40、虐待された子供達
夕闇に沈み始めたベッドの上で、拓くんは声もなく泣いていた。
ベッドサイドに立ちはだかった一回り体の大きい男の子が、片手で拓くんの髪を掴み上げ、空いた方の手で頬っぺたを捻り爪を立てている。 拓くんの食いしばった歯の隙間から漏れる、ヒヒヒヒと乾いた呼吸音だけが、部屋の空気を掻き回していた。
「せいくん、ダメよ。 拓くんを離して」
大声にならないように注意しながら、小さな入口灯を点けると、せいくんの大きな手が、拓くんをベッドに突き転がすのが見えた。
「どうして痛くするの、せいくん。 拓くんが何かやった?」
「こいつ臭え! またやりやがった!」
確かに、拓くんの体からは、明らかに大量の便の臭いがする。 もう2年生なのだが、ストレス性の排泄障害のため、便意を自覚できず時々漏らしてしまうのだ。 虐待による全身骨折で、病院からここ「ひかりのいえ」に収容されて5ヶ月間、ずいぶんいろんなことができるようになったが、この「遺糞症」は一進一退なかなか完治しない。
せいくんは5年生で、ここに来て4年経つのでだいぶ地金が出て来ている。 この子も親に殴られて育った子だが、同じ境遇だから仲良くなれるかと言ったら、必ずしもそうは行かないものなのだった。
ここの子供たちは、親に叱られる事に慣れており、いわば叱られることでしか人とつながって来れなかった子供だ。 そんな子は、まずアクションを起こすとき、自分から叱られやすい行動を取る特性がある。 悲しいことに親のニーズに合わせて出来上がってしまうものなのだ。
だからあたしはこんな時、いくら躾が必要でも、頭ごなしには叱らないことにしている。 他にコミュニケーションの方法がわからないのかもしれないからだ。
「せいくん、ありがとう。 ホントは何とかしてくれようと思ったんだよね。 だから拓くんを叱ったんでしょ」
当然叱られると思っていたせいくんは、目をパチクリさせて、気味悪そうにあたしの顔を見上げた。
「ミク、馬鹿じゃね?」
「えー、そお?」
「臭えから腹立っただけじゃん、こいつダメじゃん」
「なるほど。 で、つねったら臭くなくなった?」
「なわけなーだろ! 天然かこのブス!!」
「だって問題が解決しなかったら怒り損じゃないかなー」
あたしはケラケラ笑いながら、手早く拓くんのパンツを脱がせて、部屋の隅に隠してあったおしりふきセットで後始末をした。
「怒られるのも疲れるでしょ。 だけど怒る方も体力要るんだから。 あたしはなるべく省エネするの。 でねえ、拓くんさあ、1回浣腸して、溜まったウンチ出しちゃったほうがいいかもよ。 ウンチ溜めてんのが一番いけないって本に書いてあったよ。 園長先生と保健の飯田先生に聞いてみてあげるよ」
「かんちょー! なんでですかー、こいつこんなに漏らしてんのにもっと漏らすんですかー」
「せいくん、驚愕のダンスはいいから、そこの汚物入れ取ってください。 ありがとう。 ……よし、拓くん、パンツとズボン取って来てくださーい」
汚れ物をひとまとめにして立ち上がると、さっきよりもっと怒ったような顔になってしまったせいくんに笑いかけた。
「せいくん、心配してくれてありがとうね。 この次もし臭かったら、すぐ呼びに来てくれる?」
「やなこった」
「だけどほら、臭くなくなったよ。 手伝ってくれたから早かったよ。 またお願いね」
「バカ女! ブース! 死んでろ」
足を軽く蹴られてひっくり返りそうになった。 せいくん、褒められるのは苦手なようだ。
でもきっと、次の時は拓くんをつねる前に知らせに来てくれるんじゃないかな。
部屋を出たところで、もうひとりの協力者にお礼を言うのを、あたしは忘れなかった。
廊下のマリア様の足元にうずくまっている痩せた子供だ。
「ウィズ、ありがとう。 無事終了よ」
視線を向けた時にはもう誰もいない。 いつものことだった。
夕方6時から夜10時まで、ここでボランティアをするようになって半年になる。
まだ資格がない学生だから、初めは洗濯とか風呂掃除とか夕食の片付けなんかの雑用だけをという話で始めたのだけど、慣れてくると子供の方から頼ってくることもあり、職員と同じように子供と接する機会も多くなってきた。 何より、毎晩ミサのある7時から9時までシスター達がいなくなってしまうので、究極の人手不足になるのだ。
「精霊がおりますでしょ」
あたしがウィズにお礼を言うのを見ていたのだろう、ミサを終えたシスター横井が、急ぎ足で近寄ってきて耳打ちした。
「精霊?」
「ここにはたくさん精霊がいますの。 わたしもいつも助けてもらっているのよ」
「そうなんですか」
シスター横井は見たところ40歳前半、老女だらけの修道院の中では若手と呼ばれている。
彼女の信心深さは筋金入りで、あたしのように信仰心のない人間は、普段から会話しながら腰が引けてしまうのだが、この時はウィズの残留思念が彼女にも見えたのかと思ったので、とりあえずうなずいて見せた。
