9、階段下の赤ちゃん
今思い出してみても、その時の事は夢だったかもしれないと思う。
打ちっぱなしのコンクリートでできた天井。
しゃれっ気のないパーテーションで仕切られた向こう側が作業場なのだろう。
階段から転落したあと、あたしは仰向けになってしばらく動けずにいた。
なんだかすごく最近、同じように階段を転げ落ちた人がいたはずだと思った。 それはウィズのことなんだけど、その時にはさっぱり浮かんで来なかった。
全身を打って、目まいがするほどの痛みに襲われていた。
あたりは不気味なくらい静かで、人の気配はしない。 だのに、ぎい、とドアがきしむ音がした。
あたしの落ちた階段の向こう側に、ドアがあるらしい。 こちらからは見えないが、普通なら掃除道具置き場とか物置に使う、階段下の狭い収納スペースが想像された。
そこから、何か長い物が這い出して来るのが見え、あたしは息を飲んでそちらを凝視した。
べた、べた、と不器用な音を立てて、そいつはこちらに寄って来た。
これは夢だと思った。 それは異様に頭の大きな、宇宙人のような人間だったからだ。
手足の長さも太さも、あたしの半分しかない。 でも頭だけはひどく大きく、しかもぼってりと変形している。
べた、べた、とそいつはあたしの方へ這い寄って来る。 怖かったけど、まだボーっとしていたし、何より夢だと思っていたので、悲鳴は上げなかった。 なんでだか鼻が曲がるほどの悪臭がしたように思った。
上から覗きこまれて初めて、あたしは自分が頭を下にしてさかさまになっていることに気付いた。
道理で、肩のあたりばかりが集中的に痛いわけだ。
そいつはあたしの視界を塞ぐように、ぬーっと上から覗き込み、口を半開きにして顔を近づけた。
そこでやっと気づいた。
宇宙人なんかじゃない。 子供なのだ。
よちよち歩きをするくらいの子供。 それが異常に手足が細いために、子供らしく見えないのだった。
よく見ると、腕の骨が湾曲している。
手首の形もどこかおかしい。 不自然に内側に曲がって固まっている感じだ。
異臭が鼻を突いた。 糞尿の匂いだ。 アンモニアのせいなのか、心なしか目がチカチカする。
子供の腹部はぽっこりと下半分が丸く突き出している。 その下に、ずり落ちそうに膨らんで、茶色に変色した紙おむつが付けられていた。
赤ちゃん。 ウィズが言ってた、優亜が探してた赤ちゃん。
見つけたよ! 階段下の赤ちゃんがここにいたよ!
「美久ちゃん! 美久ちゃん!」
ウィズに頬をピシャピシャ叩かれて、あたしは目を覚ました。
そこはさっきと同じ、コンクリートの事務所の中だったけど、今は電気がついてすっかり明るくなっていた。
階段の真下ではなく、少し移動して小さな応接セットの上にいるらしかった。
事務所の中に何人もの人がいて、忙しく動き回っている。
あの時の鑑識さんたちだ、と直感的に思った。
「ウィズ?」
魔術師はあたしの体を抱いたまま、立ち上がろうとしていた。
「美久ちゃん、来るのが遅くなって、ごめんね。
あ、動かないで。 すぐ楽にしてあげるから」
部屋の中は、さっきと違った意味で悪臭に満ちていた。
髪の毛とビニール製品の焦げる匂いだ。 おまけに床のあちこちが水浸しになっている。
明らかに火事があった後だ。
さっきあたしが転がっていた、階段の下あたりは、床が真っ黒に焦げて煤だらけになっていた。
そこに横たわっている物を見た時、一瞬頭の中が真っ白になった。
黒々と変色していたが、それは見覚えのある衣服の一部だった。
ミヤハシ父が着ていた上着の色。
「ウィズ……み、宮橋先生は……?」
恐る恐る聞いてみた。
