プロローグ 平穏な日々と、裏の顔
世間一般において、鈴木カオリという女性を評する言葉は「地味」「堅実」「真面目」の三拍子に尽きるだろう。
文具メーカーの総務部に勤務して八年目。派手なメイクもしなければ、ブランド物のバッグを振り回すこともない。実家暮らしで両親の言うことをよく聞き、無遅刻無欠勤。同僚や上司から「鈴木さんのご趣味は?」と訊かれれば、彼女はいつも穏やかな微笑みを浮かべてこう答えていた。
「休日に静かな喫茶店を巡って美味しい珈琲をいただくことと、愛猫のララと縁側で戯れることくらいですかね。本当に大した趣味じゃなくて恥ずかしいんですけど」
これを聞いた同僚たちは「おっとりしていてお淑やかなお嬢さん」「今時珍しい大和撫子」などと勝手に解釈し、絶賛してくれる。
――が、世間の評価など大いなる誤解である。
実家の自室に戻り、ドアに頑丈な鍵をかけ、遮光カーテンをこれでもかと隙間なく閉め切った瞬間、彼女の「真の姿」が覚醒する。
「タケルきゅんんんんん! 今日もなんて神々しいの! その聖剣になりたい! いやむしろその聖剣で私を袈裟斬りにして!」
ベッドの上で身悶えしながら、カオリは大型モニターに狂ったように視線を注いでいた。
画面の中で美麗な3Dグラフィックとして佇んでいるのは、大人気王道RPG『ドラゴンクロニクル』――通称『ドラクロ』の主人公にして人類の希望、勇者タケルである。
この『ドラクロ』は、全世界で累計数千万本を売り上げ、現在放送中のアニメも深夜帯のトレンドを独占し続けている超巨大コンテンツだ。カオリはその重度のオタク、いわゆる「限界オタク」だった。
現実の男性経験? あるわけがない。年齢イコール彼氏いない歴の三十歳。現実の生身の男性を見ても、加齢臭やら浮気のリスクやら生活費の計算やらが脳裏をよぎってしまい、一ミリのときめきも覚えない。
しかし、画面の向こうのタケルは違った。どこまでも純粋で、仲間想いで、世界を救うために傷だらけになりながらも戦うその姿は、カオリにとっての唯一無二の聖域だった。
「はぁ……それにしても今回のイベントの魔王エヴァ様との掛け合い、尊すぎて無理……。光と闇の宿命のライバルにして、互いの実力を誰よりも認め合っているこの関係性……公式が最大の大手すぎるわ……」
カオリの『ドラクロ』愛は、単なるキャラクター萌えに留まらない。ゲームの緻密な世界観設定、裏設定、ボスがドロップするアイテムのテキストに至るまでをすべて暗記し、脳内で考察を繰り返すのが至高の娯楽だった。
仕事のストレスはすべてゲームの世界で発散する。そんな充実した、しかし平穏なオタクライフが死ぬまで続くものと、彼女は信じて疑っていなかった。
あの信じられない火曜日が訪れるまでは。




