五話 酔っ払いに絡まれる
――大切な話があります。
こんなのじゃない! 書けば書くほど分からなくなる。震えた手で何度も書き直す。私の病気を伝えたら、優しい彼のこと、情で別れないと言うかもしれない。それだけは避けないと。
――あなたに話さなければならないことがあります。
翔君にメールを送るとすぐに電話がかかってきた。
「おう! もしもし、どうした? 変なメールだったから気になってかけたんだけど。これから会議だから、時間なくてほんとごめん。夜の食事楽しみにしといて」
早口だけど柔らかい声に、鍵をかけてしまい込んだ私の心が思わず、開きそうになってしまう。
「う、ううん…、なんでもないの……大丈夫だから……」
声がうわずる。やっぱり本当のことは言えない。
「いつものラーメン屋で辛いのいこうと思ったけど、大切な話なら別の場所がいいかな? あそこ騒がしいし。今、忙しいから、マジごめん。あと、仕事頑張って」
「あのっ……」
と、言いかけたが、彼は既に電話を切っていた。そういえば今日は会議があり、仕事が圧迫されてて、きついとか言ってた。
彼はゲームのプログラミングの仕事をしていて、数名のプロジェクトチームのメンバーが辞めて三ヶ月も人が入らないとボヤいていた。
ガンのことは伏せて、別れを切り出すしかない。その方がいい。
振り返ると、彼との最高の思い出は何だろう。ナンパの瞬間? 他には大晦日かな。夜の12時まで居酒屋で二人でお酒飲んでたら、真っ赤な顔でデキ上がった年配のサラリーマンに絡まれたことを昨日のことのように思い出す。
「イチャイチャしやがって。お前らみたいな、若いやつらがしっかりしねーから、この国は衰退してくんだよ!!」
60代ぐらいのおじさんが、手にしたビール瓶を私たちのテーブルにドンっとぶつけて怒鳴り散らしたのだ。私は目に涙を浮かべ、翔君はその場でサッと立ち上がると彼を刺激しないようように落ち着いて話始めた。
「ホントそうですよね。お兄さんの言う通りですよ。向こうで語り合いましょう」
背中に手を回しながら上手く誘導して、私の前からおじさんを離してくれた。
その後、トイレの前で他のお客さんを巻き込んで、大喧嘩に発展し、最後は店員が警察を呼ぶ一悶着があったのだ。おじさんに、はたかれ彼は鼻から流血していて、笑ってた。この人見た目は強そうに見えるけど喧嘩は強くないのかもしれない。
心の繊細な彼のことだから、ガンなんて告白したらどうなってしまうんだろう。
☆
――お父さん、お母さんごめん。まだ連絡できそうにありません。家に帰ろう。さっきコートを貸そうとしたあの男はまだベンチに座っていた。
「大丈夫です?」
「は、はいっ?」
もう、泥だらけの姿なんて指摘しないでよ!キッと睨むと。
「いえ……」
元気の無い彼は、口をつぐんでしまう。
「何かあったんじゃ……」
あなたの方が酷く落ち込んでいるように見えるし、でもそれどころではなかった。
「大丈夫ですから、急いでいますんで」
とだけ言い残し、この場を後にする。
新手のナンパではない。あの男性も何かに困っているように見えたし。
家に戻ると玄関で服を脱ぎ、シャワーを頭から浴びる。温水が流れ、身体にまとわりつくどんよりしたものを流す。「ふぅー」鏡を覗き込むと、それでも酷い顔をしていた。
一日でいったい何歳年取ったのよ。鏡の中には青白く、目が充血した私の姿が映し出されていた。
モコモコの部屋着に着替え、毛布を頭まで被り、布団に潜り込む。
翔くんになんて言ったら良いんだろうか。別れを切り出すなら早いにこしたことはない。
深刻な病気にかかった場合、誰か大切な人がそばにいてくれた方が安心するのも頭では理解している。でもそれってただのエゴ。自分さえ良ければいいの? 弱って情けない姿に変わる様を彼にだけは晒したくはない。
デートで一緒に歩けば、すれ違う女性が、頬を朱に染めて口元を手で隠すことがあるぐらい彼はイケてる。私としては優越感に浸れる場面ではあるけれども。
でも、そんなイケメンと付き合ってる私からするとなんで私と付き合っているのか、たまに分からなくなることも多々ある。
別れる理由は、仕事が、お互い忙しくデートも食事だけしかしてない。ずっと前から気持ちが冷めてる。これでいいのかな。
正攻法で上手くいかなかったら、最悪、嫌って貰わないといけない。病気のことで頭いっぱいなのに他のことまで考えるゆとりなんてないよ。
そういえば、何かの漫画で嘘をホントに見せかけるには、少しの真実を散りばめて話せば良いとか書いてあった。
そんな上手くいくもんですか。リアルで、そう上手くやれるのは、息を吸うように嘘を吐ける人達なんだろうと少し羨ましく感じてしまった自分にビンタをお見舞いしたい。
嫌われ過ぎて、酷い喧嘩になり、殴られるのは嫌だし。そういえば彼とは喧嘩すらしたことなかった。
考えすぎて、知恵熱で頭が痛くなる。熱い目を閉じて深く深く息を吐く。そうしているうちに、身体全体が敷布団に沈み込んでいく。
それから目を覚ましたのは壁時計が15時を回る頃だった。
右手を伸ばしスマホを開くと、二件の着信が来ていてどちらも翔君だった。どうやら爆睡してしまったみたいだ。
メールには、「仕事終わらなくて少し遅れる。夕方迎えに行くから、またその時電話するね」
その下にスタンプでイラストのネコがごめんとお辞儀するものが送られていた。
まめで約束も守るし、ほんとにいい人。だからこそ私はこの人の元を離れなければならない。できることなら病気のこととか知られずに。
身体を起こし、テーブルの上のバナナを頬張る。
本棚から新しいノートを取り出すと右上の日付の欄に1日目と書く。
「1日目、悔しい。人生で最悪の出来事。彼に大嘘をついて別れる」
書き終わると、ノートを静かに閉じ、引き出しにしまい鍵をかけた。




