表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/5

第1話 爆誕! アラサーOL、推しゲー世界で最強の母になる

「う、頭が……っていうか、お腹が気持ち悪い……」

それは、梅雨特有のじっとりとした湿気がオフィスを包んでいた日の午前中だった。

デスクで伝票の入力をしていた私は、突然、激しい目眩と猛烈な吐き気に襲われた。視界がぐるぐると回り、冷や汗が全身から噴き出す。慌てて給湯室の洗面台に駆け込み、胃の中のものを吐き出そうとしたが、何も出ない。ただ、下腹部の奥が奇妙に熱く、ドクドクと脈打つような違和感だけが主張していた。

「ちょっと鈴木さん、顔色が土気色よ!? 熱でもあるんじゃない? 今日はもういいから、早退してすぐ病院に行きなさい!」

お局さまである総務課長の手配により、私は急遽会社を早退することになった。這うような思いで近所の総合病院へと向かい、なんとか内科の受付を済ませる。待合室のベンチに横たわりたい衝動を抑えながら待つこと三十分。ようやく名前が呼ばれた。

診察室で症状を伝えると、医師は首を傾げた。「風邪の症状とは少し違いますね。一応、いくつかの検査をしましょう」と言われ、尿検査や血液検査、果ては腹部の超音波エコー検査まで行われることになった。

そして、再び診察室の椅子に腰掛けたとき。初老の医師は、手元のカルテとパソコンの画面を交互に見つめ、信じられないほど困惑した表情を浮かべていた。

「……鈴木さん。非常に、こう、何と言いますか……医学の常識を揺るがすような結果が出ましてね」

「はあ……。私、何か不治の病にでもかかっているんでしょうか? 余命宣告なら、心の準備をしますけど……」

最悪の事態を覚悟し、身を硬くする私に対し、医師は眼鏡のブリッジを押し上げながら、とんでもない爆弾を発言した。

「いえ、病気ではありません。――あなた、妊娠しています」

「……はい?」

一瞬、診察室の中の空気が凍りついたように静まり返った。換気扇のブーンという無機質な音だけがやけに大きく聞こえる。

「妊娠です。それも、妊娠約三ヶ月に入ったところですね」

「ちょっと待ってください先生! 何ですかその質の悪い冗談は! 私、男性経験ありませんよ!? 付き合っている男の人もいませんし、ここ三十年間、男性と手を繋いだことすら片手で数えるほどです! ましてやそんな、夜道で不審者に襲われたとかいうイベントも一切発生していません!」

私は椅子から立ち上がり、必死に抗弁した。当然である。身に覚えがなさすぎる。これではまるで、現代の聖母マリアではないか。

しかし、医師の表情は真剣そのものだった。彼はため息をつきながら、モニターの画面を私の方へと向けた。

「そうおっしゃると思いましてね、私も何度も確認したんです。ですが、これを見てください」

白黒の画面に映し出されていたのは、私の胎内の映像だった。そこには、小さな小さな、しかし確実な命の輪郭が浮かび上がっていた。しかも――。

「見ての通り、影が二つあります。双子です。どちらも非常に力強く、トクトクと心音が確認できます。医学的にはあり得ないことですが……事実として、あなたのお腹の中には二つの新しい命が宿っています」

画面の中で、健気に光を放ちながら脈打つ二つの小さな命の灯火。

それを見た瞬間、私の脳内を支配していた不条理への怒りや混乱は、急速に霧散していった。代わりに胸の奥底から湧き上がってきたのは、理屈や常識を遥かに超越した、圧倒的な「愛おしさ」だった。

(あぁ……本当に、私の中に赤ちゃんがいる……。身に覚えなんてない。だけど……この子たちは、私が守らなきゃいけないんだ)

理由なんてどうでもよかった。三十年間空っぽだった私の母性本能が、この瞬間に完全に覚醒したのだった。

そこからの数ヶ月は、文字通り怒涛の日々だった。

当然ながら、実家の両親は大パニックになった。「相手は誰だ!」「どこの馬の骨だ!」と父親は激昂したが、私が涙ながらに「本当に誰とも何もしていない、信じてほしい」と訴えると最終的には「神様からの授かりものかもしれない」と受け入れてくれた。世間体を取り繕うため、会社は「体調不良による長期療養」の名目で退職することになったが、未練はなかった。

私の生活のすべては、お腹の双子を中心に回り始めた。

妊娠中期を過ぎると、お腹は目に見えて大きくなっていった。通常の単胎妊娠よりも遥かに早く、解剖学的な限界を無視するかのように大きく膨らむお腹。まるで、中にいる二人の赤ん坊が、凄まじいエネルギーを放っているかのようだった。

