外伝Ⅰ 偽りの聖女
――トーリ・トーリントンが「死んだ」と聞いたとき、私は、心のどこかで、ざまぁみろ、と思った。
戯れに城下町にお忍びで視察したとき、護衛の目を掻い潜った悪党達に誘拐された。その時、見過ごせなかったと言って助けてくれた男の子。トーリントンの領地からどうやって王都に来たのかと聞けば、内緒とだけ言った、あの飄々とした放蕩息子。
その彼が、死んだ。子爵家ではしめやかに葬儀が執り行われた。
エレノア・フォン・ルクレール。王子に断罪され、家に売られ、伯爵に殺されかけた、可哀想な女。2人とも、公には死んだことになっている。
間を空けずに貴族の訃報が続いた。偶然で処理する貴族がいるだろうか? 陰謀が渦巻いてると考えるのが普通だろう。しかし、私はそう考えなかった。
……生きているでしょうね、あなたたち。日帰りで王都に来られて、王城の私室に忍び込める人間が簡単に死ぬはずがない。
私はアデルハイト。この国の第三王女。
もっとも、政治的な権力はほとんどない。。
だが、幼い頃から教会行事へ欠かさず顔を出してきたため、聖職者たちには「敬虔なる王女」として知られていた。
この国は、1人の女に狂わされていた。
黒髪の乙女。ある日ふらりと現れて、桁外れの「聖女の力」を示し、瞬く間に王子の心を攫った女。だが、宮廷に上がって半年、私はずっと、あの女を観察していた。そして、確信した。
あれは、聖女ではない。
聖女とは、女神の慈悲を地に映す器。人を憐れみ、弱きを救う心が、その本体のはずだ。だがあの女には、それがない。人への愛が、まるでない。他の貴族にも、王族にも、敬意の欠片もない。私たちを、まるで――そう、まるで、書割の人形のように見ている。生きた人間と、思っていない。
王子のことすら、愛してなどいない。あれは、あの女にとって、飾り物だ。手に入れたトロフィー。着飾らせて隣に置いておく、自慢の品。政治もできず、駆け引きも知らず、ただ規格外の力と、聖女の器だけを持った、傲慢な凡人。それが、あの黒髪の乙女の正体だった。
そして王子は、あの女の力に当てられて、頭がおかしくなっている。まともな判断など、もうできない。あれは恋ではなく、毒だ。
トーリは、私に手紙を送っていた。
『もし、俺が別の世界から来たと言ったら、あなたは驚かれるでしょうか? 正気ではない、とすぐさま手紙を破くのでしょう。しかし、聞いていただきたい。あの聖女は亡霊です。俺と同じ、死してなお、世界を渡った亡霊なのです。信じていただきたい。この国が破滅から逃れるためには、亡霊などに傾倒してはいけないのです』
亡霊。
その言葉が、頭にずっと引っかかる。
力で、あの女には勝てない。最強の聖女の力を、正面から打ち破れる者など、この国にはいない。王子という盾もある。
だが――勝てないなら、奪えばいい。あの女を支える、たった2本の柱を。「聖女という正統性」と、「王子という後ろ盾」を。
力は、信仰に支えられて初めて「聖なる力」になる。信仰を剥がせば、同じ力は、ただの「魔物の力」に成り下がる。
私は、前々から動いていた。
まず、教会だ。私は聖職者たちのもとへ足繁く通い、敬虔な王女を演じながら、そっと毒を撒いた。「あの方は、本当に女神様の慈悲を宿しておられるのでしょうか」と。証拠は、女自身がいくらでも撒いてくれた。祈りの最中の欠伸。大司教への侮蔑。貧者を「不潔だ」と遠ざけた噂。人を人と思わぬ振る舞いの、1つ1つ。
人への愛を持たぬ聖女など、教義の上では、あり得ない。矛盾だ。その矛盾を、私はただ、聖職者たちの耳元で、繰り返し囁いた。囁き続けた。
やがて、教会の中に、疑いが芽吹いた。あれは、真の聖女か。それとも――聖なる器を纏った、何か別のモノか。
そして、私は「提案」した。
