3. 転職という救いの手
困ったことはたくさんありました。悲しいこともたくさんありました。辛いことばかりでした。
でも、聖女は誰にも頼れません。聖女は頼る存在であって、そんな行動は求められていないからです。
空気を読まないと、生きていけなかった。逃げることなんてできなかった。でも、逃げずに生きたまま死ぬのと、逃げて死ぬのと、どちらがマシでしょうか。
「終了でいいですよね? 誰も言わないのなら、私が言います。いいでーす!」
ベールを脱ぎ捨てました。長くサラサラな金髪がふわりと広がります。これだって、鬱陶しいから切りたかったのに、聖女の見目は大事だからと丁寧に梳かすのを強制されていたものです。
ですが、そんな言うことを聞く弱々しい聖女はもう終わりです。ざわめきたつ会場を一瞥して、出口へと踵を返します。
「せ、聖女がおかしくなった。悪魔に取りつかれたのでは」
「なんと馬鹿なことを」
止めに来られたら、もうそれまで。元々は孤児だからこそ、私には何の権力もない。ましてや王命に、教皇に逆らうことなどできない。
教皇が声を荒げ、ガシャガシャと鎧がぶつかる音が聞こえます。ですよね。だからこそ、今まで空気を読み、逆らわずにいたのですから。鬱憤は晴らしたと、歩みを止めずに捕まる心構えを、していましたのに。
「いいや、俺は正当性のある話だと思ったが」
取り押さえられる前に、低い声が会場に響きました。
私の行く先に立つのは、赤ともオレンジとも言えない夜明け色の瞳を持つ身なりとガタイのいい方。この国では珍しい黒髪で、社交界でも聖堂でも見たことのない方。
そんな彼は私に手を差し伸べます。
「聖女をやめるなら、俺のところに嫁に来るか? ヴェクサン辺境伯家の当主として先ほど話していた全てをかなえてやろう」
辺境伯……国境を守り、一国の主ほどの力と領地を持っている貴族です。滅多に社交界に出てきませんし、国王陛下でも教皇でも無碍にはできない存在です。
本来は、ここで迷わず手を取るところでしょう。麗しの方に助けられるのは物語では王道です。
……ですが、空気を読むのはもうやめたのです。
「本音は?」
「こんな馬鹿どもに癒しの力を使うくらいなら、うちの兵士たちに使って有効活用した方がいいだろう。簡単に引き抜けないように籍までいれて永年雇用したい。その代わり、望むままの待遇を与えると約束しよう」
見ず知らずの私を嫁になんて怪しいと思えば……なるほど、契約ですか。理解できます。
大きな賭けですが、きっと今の待遇よりは良いでしょう。何より、この人は本音を教えてくれました。
「そのお話、お受けしましょう」
私が頷き、差し伸べられた手を取るのではなく握ると、彼は笑いました。
「よし、じゃあこんなクソみたいな場から去るとしよう」
そのまま荷物のように持ち上げられました。栄養不足で私は身長が低かったせいもあり、視線が高いです。堂々と出口へ向かう彼を止めようと国王陛下が叫んでいますが、
「すまないが、面倒なことは書簡で」
と一蹴されていました。もとより、私は誰の所有物でもありませんから、止める大義名分がないのも事実でしょう。
「俺はライアンだ。名は?」
「……エステル。苗字はない、ただのエステルです」
「そうか」
会場から出て、馬車に乗る前、冬の夜の空気を吸いました。鼻の奥がツンとして、肺に冷たい空気がふわりと広がります。
「空気が、おいしいですね」
「うちの領地は自然が豊かだから、もっと美味いぞ」
そういうことではないのですが、きっとそういうことなのでしょう。空気は吸うもので、生きるために体が自然に欲するもの。
「楽しみです」
馬車の中で吹き出しました。ライアン様はそんな私を眺め、御者に馬車を出発するように言います。
「だが、領地に帰る前にその前に寄るべきところがあるな」
……はい?




