけないことに集中しなければ。


 目の前に広がるのは、一面の水色。海に面するマレタラッタの街は、水色に塗装された可愛らしい一軒家が、不規則に並んで立っている。【シァオイリ地方随一の幻想的な観光名所・マレタラッタ】と掲げるだけあって、みずみずしく清らかで美しい。


 それなのに。


 ぷ〜ん。


 この幻想的な街並みに似合わない臭い匂いが鼻の奥まで届いてくる。甘ったるくて生臭くて、生ごみをぐつぐつと大鍋で煮込んだような耐え難い匂いだ。


「この匂いは一体……」


 アイレーンが鼻を塞ぎながら言った。つまり、マレタラッタの街はいつもこんな匂いをさせているわけじゃないのだ。たしかに、キヒュームが生きてきた十七年間のうちで、マレタラッタが腐敗臭がするなんてこと、聞いたことも読んだこともない。観光名所案内パンフレット曰く、潮風香る心地よい街、なのだそうだから。


「もしかしたら……」


 ラクビースが呟く。


「ヴォルペレスと同じように、マレタラッタもクルダマオ族の魔の手が伸びているのかもしれないね」


「そんな……まさか……!」


 アイレーンがハッと口元を抑える。顔色が青くなった。


 怯えている。そんな風に見えた。


「ごめんなさい。わたくし、住民の様子を見てきます!」


 アイレーンが慌てて青い街並みに続く細い階段を駆け降りる。引き止めようとするも、街は曲がりくねっているのか、すぐにアイレーンの姿は見えなくなってしまった。


「俺たちも、行こう」


 キヒュームが顔を険しくしたまま言う。もし、クルダマオ族の手がこの街をおかしくしているのなら、アイレーンを一人にさせるのは危険だ。なんせ奴らはアイレーンを商品として捕えた卑怯な者たちだ。


 悪夢だっただろう。日常を送っていたら、突然、知らない者たちに拉致される。思い出すだけで背筋が凍りついて、動けなくなってしまうレベルなんじゃないだろうか。そして今、自分の住んでいる街が謎の腐敗臭に包まれている。


 ああ、なんで気づかなかったのだろう。彼女はずっと不安だったのだ。


 アイレーンはブランダミグマの住民じゃない。マレタラッタの住民なのだ。ずっとずっと自分の街が気がかりだったに違いない。それなのに、自分の気持ちを押し殺して、キヒュームたちと共に行動してくれていたんだ。


 俺は、俺たちは、全然気遣いができていなかった……。


「行こう」


 キヒュームはもう一度言う。低いけれど、平静な声だった。多分、キヒュームの後悔の念は誰も気づいていないだろう。


 駆け足で街へと続く石階段を降りる。歩くごとに嫌な匂いが増していく。


「ひっどいね、こりゃ」


 ぼそり。ドリュウルが一言を口から押し出す。


 キヒュームもラクビースも口で呼吸をしながら、頷いた。


 生臭くて、不気味な、腐敗臭……。いったいなんの匂いなのだろう。形容し難い匂いだった。今まで嗅いだ匂いの中で一番臭い気がする。


「海から匂うのかもしれないな……」


 キヒュームは自分の声に驚いた。そんなこと、考えてもみなかった。考えていないことが口から出るなんてこと、あるのだろうか。


「そうかもね。この街の下降に行くほど匂いが強くなる。この先にあるのは海だ。となると、この匂いの発生源は海なのかもしれない」


 ぞわっ。


 全身が総毛立った。匂いが一層強くなる。生臭さが体を這ってくるようだ。


 キヒューム一行は先を急ぐ。


 街に出ているハッコオイ族は皆、【匂い】という毒から身を守るように左右に吸収缶がある真っ黒な防護マスクを身につけ、顔全体を覆っている。かろうじて目元が見えるものの(目元だけ透明なガラスで覆われているのだ)、誰一人として顔がわからない。ただ一つ、わかるのはこの街にいるものは皆、和服と呼ばれる服を身につけているということだけだった。


 アイレーンはどこに行ってしまったのだろう。


 マレタラッタの住民に話しかけながら、アイレーンの行方を探す。


「青髪の長い女の子を見ませんでしたか? 防護マスクをしていない少女です」


「わからないわ、ごめんなさい」


「わからないな、ごめんな」


 このやりとりを何度も繰り返した。ハッコオイ族は全員和服を着ているけれど、髪色は人それぞれだった。金、赤、白、青、薄茶……と多種多様だ。だからこそ、マスクをしていないという異質さと、青髪ということを伝えればすぐに見つかると思ったのに。