ちょうどよいことに、この国には、代々の聖女がその身の清らかさを女神に示す、最も神聖な儀式がある。「浄めの祭壇」。真の聖女がその前に立てば、女神の光が全身を包み、正統を証し立てる。だが――穢れたモノ、偽りのモノがその前に立てば、祭壇はそれを拒み、封じるという。古い伝承だ。誰も、試したことなどない。真の聖女に、疑いなどかける必要がなかったから。
「これほど尊い聖女様なのです。ならばいっそ、浄めの祭壇の御前で、その正統を天下に示されては? さすれば、口さがない者どもも、二度と疑いを口にできますまい」
私は、宮廷でそう囁いた。無邪気な、無害な、第三王女の顔で。
傲慢な女は、鼻で笑った。自分が偽物であることなど、露ほども疑っていない。むしろ、自分を疑う者どもを黙らせる好機だと思ったのだろう。あの女は、自分を物語の主役だと信じきっている。試練など、通過儀礼にすぎないと。
王子は、狂喜した。愛しい女の栄光を、天下に示せると。あの腑抜けは、私の思惑になど、気づきもしない。
――かかった。
あの女は、自分の意思で、自分の力が封じられる、たった1つの場所へ、歩いていく。
儀式の日。
大聖堂には、国中の貴族と、教会のすべての高位聖職者が集った。純白の衣を纏った黒髪の乙女が、勝ち誇った足取りで、浄めの祭壇へと進む。隣には、蕩けた顔の王子。
女が、祭壇に手を触れた。
光が、灯る。
――だが、それは、慈悲の光ではなかった。
祭壇は、女神の光で女を祝福する代わりに、青白い炎のような輝きを放ち、女の身体を絡め取った。伝承の通り。穢れたモノを、拒み、封じる光。
「なっ……何、これ! 離しなさい! 私は聖女よ! この世界の、主役なのよ!」
女は喚き、抗い、その規格外の力を解き放とうとした。祭壇が、軋む。地が揺れる。最強の力が、封印に牙を剥く。
――それこそが、とどめだった。
聖なる祭壇に牙を剥き、大聖堂を破壊しようとする女。その姿を、居並ぶすべての者が、目撃した。真の聖女なら、決してあり得ぬ光景を。
「見よ……! あれが、聖女の力か……!?」
「違う……あれは、魔物だ……! 聖女の器を奪った、邪なるモノ……!」
ざわめきが、確信に変わっていく。大司教が、震える手で杖を掲げた。
「――偽聖女! 貴様、女神の器を穢し、我らを謀った、憑依せし魔性の者であるな!」
もう、遅い。
信仰という土台が、音を立てて崩れ落ちた瞬間、あの女の「最強の力」は、聖なる奇跡から、討たれるべき災いへと、名を変えた。
力の本質は変わらない。
だが、それを「聖女の恵み」と呼び、守ろうとする者は、もう1人もいなかった。
封印の光の中で、女が、こちらを見た。ようやく、私に気づいた顔で。
「……あんた、まさか、仕組んだの? たかが、モブの、第三王女ごときが!?」
私は、微笑んだ。生まれて初めて、心から。
「ええ。モブ、というのはよくわからないけど、見下していた人間に嵌められたのは、さぞ屈辱でしょうね」
人を人と思わなかった女は、最後まで、人に足をすくわれることの意味を、理解できなかった。物語の主役だと信じた女は、脇役たちの静かな悪意が、どれほど恐ろしいものかを、知らなかった。
あとは、雪崩のようだった。
偽聖女に狂わされ、国を傾けかけた王子は、王位継承権を剥奪された。魔性の女に誑かされた愚か者として、歴史に名を刻んで。あの女に阿っていた貴族たちは、我先にと手を引き、掌を返し、断罪の側へ回った。
黒髪の亡霊――名を騙ることも許されぬその亡霊は、封じられ、聖堂の奥深くへ幽閉された。二度と、日の光を見ることはないだろう。奪った身体の中で、ただ、朽ちていく。
……本来の娘の魂が、どこかにまだ残っているのなら。願わくば、安らかであれ、と思う。それだけは、あの女への裁きとは、別の話として。
私は、大聖堂の窓から、南の空を見上げた。トーリとエレノアが消えた、遠い国の方角を。
「ざまあみろ、アデルハイト。あんな男、さっさと難癖つけて近くに置けばよかったのよ。学園に入れば、毎日会えるなんて」
誰にも聞こえぬ声で、私は呟いた。
「本当に、馬鹿な女」




