38、魔術師のいないこの世界で
喫茶「ウィザード」は、これまで長い間あたしの聖域だった。
学校にも家にも自分の居場所を感じることが出来なかった思春期の頃、あたしが逃げ込む先はここだけだった。 自分が自分のままでいることを許された唯一の場所だと思っていた。
それはもちろん、あたしをそこに誘った魔術師の存在があったから手に入れることができた場所だったことは確かだけど、それだけじゃなかったはずだ。 喜和子ママも、常連の人たちも、あたしがそこにいることを歓迎してくれていた、学校さえサボらなければたとえ何時間いても。
それが崩れる日が来るなんて、これまで思ってもみなかった。
店内のいつもの席に、ウィズの姿はなかった。 ただ、氷の溶けた飲み物のコップと、電源が入ったままのノートパソコンが置き去りになっていた。
「美久ちゃん……」
息を呑む喜和子ママの顔。 どういう表情をしたらいいのかわからなくて、つい互いに視線を合わせてさぐりあってしまう白井さんとベレッタ刑事。
つまり、ここもあたしがいちゃいけない場所。
あたしには中学時代、激動の3年間で身についてしまった能力があって、そういう場所に足を踏み入れたら自分が不幸になるって、つま先を入れるか入れないかの時点で直感してしまった。
「待って美久ちゃん」
すぐに出ていこうとしたあたしを、喜和子ママが呼び止めた。 急ぎ足でカウンターを出て、帰りかけたあたしの体とドアの間に入って来る。
「びしょ濡れじゃないの、タオルを取ってあげるから座って。 吹雪さん、5分前までここにいたのよ。 常連さんが忘れ物をしたのを、追いかけて届けに行ってくれてるだけなの」
「車で出たんでしょう? 表に停まってなかったわ」
「そうだけど、すぐ戻ってくるわ」
ママの言葉に、あたしは首を振った。
「あたしが居る間は、ウィズ戻らないと思う。 そのためにわざわざ車で来て、あたしと会わずにやり過ごせるようにお酒も飲まなかったんだよ。 ウィズはあたしに会いたかったらいくらでも会えるけど、会いたくなかったら会わずに何年でも逃げ回れるんだから」
「美久ちゃん」
「わかるわよ、それくらい。 ウィズがあたしに会いたがってないことくらい」
「いいえ。 会いたくないなんてそんなことない」
喜和子ママはムキになって首を振った。
「5日前、美久ちゃんと別れることにするって言い出した時の吹雪さんの顔、忘れられないわ。 ずっと以前、あなたたちが初めて会ったあの日に、私に美久ちゃんを連れてきて欲しいって言って来た時の表情と同じだった。 思いつめて、でもなんだかすごくキラキラした目をしてて、頑張るときの顔だなった思ったから、協力したのよ」
「頑張るときの顔……」
「前を見てるときの顔よ!」
わからない。 あたしにはわからない。
魔術師、魔術師、あのペテン師め。 なんであたしに何ひとつ説明しようとしないのよ。
当惑するあたしの顔を覗き込んで、喜和子ママは子供にするように頭を撫でてくれながら言った。
「ねえ、美久ちゃん。 わたしはあの子が今、何をしようとしてるのかはわからないわ。
でも少なくとも、望んだ未来を諦めたようには見えないの。 諦めた時のあの子の醜態は、美久ちゃんだって知ってるでしょう」
「お酒ばっかり呑む……」
「心の強い子じゃないから」
あたしは首を振った。 どんな理由があるにせよ、会えないことを正当化した途端、会わなくても我慢ができるウィズは、少なくともあたしよりずっと強いと思った。
「あたしは、ウィズより弱い人間よ。 ウィズがいないともとの迷子に戻っちゃう」
こらえていた涙が、頬を伝った。 喜和子ママがゆっくりと首を振る。
「そんなことないわ。 吹雪さん言ったもの。 美久ちゃんはもう大丈夫だからって。 自分がいなくてもきっとやっていけるって」
「あたしがウィズを必要としてないってこと? ウィズじゃなくて、あたしが?」
「必要なものが欠けても、崩れてしまわないって意味だと思うわ」
思わす頭を抱えてため息を床に叩きつけた。 魔術師、魔術師、あの腰抜けめ。 あんたの考えることは全然わかんない。 全然ピンと来ない!!
