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39、あたしの道を照らす光

 近所の交番のお巡りさんと一緒に、その家のブザーを押した時には、もう泣き声は響いていなかった。

 30歳くらいのくたびれた男の人が中からドアを開けた時も、声は聞こえなかった。 あたしとシスター松岡は、手遅れだったのではと不安な瞳を交わし合った。


 「赤ちゃんの泣き声が少しおかしいと通報がありまして。 何か変わったことはありませんか」

 お巡りさんが質問すると、父親らしいその人はちょっと迷惑そうに頭を掻いて、

 「いや、この時間は眠いのでぐずってたりするんですよ。 もう収まりましたから」

 その言葉で慌てたように奥から女性が出て来た。 さっきベランダにいた女だ。

 腕の中には赤ちゃんを抱いている。 丸々と、とまではいかないが健康的にふっくらして、顔色のいい赤ちゃんだ。 ピンクの清潔なベビー服を着て、ドアの前に立ちふさがったお巡りさんを見ると、怯えたように母親にしがみつく。 

 あたしが外で拾いましたと言っておしゃぶりを見せたら、母親が、

 「ありがとう、この子のです」

 と言って受け取ろうとする。 そのおしゃぶりを触ろうとして赤ちゃんが手を伸ばす。 ダメダメばっちいよ、と父親が止める。 3人の姿は、至って健康的な、ごく普通の親子に見えた。


 「特に異常はなさそうですね。 思いすごしじゃないですか?」

 小声でおまわりさんに聞かれて、あたしも自信がなくなって来た。 その時だ。

 「美久ちゃん、その子じゃない!」

 突然、赤ん坊がそう叫んだ。 いや、そう見えただけかもしれない。 声はあたしの頭の中でしたようにも思えた。

 同時にあたしの鼻は、突き抜けるようなアンモニアの臭いを嗅ぎ取っていた。


 靴を脱ぎ捨てるや、家の中に走りこんだ。

 「おい!」 

 父親が遮ろうと伸ばした腕をかいくぐり、警官の制止の声を無視する。

 奥の寝室の扉が細く開いている。 ベビーフェンスで塞がれているが、隙間から見えるのはあの段ボール箱じゃないか!

 父親が追いついて来て、あたしの服を掴んで引き戻そうとした。 かなり荒っぽい勢いだ。

 次いでいきなり足を蹴りつけられた。 暴力にためらいがなく、ものすごく痛い。 警官がそれを止めようとして、父親と揉み合いになる。

 その隙にあたしはフェンスを跨いで、ダンボール箱を開いた。


 一瞬、昔の夢を思い出した。 かよのさんの夢の中で見た、胴体から引き離された頭部だ。 

 小さなダンボール箱の中身の半分ほどのスペースが、人の頭だったからだ。 悲鳴が口から漏れるのを止められなかった。 死体だと思った。

 でもよく見ると、首の下にはちゃんと胴体があった。 異常に細くて小さいものだったけど。

 とんでもない状態の子供が、その中に収められていた。 

 土気色の顔をした、骸骨のようにやせ細った子供。 半眼に開かれた目からは白目が覗き、口にはおしゃぶりに紐をつけたようなものが、猿轡のように巻きつけられている。 腰と膝をひどく折り曲げて紐で縛ってあるため、身長が頭の大きさしかないように見えるのだった。 縛られた部分は膿んで腫れ、ところどころ中から白い骨が見えていた。

 その子は女の腕の中の赤ん坊よりももっと小さく痩せていたが、赤ん坊には見えなかった。 警官が母親を問い詰めると、上の息子で3歳だと答えた。


 わずかだが呼吸はあったので、直ぐに病院に搬送された。

 検査の結果、床ずれや外傷も深刻だが、まず体を温め酸素吸入と栄養点滴をしないと命に関わるので、集中治療室に入ることになった。 それを見送ったシスター松岡はアッサリと言った。

 「ここにこれ以上私たちがいてもお役に立てることはないでしょう。 私は孤児院の方を見に行かないといけない時間だから帰りますけど、美久さん、もしよかったらお手伝いにいらしてくださいませんか?」

