第6章 出奔(最終話)
夜明け前の街道を、俺たちは歩いていた。
港町ヴェントの船には、乗らなかった。行き先を知る者が1人でもいる逃げ道は、逃げ道じゃない。だから俺は、誰も知らない道を選んだ。国境の山を越え、名もない隣国へ。地図にない獣道を、氣で夜通し駆けて。
空が、少しずつ白み始めている。振り返れば、遠く、暮らしていた国の稜線が、朝靄に沈んでいくのが見えた。
エレノアは、着せられていた豪奢なドレスを脱ぎ、俺の外套と旅装に着替えていた。宝石も髪飾りも、道中で換金した。今の彼女は、公爵令嬢でも、伯爵の花嫁でもない。ただの、旅の女だ。
その横顔を、朝の光が淡く照らしている。ずっと空っぽだった瞳には、もう、確かな光が宿っていた。
「……トーリ」
歩きながら、彼女がぽつりと口を開いた。少しだけ、不安げに。
「これから、どうする? 私たちには帰る国も、家も、名前もない。何も、持っていない」
「大丈夫だ」
俺は、迷わず答えた。
「俺には、力がある。剣も、魔法も、氣もある。見て覚えた技は忘れないし、どんな土地でも食っていける。獣がいれば獲物になるし、荒れ地なら魔法で水を出して畑にする。……どこだろうと、生き抜けるさ。お前1人くらい、余裕で守れる」
「ずいぶんな自信だ」
「事実ですから。魚1匹で威張る誰かさんと違って」
「……その話、まだ引っ張るのか?」
むくれるエレノアに、俺は笑った。彼女も、つられて笑う。
「どこか新しい場所で、2人で、一から始めよう。誰も俺たちを知らない土地で。畑を耕すのもいい、店をやるのもいい、気が向いたら冒険者に戻ってもいい。……お前が望むなら、どこへでも行く。海の向こうでも、山の果てでも」
エレノアは、しばらく黙って俺を見つめ、それから、俺の手を、そっと握った。
「じゃあ……あたたかい所がいい。海の見える、静かな町。星が、たくさん見える場所だ」
「あの晩の星空みたいな?」
「ああ、2人で見た、あの星空みたいな」
俺は、その手を握り返した。もう冷たくない。しっかりと、体温の通った手だ。
2人で、白み始めた空へ向かって、一歩を踏み出す。
――新しい未来へ。
◇
同じ頃、伯爵の居城では、ちょっとした騒ぎが起きていた。
「遺骨が……出ない、だと?」
焼け落ちた離れの跡を検分させていたゴードン伯爵は、家令の報告に眉をひそめた。
「はい。灰の中を隅々まで探させましたが、人骨の類は、どこにも。まるで、初めから誰もいなかったかのように」
「……逃げた、というのか。あの娘が」
伯爵の顔が、一瞬、青ざめた。だが、すぐに別の計算が、その表情を覆う。
「まずいな。遺骨が出ねば、『花嫁は焼死した』という筋書きが立たん。逃げたと知れれば――いや、生きていると疑われれば、公爵が動く。娘の行方を、いや、それ以上に……この一件の裏を、探られかねん」
妻を3人も葬ってきた男だ。掘り返されて困るものが、いくつも埋まっている。花嫁を殺す算段をしていたことも、その花嫁に逃げられたことも、どちらも表に出せば、伯爵家は終わりだ。
「家令。……遺骨を、用意しろ」
「と、おっしゃいますと」
「どこぞの墓を暴くなり、身寄りのない女の骸を焼くなり、やりようはあろう。花嫁は、確かにあの火事で死んだ。焼けて、骨も判別できぬほどに。――そういうことにする。それが一番、都合がいい」
家令は、心得たように頷いた。
「なるほど。確たる遺骨さえあれば、公爵様も『厄介な娘は片付いた』とご納得。縁組は成った形となり、誰も行方を追わず、余計な詮索も起きませぬ。……生きた花嫁より、死んだ花嫁の方が、よほど扱いやすいと」
「そういうことだ。逃げた娘を追う手間も金も、惜しい。あんな傷物、いてもいなくても、俺の得にはならん。公爵との縁さえ手に入れば、それでいい」
伯爵は、鼻を鳴らして踵を返した。
「花嫁は、死んだ。以上だ。二度と、この話を蒸し返すな」
「御意」
こうして――エレノア・フォン・ルクレールは、公式に、この世から消えた。
悪党たちは、自らの手で彼女を「故人」に仕立て上げ、その死を、誰よりも熱心に信じ込んだ。追う理由も、探す気も、もう誰にもない。世紀の悪女は、火事で焼け死んだ。それが、この国の「事実」になった。
――だが。
その頃、当の「故人」は。
◇
国境を越えた丘の上で、朝日を浴びていた。
「トーリ! 見ろ! 海だ!」
エレノアが、子どものように声を上げて、丘の向こうを指さした。遠く、朝日にきらめく、見知らぬ国の海が広がっている。
「本当だ。……いい眺めだな」
「あそこまで行こう。海の見える町を、探すんだ」
「ああ。行こう」
死んだことになった女と、死んだことにしてきた男が、手を取り合って、新しい国へ下りていく。
名前も、身分も、過去も、全部あの国に置いてきた。残ったのは、この手の温もりと、これから作る未来だけ。
もう、誰も俺たちを追わない。誰も俺たちを縛らない。
「なあ、エレノア」
「なに?」
「生きててよかったな」
エレノアは、目を丸くして、それから、今まで見た中で一番きれいに、笑った。
「……ええ。生きてて、よかった」
朝日の中を、2人は歩いていった。
どこまでも、自由な足取りで。