「うっ……今日も元気ねぇ、二人とも」

実家の縁側で、愛猫のララを膝に乗せながら、私は大きなお腹を優しく撫でる。

ポコポコ、なんて生易しい胎動ではない。ドカッ、バキッ、とまるでお腹の中で二人の最強の戦士が激しいつばぜり合いを展開しているかのような衝撃が走るのだ。右側から鋭い一撃が来れば、左側から重厚なカウンターが返ってくる。

「こらこら、お腹の中で喧嘩しちゃダメよ。生まれてから仲良く遊びなさい」

苦笑しながらも、私の心は幸福感で満たされていた。不思議なことに、胎教として『ドラクロ』のサントラを流すと、お腹の激しい小競り合いがピタッと収まり、二人の子が心地よさそうに静まるのだった。やっぱり私の子供ね、と私は嬉しくなった。

そして、運命の夜がやってくる。

外はバケツをひっくり返したような大雨で、時折激しい雷鳴が轟いていた。予定日より二週間ほど早いその日の深夜、私は下腹部を貫く激痛で目を覚ました。

「ん……っ!? 痛い……ッ!」

シーツが濡れている。破水だった。すぐに両親を起こし、用意していた陣痛バッグを抱えて産院へと車を走らせる。

分娩室に入った時には、陣痛の間隔はすでに三分を切っていた。

「鈴木さん、息を吸ってー! 吐いてー!」

「うあぁぁぁあ痛い! 痛すぎます先生! 腰が! 腰が砕けるぅぅぅ!」

分娩台の上で、私は絶叫していた。全身から滝のような汗が流れ、視界が涙と痛みで歪む。初産、しかも双子。その負担は想像を絶していた。

バリバリバリッ!

その時、産院のすぐ近くに雷が落ちたかのような、凄まじい轟音が響き渡った。同時に、分娩室の照明が激しく明滅する。

「キャッ! 停電!? すぐに予備電源を!」

看護師たちの焦った声が聞こえる。しかし、私の意識はもう限界を迎えていた。お腹の奥から、何か凄まじい熱量が押し寄せてくる。それは、人間一人が生み出せるものを遥かに超えた、暴風雨のようなエネルギーだった。

「鈴木さん、もう頭が見えてるわ! 最後の力を振り絞って! いきんで!」

「う、うおおおおおおおおお!!!」

私が最後の力を込めて絶叫したその瞬間。

世界が、真っ白な光に包まれた。

それは雷の光などではない。もっと神聖で、もっと圧倒的な、黄金と漆黒が混ざり合ったような不思議な光の奔流だった。

オギャー!!!

オギャー!!!

光の向こうから、地天を震わせるような、力強いふたつの産声が重なって響いた。

「生まれたわ! 元気な男の子の双子よ!」

助産師の歓声が遠くに聞こえる。よかった、無事に生まれたんだ――そう安堵した瞬間、私の視界は完全な暗転へと向かった。凄まじい疲労の波にさらわれ、私は深い気絶のような眠りに落ちていったのだった。

ちゅんちゅん、と小鳥のさえずる声が聞こえる。

心地よい風が頬を撫で、鼻腔をくすぐるのは、消毒液の匂いが漂う病室の空気ではなく、瑞々しい草木と、豊かな大地の匂いだった。

(ん……終わったのね……。私、本当にお母さんになったんだ……)

私はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。出産の疲労はすっかり消え去っており、体は驚くほど軽かった。

しかし、視界が焦点を結んだ瞬間、私の思考は完全にフリーズした。

「……あれ?」

目の前にあるのは、病院の白い天井ではなかった。

太く無骨な木造の梁。丁寧に編まれた藁と土でできた壁。私自身が横たわっているのは、電動のリクライニングベッドではなく、粗末だが清潔なシーツが敷かれた木製の簡易ベッドだった。

慌てて身を起こし、窓の外を見る。

そこには、アスファルトの道路も、電柱も、近代的なビル群も一切存在しなかった。広がっていたのは、絵画のように美しい緑の草原と、そのあちこちに点在する、中世ヨーロッパの農村を思わせる素朴な木と石の家々。遠くには、王道ファンタジー映画に出てくるような、険しくも美しい山脈がそびえ立っている。

「いやいやいや、おかしいでしょ!? ここどこ!? 私、日本の産院で出産してたはずよね!局地的な地殻変動でも起きたの!?」

混乱のあまり頭を抱えようとした時、私の腕の中に「柔らかな重み」があることに気づいた。

「ふにゃ……」

「くぅ……」

小さな、愛らしい寝息。

私の腕の中には、すやすやと眠る二人の赤ん坊が抱かれていた。ふっくらとした桃色の頬、小さくて愛らしい手足。間違いなく、私が命がけで産み落とした、愛おしい我が子たち――双子の男の子だ。

(よかった、赤ちゃんは無事……。でも、本当にここはどこなの?)