「海にいるってことは、ないかな」


 しばらくして、ドリュウルが口を開いた。口鼻元を抑えているドリュウルの声はくぐもり、聞き取りにくい。


「このひっどい匂いは海辺に近づくほど強くなってる。アタシなら、この臭いの原因を真っ先に突き止めたいって思うよ」


「それは一理ある。行ってみよう」


「待って!」


 駆け出そうとするキヒュームを止めたのはラクビースだ。


「僕たちは防護マスクを買うべきだと思う。海からある程度離れててもこんなに臭いんだ。無防備な状態で海に向かうべきじゃないと思う。そんなことしたら鼻がもげてしまうよ」


 鼻をつまみながら言うラクビースの話には説得力があった。


 そうして、三人は衣服の売っているお店へ向かった。ガラスのディスプレイ越しに、可愛らしい和風ワンピースとかっこいい男性用袴がマネキンに着せられ飾られている。ざっとヴォルペレスを見回ったところ、防護マスクが売ってそうなお店はここしかない。


 キヒュームたちの考えは当たっていた。店に入ると陳列棚には、外にいたハッコオイ族が着用していたのと同じ防護マスクがずらりと並んでいたのだ。


「すごい。いろんなサイズがあるんだ……」


「そりゃそうだわよ、人間族のお兄さん。マレタラッタはシァオイリ一の観光名所だからね。服も、マスクも、どんな種族にも合うように、用意するのが常識ってもんだわさ。ちょいと待ちな。……えーっとね、ドラガンシア族のお嬢さんには、コレ。ケモタリア族のお兄さんにはこのサイズがいいんじゃないかね。人間族のお兄さんには……、コレだわね」


 ハッコオイ族の背の低い腰の曲がったお婆さん店主がカウンターから出てきて、各人に防護マスクを手渡す。マスクをしていないハッコオイ族をこの街に来て初めて見た。シワシワの顔には優しげだけれども、どこか偽物めいた笑顔が浮かんでいる。


「ほらほら、被ってみてみんしゃい。……おお! ぴったりだわね! ワタシの見る目に狂いはないってことだわさ。この街は今や腐臭で満ち溢れてるからね。防護マスクは必需品だわよ。……さてさて。防護マスク三つ、お買い上げでいいだわさ?」


「あ、もう一つ追加でお願いします。実は、もう一人連れがいまして……。ハッコオイ族の女の子なんですけど」


 無理矢理被されたマスクを外しながら、ラクビースが言う。ラクビースらしい物腰柔らかな口調だ。


「ん? もしかして、青髪の美しい少女のことだわね?」


「アイレーンを……あっ、えっと、その少女のこと、知ってるんですか!」


 キュポッと音を出して取れた黒い防護マスクを握り締め、キヒュームが店主に言葉を投げかけた。店主はこくりと頷き、幾重にも重なる皺をさらに増やして笑う。


「ええ。ええ。来ましたともさ。この辺でマスクをしていないハッコオイ族はほとんどいないもんだからね、どうしたんだわさ、と尋ねたんだわね。そしたら、彼女は混乱した様子で、『しばらく街を離れているうちにこんなことになっていた。何が起こったんですか』と私に尋ねてきたんだわさ。だから、答えたんだわよ。この街は今、クルダマオ族に占拠されてしまったってね。……ええ、そうなんだわさ。お前さんたちも驚くしかないだわね? 街の外の人に聞かせるのは恥ずかしいんだけれどね、この街の警備隊は今や機能せずに……さらに言うと、応援に来てくれた警備隊の者たちも役に立たずで、そりゃもう、大変なんだわさ」


「クルダマオ族……」


「そうだわさ。それで、クルダマオ族の連中は海を占拠して、海を腐らせちまったんだわね。それを伝えたらあの娘は大慌て。私に防護マスクを頼んで急いで海に行っただわね。何をするつもりなんだか、かなり焦燥していたからね、お前さんたちも早くあの子を追いかけたほうがいいだわさ。あの顔つきは多分、この街の他の連中と同じように、クルダマオ族に楯突こうとしている表情だっただわよ」


 思わず、防護マスクをカウンターの上に置いていた。他の二人もほとんど同時に同じ動きをする。店主が瞬きした。


「コレください」


 ほとんど叫んでいた。声が三つ重なった。


「……まいどだわね。三つ合わせて、六万ゲルカだわさ」


「はっ? 高っ!」


 ドリュウルが飛び出そうになるくらい目を見開いて言う。キヒュームも同意だった。あまりに暴利だ。六万ゲルカなんて払ったら、今までの冒険で得たお金を全て失ってしまう。


 三人の視線が、店主に注がれる。


 店主はカウンターに戻りながら、嫌らしく手を擦り合わせていた。今まで優しく見えていた笑顔が、性悪ババアのそれに見えてくる。


「高い? そんなことないだわさ。むしろ、良心的な値段だと思ってほしいだわね。防護マスクを売っているのはこの店だけ! それに今までの収入源だった観光客も激減して、このお店もカツカツなんだわさ。世の中、需要と供給で物価が決まるんだわよ。お前さんたち学生さんだわさ? なら需要と供給についてもそれなりにわかるだわよね?」