 「これからですか?」

 「今週は夜間の人手が足りなくて、シスター達も手伝ってるんですがオーバーワークなんで、10時頃まで……彼女らの仮眠の時間だけ一緒にいてくださると助かるのですけど」

 あたしは一瞬、心の迷いを見透かされたような気がした。 神の道を修行したこの尼僧には、行き場のないあたしの心がわかるのか、あたしはそんなにもやるせない顔をしているのかと。 でも、後で考えたら、あたしが施設で働きたいという話は、ウィズと一緒に来た時にこの人にしたことがあったので、それを思い出して言ってくれただけかもしれなかった。 


 「ひかりのいえ」と名付けられたそのホームに、あたしは初めて足を踏み入れた。




 小さな灯りを残して、部屋は全て消灯されていたが、その木造の建物が暗いのは、光量のせいだけじゃなく、それがとても古いものだからだろう。 ただし、神戸の施設と同じで、古いといっても洋風なので、日本人の感覚からすると、モダンな造りと感じなくもなかった。

 昔はどこのホームも、20人くらいの子供が、教室のクラスメートのように集団で行動していたのだが、最近では家庭の形態に近づけるという意味で、少数グループに分ける動きが盛んらしい。 

 この「ひかりのいえ」でも部屋割りを6人制にして、できるだけ少人数で生活できるようにしていたが、建物が昔のままなので、食事や入浴などプライベート空間の設定には成功していないということだった。


 消灯後なので、子供たちの大半は2段ベッドに潜り込んでいたが、中には寝巻きのまま起きて遊んでいたり、廊下をうろついている子もいた。 シスターが早く寝なさいと声をかけると、大抵素直に頷いて就寝する。 

 「いい子ですね、みんな」

 思わず言うと、シスターがどきりとするような表情で聞いた。

 「もっと反抗的な、異常な子供が多いと思った?」

 「え。 い、異常とまでは……でも、もっと混乱してるかと」

 「彼らは混乱には慣れています。 生まれてこの方、ずっと絶え間なく混乱し続けてきた子もたくさんいます。 親に虐待されるのはとんでもない体験ですが、殴られ慣れてしまうと痛みには鈍感になります。 ですから彼らを苦しめるのは痛みそのものではなく、自分が悪い子だから殴られるんだ、という思いです。 そしてここに送られた子達は、新たに悲惨な思いで苦しみます」

 「もっと悲惨な思い?」

 「そうです。 彼らは、自分が要らない子だから親に捨てられたんだ、と思って苦しむのです」

 「もう殴られなくなったことより、捨てられたことに苦しむ……」

 「殴られた挙句に捨てられた、自分の価値のなさに打ちひしがれるんですよ」

  

 暗い廊下の向こうから、幼児を抱いた中年の男性が歩いてくるのが見えた。

 抱かれた子供は痩せて目ばかり大きい男の子で、骨ばった体つきは、炎の中で泣いていたウィズによく似ていた。 低い声であやす男の声に混じって、泣き声で訴える子供の言葉が聞こえて来た。

 「ママがいいもん」

 「そうか、ママ好きか」

 「おうちがいい」

 「そうか、先生はきらいかあ」

 「きらいい」

 「ごめんなあ、先生で」

 

 ふたりの声が廊下を曲がって遠ざかると、シスター松岡は静かにあたしを振り返った。

 「あの男の子は海斗くんと言って、ここに来て1ヶ月になる子ですけど、ようやくああやって甘えたことが言えるようになりました。 あんなこと言ってますけど、本当はお母さんに暴力を振るわれて、18箇所も骨折した挙句、病院からこちらに回されてきたんですよ」

 「え。 虐待したのはお母さんなんですか。 でも、ママがいいって」

 「どんなにひどい親でも、子供にとってはかけがえのない財産ですからね。 ここに入れられたということは、それを失って何も残らなくなるということです。 私たちは子供に最後通告をしているわけなんです。 良かれと思ってのことですけど、じつは残酷な事なんでしょうね」


 ショックだった。 あたしはそれまで、子供たちを助けるために施設に勤めるということしか考えていなかったのだ。 もちろん彼らの命を救うことには間違いないんだろうけど、それがそのまま心の傷につながるとは思ってもみなかった。 