その時、部屋の木製の扉がギィと音を立てて開いた。

入ってきたのは、麻の素朴なワンピースを着て、頭に三角巾を巻いた、いかにも「ファンタジーRPGの村人A」といった風貌の、優しい顔立ちのお婆さんだった。彼女は私が起き上がっているのを見ると、シワの刻まれた顔をほころばせた。

「おや、目が覚めましたかい、旅のお母さん。あんた、数日前、この村のすぐ外の街道で倒れていたんだよ。大きな雷が落ちた夜にねぇ。若者たちが慌てて担ぎ込んできた時にはすでに産気づいていて、どうなることかと思ったけど……無事に元気な双子ちゃんが生まれて、本当に良かったねぇ」

「街道で倒れていた……? あの、すみません、ここはどこなんですか? 私は日本っていう国から来たんですけど……」

私の問いかけに、お婆さんは不思議そうに首を傾げた。

「ニホン? 聞いたことがないねぇ。ここは『ルミナ村』だよ。中央聖王国ミッドガルドの辺境にある、小さくて静かな村さ」

――ルミナ村。

――中央聖王国ミッドガルド。

その単語が耳に飛び込んできた瞬間、私の脳内に、文字通り限界突破の電撃が走った。

「え……? 今、ルミナ村って言いました? ミッドガルドの?」

「ああ、そうだよ。貧しい村だけど、水と緑だけは豊かでねぇ」

お婆さんは微笑んでいるが、私の心臓はバックバクと狂ったような鼓動を刻み始めていた。

ルミナ村。ミッドガルド。

間違えるはずがない。聞き流せるはずがない。

それは、私がこれまでの人生で何千時間、何万時間とプレイし、公式設定資料集をボロボロになるまで読み込み、アニメのブルーレイを擦り切れるまで再生した、あの大人気ゲーム『ドラゴンクロニクル』の世界における、物語の絶対的な出発点――「勇者タケルの故郷」そのものの名前だった。

(嘘……嘘でしょ!? ルミナ村って、あの『ドラクロ』の!? 私、出産した衝撃でゲームの世界に転生しちゃったの!? しかも行き倒れスタート!?)

小説の読みすぎによる妄想かとも思ったが、頬を抓るとはっきりと痛い。大地の匂も、赤ちゃんの体温も、すべてがリアルそのものだ。

三十歳独身OL、処女受胎からのスピード出産異世界転生。情報量が多すぎて脳がバーストしそうになる私だったが、受容の早さはさすがオタクだった。

(落ち着け、落ち着くのよ鈴木カオリ。転生しちゃったものは仕方ない。大好きな『ドラクロ』の世界なら、地理も歴史もイベントの発生条件もすべて頭に入ってる。ここで静かにこの子たちを育てていけばいいだけよ……!)