あたしはウィズがいなけりゃ死んじゃう。
「お嬢!」
店を出て行きかけたあたしを、今度はベレッタさんが大声で呼び止めた。
「遠慮せずにいつでも来いよ」
「え?」
「どうせトカレフは逃げ回るんだろうが。 だったら気にせずに、好きな時にここに来たらいいじゃねえか」
「そうそう、いっそ入り浸ってあっちをシャットアウトしちまえば?」
白井さんがケラケラと同調して煽った。
「吹雪と美久ちゃんがどうなったって、ここは美久ちゃんの場所だし、みんなの関係も変わらないからさ」
「関係ったって、そこまで大したつながりじゃないかもしれんが」
ベレッタ刑事が苦笑して、
「ま、でも話くらいしようや。 お嬢の顔が見えないと、おっさんは寂しいぜ。 なあそこのおっさんズも」
店の中にいた数人の常連さんに話を振ると、みんな黙って頷いてくれた。
あたしはまっすぐ家に帰らず、反対方向に足を向けた。
胸の中がホンの少し暖かくなった今、このまま一日が終わってしまってはいけない気がしたのだ。
多分あたしは、何かの分岐点に立っている。 だのに、それが何かが解っていないのだ。 ウィズははっきりとわかってるし、両親や周りの人も、なんとなく感じていてくれているらしいのに、どうしてもあたし自身に意識がないのだ。
考えなければいけない。 何をかはわからないけど、これからの自分のことを。
夕焼けが町並みを僅かに染めかけた時間だった。
見慣れたバス通り、車の流れ、行き交う人々、建ち並ぶマンションのベランダに当たる日差し。 思えばそこはウィズのいない世界、絶対に彼に合うことのない街だった。
ここはウィズのいない街。 そう心に言い聞かせながら、辺りを見回してみると、いつもと全然違った世界があたしの前に広がってゆく気がした。
活気のある夕方、地球上の何もかもが「生活」している。 ホコリを撒き散らして力強く歩き回り、泣いたり笑ったり怒ったり、始終ガサガサと音を立てて。
あたしの立てている音は、なんだろう。
「ぽつん」という音?
「ふわ」という音?
ウィズに会えなくなった今、あたしは自分が無機質な物体でしかないように感じた。 風の音や街の匂いが、まるでガラス越しに見るように実感の遠いものに思えて仕方がない。
あたしは、ウィズに出会って、自分の人生を取り戻したと思っていたのに、結局それはウィズという存在のフィルターを通さないと、見えない幻のようなものだったのだろうか。
1時間近くをかけて、異邦人のように辺りを見回しながら歩いた。 これからはこの世界があたしの全てになるんだ、そのことを自分に染み込ませることができないと、あたしの人生は空っぽになってしまう。
そうしてすっかり日が落ちて、街に明かりが灯る頃、あたしはその声を聞いたのだった。
最初は、子犬が鳴いているのかと思った。 遠吠えになりきれなくて細くなった獣の声のように思ったのだ。
でもすぐに、犬の声にしてはおかしい気がして足を止め、声の出処を求めて首を巡らせた。
道路脇のアパートの2階のベランダ。 ダンボールが一つ置かれていて、声はそこから出ているようだ。
なんだやっぱり犬か、と思いかけた時、ガラス戸が開いて、険しい顔をした女性が飛び出して来た。 その人は物も言わずに、ダンボールにかがみこむ。 フェンス越しでよく見えないが、箱の中に手を差し込んだようだ。
声はくぐもって一旦途切れたが、彼女が手を離すとまた流れ始めた。
慌てたように辺りを見回す女の様子が異常に感じられ、あたしは咄嗟に電柱の陰に隠れた。
女がダンボール箱を持ち上げて、家の中に入ろうとした。 その時に、湿った音と共に、箱は底が抜けて崩壊してしまった。 フェンスの隙間から、小さなものが何個か、地面に落ちて行くのが見えた。
女はベランダに落ちたものだけを拾い集めて、慌ただしく中に入って行った。
あたしは電柱の陰から出て、アパートの敷地に入り、落ちてきたものを拾ってみた。
嫌な予感が的中した。 それは糞尿の匂いのするティッシュと、カビにまみれたロールパンと、古くなって固まったおしゃぶりだった。
やっぱり、あれは人間の声だったのではないか。 そう思った。
時間が遅いので、市役所にある相談所のような場所はもう閉まっている。 これまでのあたしなら、こういう時はウィズに連絡だったのだけど、それができないとなるとどうすればいいんだろう。 確信もないのに警察を呼ぶのは得策だろうか。
あたしが咄嗟に連絡したのは、以前ウィズと行ったカトリック教会だった。 たまたま走って5分の場所にあったからだ。 ちょうど夜のミサが終わったところで、シスター松岡が驚いた顔で迎えてくれた。
「普通の泣き声ではなかったのですね。 どんな声でした?」
話を聞くと、シスターは真剣な顔になって聞いて来た。 あたしが拾ってきたパンとおしゃぶりを見て、ことの重大さを感じてくれたらしい。
「泣き声っていうより、もっと動物的な、きいいいい、って感じの耳障りな声です」
「弱々しい?」
「いえ、細いけどかなり力のある声で、だから、虐待されて弱った子の声とは違うだろう、犬かな、とか思ったんです」
「でも普通に吠える犬の声とも違う。 子供の泣く声とも違う?」
「はい」
シスターは唇を結んで2秒ほど考え、警察に連絡しましょう、と言った。
「ボランティアでアフリカの飢饉の村に行った時に、そんな声をよく聞いたんですよ。
何日も何日も食べ物を口に入れてなくて、弱って死んでいく子供が、死ぬ前に突然ものすごい耳障りな大声で泣き出すんです。 それを聞くと最後の声だと言って、大人たちも泣きます。 その声が犬でないなら、もう手遅れかもしれないけど……」