「大炎上。 多分助かんないだろうね。 自業自得」
魔術師はこともなげにそう言って、階段を上り始めた。
その時、ミヤハシ父の上着を彼がひょいとまたぐのを見てしまった。 眉一つ動かすこともなく、平然と。
「美久! 大丈夫か?」
床の崩れ落ちた「押入れもどき」から2階に戻ってみると、まどかが待ち構えていて駆け寄って来た。
部屋には警察官が二人来ており、ベレッタさんと3人で、畳の上に正座した若松を囲んで問い詰めていた。
ウィズはあたしを抱えてまっすぐにそちらに歩み寄り、警官を無造作に押しのけてしゃがみこんだ。
「きみ、何を」
「トカレフ!」
警官とベレッタ刑事が尖った声を出すのも全く無視だ。
ウィズの手が高速で動いて、若松の顔面のど真ん中をガシッと掴んだ。
「何すんだあ!」
若松が悲鳴混じりの声を上げる。 その声が、そのまま紛れもない悲鳴そのものに変化するまで2秒かかった。
「あ、ああ、あああああッ!」
「ウィズ!」
止める暇がなかった。 全身がカッと熱くなり、恐ろしいほどのエネルギーが、ウィズの腕を通してあたしの中に流れ込んで来る。 刺激が強すぎて、目の前が銀色になるような気がした。
ウィズは若松から奪った精気で、あたしの怪我を治しているのだ。
ウィズの手が離れると、若松は畳の上に崩れ落ちた。
顔を見るとさすがにやつれた感じになってるけど、命に別状はなさそうなので安心した。
ベレッタ刑事が大声でウィズのことを怒鳴っている。 魔術師はまったく意に介さない様子で、あたしの手足を丹念に調べたあと、ホッとしたように微笑んだ。
「おい、トカレフ! 聞いてるのか」
「聞いてますよ。 忙しかっただけです」
ベレッタさんの怒鳴る声に、やっとウィズが反応した。
「心配しなくても、もうこれでやめときます。
大丈夫、少々寿命が縮んだって2年ってとこでしょうよ。
そいつなんか、その年月を惜しむほど立派な人生送りゃしませんって」
ウィズは赤ちゃんにするように、腕に抱えたあたしにスリスリ頬ずりをしながら立ち上がり、部屋の隅に移動して座らせてくれた。 次いであたしの髪を撫で付け、どこか痛いところがあるかと聞いた。
「ううん、もうどこも痛くないわ」
急いでそう答えたけど、ウィズはまだ満足してない表情だった。 あたしの背中を掌で撫で続ける。
「もう。 すっかり『あれ』の臭いが移って取れやしないな」
「あれって?」
「宮橋」
凍りつくような声音だった。
「あの。 炎上って言ってたけど、宮橋先生、ホントに亡くなったの」
「まだ息があったから救急車で運ばれたよ。 死ぬのは今夜かな」
平然と言い放つウィズの顔を、あたしは放心して見上げた。 人をひとり害したと言うのに、いつもと変わらぬ涼しい顔をしている。
あたしはその時、心の底からウィズが怖いと思った。
そんなことを思うべきじゃなかったと気づいた時には、もう遅かった。 ウィズは不意に顔色を変えて、あたしの顔をじっと見ている。
「美久ちゃん、僕は火をつけてない」
「え?」
「やったのは優亜ちゃん」
「塩谷がどうやって」
「外からスーッと入って来て」
理解不能な状況だったので、あたしは思わず首をひねった。
だって、この場に塩谷 優亜がいたと言われても、信じる要素が何もないじゃないか。
あたしの気持ちを読んだウィズが、ゆっくりと体を離し、立ち上がった。
体を包んでいた彼のぬくもりが、急速に冷えて行く。
何かが壊れるのを感じた。
あたしはこの時、ウィズの言葉を信じるべきだった。
いかに無茶な状況説明だとしても、彼が口に出して言った言葉だけは信じなきゃいけなかったのだ。