「そうだとしても、ぼったくりじゃないかい!」


「ドラゴンシア族のお嬢さんがそう思うなら、買わなくてもいいだわさ。別に私は強要してないんだわよ」


「だけど!」


 ラクビースは今にも飛びかかりそうなドリュウルの目の前にリスを出し、動きを制止させた。ドリュウルは戸惑いながらラクビースを見る。


「落ち着いてよ、ドリュウルさん。むやみに感情を昂らせてはダメだよ。落ち着いて、どうするか決めるべきだ。この臭いに耐えられないわけじゃない。鼻をつまみながら行けば、海辺まで行くことができるかもしれない」


「臭いに耐えられないなら、この防護マスクを買うべきだわね」


「このっ……! 銭ゲバっ!」


 右手を挙げ、殴るフリをさせながら、ドリュウルは自分自身を落ち着かせるように息を吸い、大きく吐いた。ほんのり炎が溢れ出る。


「で、どうするんだい?」


 店主は前のめりになりながら、選択を問う。目の前に提示されたのは重要な選択肢だ。


 ——其方は自分の行動を誰かに託しているのではないか?


 再び、ルブフのセリフが頭によぎる。


 託してないさ。今だって、この重大な選択肢、自分の力で選ぼうとしている。誰かに選ばしてなんかいない。俺は、俺の意思で、選択して行動しているんだ。


 目の前にはいないルブフに言い聞かせるように、キヒュームは胸中でつぶやく。そりゃ、誰かの意見を聞いて行動を変えることはある。だけど、そんなの、生きていれば当たり前じゃないか。


 だから、俺は俺自身の心に従って選ぶ。誰かに託したわけでなく、【俺が】、選ぶんだ。


「六万ゲルカで防護マスクを三つくれ」


「……はっ? キヒューム、アンタ、マジで言ってんの?」


「ああ。マジの、マジだ」


「キヒュームくん、考え直したらどうだい? 確かに匂いはキツイけど、耐えられない臭いじゃない。鼻を塞いでいけば、なんとか海まで出れるはずだ」


「いや、買う」


 二人が信じられないものを見ているような呆れた目でキヒュームを見る。


 だけど、二人とも、仕方がないんだ。【俺】の選択だって、わかってもらうためには、買う以外の選択肢がないんだから。


 今の話の流れ的に【買わない】という選択が妥当だろう。だけどもし、ここで素直に流れに身を任せ、【買わない】を選択したらどうなる? それは誰かに行動を託していることにはならないか? だから、俺はあえて【買う】を選んだ。それは俺自身の【選択】に他ならないのだから。


「信じられないね、ほんとに。キヒューム、アンタはホント、生粋のバカだよ。買うにしたって値切るとかなんとかしたらいいのにさ」


「ここまで僕たちはなんとかやってこれたんだから、買わなくてもなんとかなりそうなものだけど……」


 二人の嘆きが聞こえたけれど、すぐに店主の笑い声で消えてしまった。


「ほほほほほ。買うで決着でいいだわね? 毎度ありがとうございしただわさ! 皆さんの旅が良い旅になるようご加護を」


 店主が笑顔で防護マスクを手渡す。


 それを受け取った途端、キヒュームの腰に巻かれていた小銭入れの巾着が軽くなった。慌てて、巾着の中身を確認する。


「六万ゲルカ、しっかりいただいただわさ」


 キヒュームの黒目が左右に動いた。


 お金がなくなっている。でも、どうやって?


 ……いや、何もおかしくないな。シァオイリではいつもそうだったじゃないか。魔物を倒せば自然と巾着にお金が入り、買い物をすれば、商品を手にした瞬間に自動でお金が巾着から消える。


 そういうものだったじゃないか。今までもそれでやってきたじゃないか。


 だけど、本当にそうだっただろうか。


 キヒュームの眉が寄った。


「ちょいと、キヒューム。何やってんだい。早くこんなぼったくりの店、出ていくよ」


「え、あ、ごめん。今行く」


 キヒュームは今にも店から出ていってしまいそうな不機嫌な二人の背中を叩き、店の外へと歩み出た。


 なんとなく、振り返ってみる。


 視線の先には、無表情でカウンターに座る店主がいるだけだった。



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