 あたしのイメージでは、虐待から解放された子供たちは、命の危険にさらされなくなって心の平和を取り戻す。 そしてやがて、みんなそれぞれの幸せを求めて再出発していくはずだった。

 そんな、甘い世界じゃなかったんだ。


 「あそこをご覧なさいな」

 老シスターの細い指が、廊下の隅のマリア像が置かれた小さな献花台を差し示した。

 「ここに来たばかりの頃、コロちゃん……吹雪さんは、夜になると布団を抜け出してあそこに座っていたのよ」

 「ウィズが?」

 献花台と壁の角の間にできた、50センチ幅の隙間に、小さなウィズはうずくまっていたのだと言う。

 「広いお布団で寝たことがなかったのね。 何度迎えに来ても、いつの間にかここに潜ってしまって」

 「こんなとこで寝てたんですか」

 「こんなところで寝てはいけないと叱ると、次の日は別の場所に潜り込もうとするの。 そりゃもう狭い場所ばかりで、探すのも大変なくらいでしたよ。 でも、そのうちに誰も探さなくなりました。 この子はこの子なりに、ここに居場所を見出そうと必死なんじゃないかと、職員にもわかったんです」


 あたしは目を見張った。 献花台の横の隙間に、枕を抱えた小さなウィズの姿があった。

 あたしにだけ見えている映像なんだろうか、シスターは驚いた様子は見せない。 ただ彼女はその時ふっと微笑んで、献花台の隙間の前でしゃがみこんだのだ。

 「こうやって座って、夜中にお話をしましたよ。 眠くなるまでポツポツね。

  そうしたらある夜、吹雪さんは私に言ったんです。『シスター、明日は目覚ましが壊れますから、2つかけて寝たほうがいいでしょうよ』って」

 「予言ですね。 シスターはどうされたんですか」

 「言われたとおり、2つかけて寝ましたよ。 でも信じたわけではなかった、私はてっきり、吹雪さんがイタズラをして、時計を壊してしまったか、他の子が壊すのを見たかどっちかだと思ったんです。 私のアラームは目覚まし時計じゃなくて、古い懐中時計だったから、よく子供たちに触らせていたんですよ」

 「それで?」

 「翌朝、懐中時計は鳴りませんでした。 でも2つ目の時計が鳴ったので、ミサに遅れないで済みましたよ。  それで吹雪さんにお礼を言って、今日はどんなことが起こるのかと尋ねたんです」

 「予言だとは思わずに、ですね」

 「予言を信じる気は、今でもありませんよ。 私たちは聖職におりますからね」

 シスターはきっぱり言い切った。

 「でも、あの子は人の心の動きにとてもとても敏感な子で、そのことは信じられました。 だからいろんなことに気づいているのだと思っていました。 それと、ここに来る子には珍しく、とにかくコミュニケーション能力の高い子供なのに驚きました。 虐待された子は、人付き合いが苦手になるものですから。 そんなこんなで、私は吹雪さんを助手のように連れ歩いて、いろんなことを尋ねたり、解説させたりしながら、お手伝いをさせるようになりました。 それが彼の、ここで得た自分の場所だったんですよ」


 あたしの目には、園長先生の傍らで誇らしげに歩いている、小さなウィズの姿が見えていた。

 涙が出そうになって、あたしは唇を噛み締めた。 失った恋人に、こんな場面で会うことになるとは思いもしなかったのだ。


 次の日から、あたしは大学の講義が終わると、子供たちが寝付くまでの時間を「ひかりのいえ」でボランティアとして過ごすようになった。 

 子供たちの様子や実際の問題を、目の当たりにしてみると、今自分が何をどう勉強しなければならないかよくわかった。 大学の講義の場面でも、教授に食い下がって質問するようになった。

 父や母の元に自分の場所がなくても、だんだん気にならなくなっていた。 寝る場所は大事だけど、もうそこにロマンを求める子供じゃない。 あたしには目標ができたのだ。 以前よりはっきりと、具体的に。 


 5ヶ月後、あのダンボール詰めの子供が一命を取り留めてホームにやってきた時も、あたしはその場で迎えてあげる側にいた。 

 

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