「この間もイギリスからのお客様を修道院にお泊めしたとき、夜中にふっと精霊に起こされたんです。 で、なんとなく客室に行ってみたら、お客様がバスローブのまま廊下に立ってらして。 2人部屋なんで締め出されたまま、中の人が寝てしまったんですね。 精霊が起こしてくれなかったら、多分朝まで誰も気づかなかったでしょう。 そういうふうに助けられる事が度々あるんです」
「それが精霊のおかげなんですか?」
「そうです、私たちが真剣に何かをしていると、手伝ってくれるんです」
「精霊って、『父と子と精霊の御名において』っていうあの精霊ですよね。 要するに天使のようなものですか?」
相槌のつもりで質問してみたら、シスター横井はいきなり目を剥いた。
「まあッ、とんでもない。 天使は神様の御用をする役目の者で、私たちが使うなんてできませんわ。 精霊は精霊です」
で、それはなんなんだ、と疑問が沸き起こったけど、絶対長い長い講釈になりそうなので笑って聞き流すことにした。
2階の共同トイレで後片付けをしていると、突然窓の外が明るくなった。
「なに?」
夜の窓の外に、黄色い光が広がっている。 街のむこう、遥か遠くなのだけど、上空いっぱいの大きさなのですぐ近くに見える。
よく見ると光の真ん中には、噴水のように光を湧き上げる光源があるようにも見えるのだが、さてそれがどこから出ているのかと言われるとまるでわからない。
特大の花火とか? 隕石が落ちたとか? いや、それなら大きな音がするはずだ。
息を飲んで窓の外を見ていると、唐突にトイレのドアが開いた。
飛び込んできた人影を見て、あたしはバケツを取り落とした。
長身の男性。 息せき切って駆け込んで来たのに、物音はカタリともしない。
「ウィズ」
大人のウィズに会うのは、本当に久しぶりだ。 だけどこれが実体でないことは、これまでこの施設で数え切れないくらいの残留思念を見て来たおかげで、一瞬でわかってしまった。
幻のウィズは、あたしの顔を見て唇を歪め、自分の顔の前でパチンと両手を合わせた。 続いて深々とお辞儀をしてから煙のように消え失せたのだ。
「なあに……謝ってるの?」
なにか起きてるのだ。 それが何かがさっぱりわからない。
不安になって、帰りに「ウィザード」に寄ってみたが、店は閉まっていた。
確かに夜中だったが、いつもの閉店時間を考えると店じまいが早すぎる。 第一、喜和子ママは店を閉めてもしばらくは掃除をしたりして中にいるので、窓から明かりくらい漏れているはずだ。 そのあとママは自分の部屋に帰るのだが、そちらを見上げても電気は点いてない。
たまりかねて所沢刑事に電話した。
「お嬢か。 今どこにいる?」
こちらも尋常ではない口調だ。
「店の前にいるなら都合がいい。 そのままこっちに出てこれんか? 俺は喜和子ママと現場にいるんだが、えらいことになっとるんだ」
「ウィズよね。 彼に何かあったんでしょう?」
「そう、これから朝香・姫神両先生が、大学病院から車でこっちに来る途中、お前さん拾ってもらうよう言っとくから」
「行きます、そこはどこ?」
「三瀬の別荘だ。 ほら、くだんの爺さんがいただろう?」
「雷太さんね」
「その爺さんが亡くなったんだ」
「死んだ!?」
「昨日連絡があって、心筋梗塞でな。 まあ、歳も歳だし体型もかなり無理があったんだろうって話だった。
ただ、あの騒ぎからこっちは待遇が良くなって、地下室から出て普通の生活をさせとったらしい。 まあ今更とは思うが、やらんよりは遥かにマシだろう。
結局、葬儀も完全に密葬になるってことで、今朝トカレフが弔問に行った」
「で?」
「説明は難しい。 とにかく来て見てやってくれ」
あたしは苛立った。 ベレッタさんには珍しいほどの歯切れの悪さだ。
いくら聞いてもそれ以上話が進まないので諦めて、迎えに来た怜さんの車で、三瀬のおんぼろ別荘に向かった。
密葬とはいえ、一応普通のお通夜と変わらない祭壇が作られ、迎えてくれた三瀬の総帥とその妻(だと思う)も、きちんと喪服に身を包んでいた。 ところが。
さすがに悲鳴だけは飲み込んだが、信じ難くもシュールで不気味な状況が展開しているではないか。
祭壇の正面にしつらえた棺桶は横倒しになり、中から白装束の巨大な遺体が半分転がり出ていた。
じいちゃんの遺体は花を撒き散らして外に這い出しそうな格好になっている。 その上に重なるようにうつ伏せになっているのは、喪服を着たウィズだった。
魔術師はピクリとも動かない。 覗き込むと目を固く閉じているが、呼吸はしているようだ。 ただし、揺すっても叫んでも反応はない。
さらなる問題は、そのウィズの右手を、ガッチリと握り締めて万力のような力で動けなくしているのが、死体であるはずの雷太爺ちゃんであることだった。
「どうしても、どうしても離れないんです!」
葬儀も弔問もあったものではない。 集まった僅かな人数の人々は、前代未聞の理由で汗だくになっていた。
彼らは渾身の力と、絞り出したあの手この手の方法で、この2人を引き離そうとしていたのである。




