14. ライアンは見た
あの時見た子供が、成長し、聖女を投げ捨て、妻として隣にいる。人生というのはわからない。
『手の皮が厚いな』
あれは俺が十四の時だっただろうか。敵の族長と相討ちとなり戦死した父の代わりに王都へ軍備費の交渉に行った。
交渉はうまく行かなかった。父を失った我が家は弱かったし、俺は若かった。不甲斐なくて、同じく戦で大事な人を失った家臣たちに合わせる顔がなくて、時計塔の上で黄昏ていた。
そんな時、何やら鈍い音がしていた。俺は目も耳もいい。音の方向は、下の方の教会のひと気のない裏手だった。
『お腹空いたなんでこんなひどいことができるのあの程度の傷なら包帯巻いておけばいいじゃんなんでわたしが……きょーこーなんてゴミ溜めに頭から突っ込んでしまえばいい。そうしたらあの馬鹿みたいに高そうな白い服が汚れてせーせーするのに。わたしが本当に聖女なら叶えてください女神様』
何やら呪詛を吐きながらしきりに壁を殴っている子供がいた。殴りすぎて手が鬱血している。妹たちと変わらないくらいだから、ギリギリ十歳に満たないくらいだろうか。
『なんで、なんでわたしが聖女なのっ』
年端も行かない子供が虐げられ、怒りを自分でなんとかしているのは哀れだった。だが、それだけだった。
あの子供を助けるということは、王家と教会を敵に回すということ。父を失った我が家に、そんなリスクは取れなかった。
俺には、家族と領民を守る責務があった。
『あたしが行かずして、誰が行く』
十八になったばかりの姉は啖呵を切り、和平のために父を殺した族に嫁いだ。向こうも族長を失っている。敵だらけなことに間違いはない。それでも、姉は自ら嫁いで行った。
『ライアン、母さんとヴェクサン家を頼んだかんね』
俺は嫡男で、姉の変わりはできなかった。母さんは気丈に振る舞っているが、父を失って深く傷ついている。それは領民たちも同じことで、妹たちもまだ幼い。俺は勝手な行動は取れない。
だから、あの子供については、無事を祈って去ることしかできなかった。
幸い、姉は強かった。力と度量で敵を蹴散らし、族長の息子に愛され、確固たる地位を手にして、近くを寄ると帰省してきた。旦那の愚痴をこぼし、刺客が生ぬるいと怒り、毒なんぞ効かなかったと笑い飛ばした。
俺もまた、必死に鍛えた。滅多なことでは死なないくらいに鍛えた。父を超える強さを目指した。もう二度と、家族が家族を失う悲しみに暮れないように。
辺境伯領でも聖女の噂は耳にした。随分と清らかな聖女らしく、そのたびに俺は首を傾げた。俺の中での聖女は、あの呪詛を吐きながら壁を殴っていた子供だった。
そして当主を継いで五年。王家と教会への牽制も兼ねて、俺は舞踏会にやってきていた。
噂に聞いていた通りの清貧な聖女は、王太子と令嬢たちの茶番に巻き込まれていた。
『聖女は許しても、僕たちが許さない』
しかし、控えめな笑みは、その一言によって消え失せた。
『いや、私、許すなんて一言も言ってないですけどね?』
俺は密かに興奮していた。
そこからは舞踏会が武闘会となり、腹を抱えて笑うのを我慢するのが辛かった。
『……もう、空気の読める聖女は今日でサービス終了でいいですか?』
それでこそ、あの時見た子供だ。そして俺は、もう無力だった俺ではない。
捕まりかけた彼女に、先に手を差し伸べる。
『聖女をやめるなら、俺のところに嫁に来るか? ヴェクサン辺境伯家の当主として先ほど話していた全てをかなえてやろう』
彼女は目を見開いて、取り繕うとしてからやめた。訝しげに俺を見て、しっかりと尋ねた。
『本音は?』
俺は全て話した。王家にも教会にも、先に伝えておく。お前らはもうこれ以上手出しできない。善良な人間を蔑ろにしてきたツケが回ってきたんだ。
『そのお話、お受けしましょう』
その後エステルは暴飲暴食したり、吐いたり、吐いたり、殴ったり、まあ色々したが、構わない。自由に生きていいのだから。契約を持ちかけた身として、俺は自由に生きる手助けをする。
領地に来てから、エステルは寝言が多い。今まで奪われていた色々が押し寄せてきて、混乱しているようだ。俺は、まともな人間の生活もしたことがなかった人に一足飛びで情緒を押し付ける気はないのだが。
『それって、どういぅ……うーん』
『考えなくていい。妻になるのは、いつでもいいよ』
寝言にだってそう返す。というよりも、俺が頑張るだけの話だ。
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