そう自分に言い聞かせ、腕の中の我が子たちを見つめ直した時。

私は、さらなる「世界の不条理」を目の当たりにすることになった。

すやすやと眠る双子の赤ん坊。

産まれたばかりの赤ん坊の髪の毛など、普通は薄くて黒いものだろう。しかし、この子たちは違った。

私の右腕に抱かれている子の頭には、生まれたてとは思えないほど鮮やかな、まるで燃え盛る炎のような「真紅の髪」が輝いていた。

そして、左腕に抱かれている子の頭には、光をすべて吸い込むかのような、冷徹で気高く、そして美しい「漆黒の髪」が生え揃っていた。

真紅の髪の赤ん坊と、漆黒の髪の赤ん坊。

その特徴的な容姿を見た瞬間、私の脳裏に、『ドラクロ』のパッケージイラストがありありとフラッシュバックした。

燃えるような赤髪をなびかせ、聖剣を掲げて人類の希望となる少年――勇者タケル。

闇を纏った黒髪を翻し、圧倒的な魔力で人類を滅ぼしようとする絶対的カリスマ――魔王エヴァ。

「……うそ、でしょ?」

私の顔から、急速に血の気が引いていく。

まさか。いや、そんなはずはない。偶然よ。ただの遺伝子の悪戯よ。そもそも私には相手がいないんだから、髪の色なんて何でもありじゃない。

必死に自分を宥めようとする私の視界の隅に、突如として半透明の青いウィンドウが出現した。ゲームでお馴染みの「ステータス画面」だ。

【個体識別:長男】

【名前:未設定(仮表示:タケル)】

【種族:人間(光の御子)】

【素質:聖剣の器、勇者の血統、天賦の剣才】

【個体識別:次男】

【名前:未設定(仮表示:エヴァ)】

【種族:人間(闇の皇子)】

【素質:魔導の極み、魔王の器、絶対的威圧】

「公式システムナビゲーションがカンストしてるぅぅぅぅぅ!!!」

私は心の中で絶叫した。声に出さなかったのは、腕の中の二人が起きないようにという、母親としての最低限の理性が働いたからだ。

間違いない。言い逃れができないレベルで確定だ。

この子たちは、のちにこの世界を二分し、血で血を洗う壮絶な死闘を繰り広げることになる、光の勇者タケルと、闇の魔王エヴァだったのだ。

ゲーム『ドラゴンクロニクル』の本編シナリオが脳裏をよぎる。

勇者タケルはルミナ村の心優しい夫婦に拾われ、正義感あふれる少年に育つ。一方、魔王エヴァは幼い頃に人間に迫害され、その憎しみから魔族の王として覚醒し、人類に宣戦布告する。二人は互いの信念をかけて激突し、最終的にはどちらかが死ぬか、あるいは相打ちになるという、オタクにとっては尊くも涙なしには見られない鬱展開が待っている。

だが。

今、私の腕の中で、二人の未来の英雄(および大悪党)は、小さな手をぎゅっと握り合い、互いの体温を確かめ合うようにして、すやすやと眠っているのだ。

魔王の素質を持つ黒髪の赤ちゃんが、勇者の素質を持つ赤髪の赤ちゃんの胸元に小さな頭を擦り付け、勇者の赤ちゃんがそれを優しく受け入れるようにふにゃりと微笑む。

「尊い……じゃなくて! え? ちょっと待って?」

私の脳細胞が超高速で回転を始める。

ゲーム本編で二人が殺し合うことになった原因。それは、エヴァが幼少期に適切な愛を受けられず、孤独の中で闇に落ちたからだ。武力しか信じられない世界、強者が弱者を支配する無慈悲な法則。そしてタケルもまた、過酷な運命の中で多くの仲間を失い、心をすり減らしながら戦うことになったからだ。

もしも。

もしも、二人が同じ母親の元で、双子の兄弟として、溢れんばかりの愛情を注がれて育ったら?

「魔王だから」と迫害されることもなく、「勇者だから」と重荷を背負わされることもなく、ただの可愛い我が子として、美味しいご飯をたくさん食べて、毎日健やかに笑って育つことができたら?

(……変えられる。公式の鬱シナリオなんて、私がぶっ壊して見せる!)

私の目に、猛烈なオタクの、否、一人の「母親」としての強い光が宿った。

誰が世界を滅ぼさせると言うのか。誰が我が子たちに殺し合いをさせると言うのか。

男性経験ゼロの三十歳独身OLだった鈴木カオリは、今この瞬間、腹をくくった。

「よしっ、決めたわ」

私は腕の中の二つの愛しい宝物を、壊さないように、けれどしっかりと抱きしめた。

「タケル、エヴァ。あなたたちの名前はそのままにするわね。その方が格好いいし! でもね、お母さんがあなたたちを絶対に不幸にはしない。勇者とか魔王とか知ったこっちゃないわよ。二人とも、お母さんの大事な大事な可愛い息子ちゃんです!」

その言葉に反応したのか、赤髪のタケルと黒髪のエヴァが、同時にぱちりと小さな目を開けた。

タケルの瞳は澄み渡るような青空の色。エヴァの瞳は神秘的な深紅の色。

二人の赤ん坊は、目の前にいる「母親」の顔を見つめると、示し合わせたように、キャッキャと愛らしい声をあげて同時に笑ったのだった。

「あらやだ、可愛い……! 天使が二人もいるわ……! あぁもう、お母さん頑張っちゃうからね!」

鼻血を吹き出しそうになるのを必死で耐えながら、私は限界オタク特有の底なしのエネルギーを、全て「育児」へとシフトすることを誓った。

こうして、世界の運命の歯車は、一人のアラサーOLの規格外な母性によって、本編シナリオから大きく脱線し始める。

のちに世界を震撼させる最強の勇者と、最凶の魔王を両手に抱え、鈴木カオリの異世界最強子育て奮闘記が、今ここに爆誕したのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