外伝Ⅱ 国王の裁き
余は長らく、玉座の上から腐臭を嗅いでいた。
どこかがおかしい。
国の軸が、少しずつ狂っている。
それはわかっていた。
だが、どこが、どのように狂っているのか。その中心を、余は掴めずにいた。
嫡子である第一王子は、いつからか腑抜けになった。
聡明だったはずの子が判断力を失い、あの黒髪の乙女に骨抜きにされ、政も顧みなくなった。
余は、ただ女に狂っただけなのだと思っていた。
――そうではなかったと知るのは、もっと後のことだ。
筆頭公爵、ルクレール。
この男の影が、いつの間にか宮廷の隅々にまで伸びていた。
そして、その傍らには余の次子――第二王子が、やけに親しげに侍っていた。
嫌な予感はあった。
余とて、何もせずに眺めていたわけではない。
密かに人を動かし、両者の関係を探らせた。
だが、調べようとするたびに記録は消え、証人は口を閉ざし、わずかな手掛かりさえ霧のように失われていった。
王とて、証なくして四大公爵の筆頭を裁くことはできぬ。
確たる証拠もなく手をかければ、国が2つに割れる。
余は待つしかなかった。
腐臭の源が自ら姿を現す、その時を。
◇
きっかけは、余の最も目立たぬ子だった。
第三王女、アデルハイト。
王位からも政争からも遠く、余自身さえ、あの娘を危険から遠ざけることばかり考えていた。
その娘が、たった1人で、黒髪の乙女を断罪の壇へ引きずり出した。
偽りの聖女を衆目の前で暴き、その力を封じてみせたのだ。
余が玉座から動けずにいた間に。
そして――偽聖女が幽閉され、王子という後ろ盾を失った瞬間、堰は切れた。
女に阿っていた者どもが我先にと保身へ走り、互いを売り始めた。
押収された書簡。
震えながら語られる証言。
次々と崩れていく口裏。
積み上げられた嘘の山が、内側から崩壊していく。
その瓦礫の下から、ついに余が探し続けた「国の軸を狂わせたもの」が現れた。
反逆であった。
ルクレール公爵と第二王子。
この2人が結託し、玉座そのものを狙っていたのだ。
◇
筋書きは、こうだ。
ルクレール公爵は長い時間をかけ、余の嫡子である第一王子を、操りやすい人間へ変えようとしていた。
甘言を囁く取り巻きを置き、都合の悪い者を遠ざけ、少しずつ自ら考える機会を奪っていく。
気づけば嫡子は、公爵の描いた線の上でしか動けなくなっていた。
だが、公爵の真の狙いは、傀儡となった第一王子を玉座へ就けることではなかった。
我が次子、第二王子を国王に据えることにあった。
ならば、継承権の先にいる第一王子は邪魔だ。
いずれ廃さねばならない。
そこへ、あの黒髪の乙女が現れた。
公爵が女を呼び寄せたわけではない。
だが、あの規格外の力と傲慢さ、そして第一王子が女へ向けた異常な執着を、公爵は利用した。
女を王子の傍らへ置き、諫める者を排除し、その愚行を陰から助長した。
女に溺れ、政を捨て、聖女の力を盾に横暴を働く愚かな王子。
そう仕立て上げることで、第一王子から王たる資格を剥ぎ取ろうとしたのだ。
第一王子は、女に狂っただけではない。
公爵の糸と、偽聖女の毒。
その2つによって、狂わされたのだ。
余は玉座の肘掛けを強く握った。
息子よ。
お前は被害者でもあったのか。
愚か者へ堕ちた我が子を、余は幾度も恥じた。
だが、その堕落すら、誰かに望まれ、仕組まれていたとは。
――それでも、罪が消えるわけではない。
いかに判断を狂わされていたとしても、政を放棄したのは嫡子自身だ。
何の罪もない令嬢を、大勢の前で断罪したのも。
人の尊厳を踏みにじり、自らの言葉で追放を命じたのも。
被害者であることと、罪を犯したことは両立する。
父として憐れむことはできても、王として赦すことはできなかった。
◇
だが、余の心を最も抉ったのは、別の一事だった。
取り調べの中で明らかになった。
かつて「聖女を虐げた世紀の悪女」として断罪され、追放され、伯爵邸の火事で死んだとされる娘。
ルクレール公爵の長女、エレノアのことだ。
余も、あの娘を悪女だと思っていた。
偽聖女を妬み、王子の寵愛を取り戻すために、卑劣な嫌がらせを繰り返した女なのだと。
誰もが、そう信じていた。
だが、真実は正反対だった。
あの娘は、父の反逆を知ってしまったのだ。
断罪される半年前。
エレノアは父の書斎で、第二王子との密談を示す書簡の下書きを発見した。
第1王子を王位継承者の座から引きずり下ろし、第2王子を玉座へ据える。
王家と有力貴族の間へ楔を打ち込み、国の均衡を崩す。
すべてを知ったわけではない。
それでも、見過ごせる内容ではなかった。
あの娘は、父を問い詰めた。
企てへ加わるつもりはない。
黙って見過ごすこともできない。
このまま進めるなら、王家へ報告する、と。
生真面目で、忠義に篤い娘だったという。
務めを果たすことを何より重んじ、曲がったことを許せぬ、清廉な娘。
反逆者にとって、これほど恐ろしい存在はない。
すべてを知り、決して口を閉ざそうとしない、潔白な証人。
実の娘であればこそ、始末に負えなかった。
だからルクレール公爵は、娘を消すことにした。
ただ殺すだけでは足りない。
あの娘が生き延び、いつか誰かへ真実を告げたとしても、その言葉に一片の重みも残らぬようにする必要があった。
公爵は、偽聖女がエレノアへ向けていた敵意を利用した。
第一王子の執着を煽り、偽の証言を用意し、娘を「聖女を虐げた悪女」へ仕立て上げた。
証言する口を、汚名で塞いだのだ。
断罪された悪女が「父は反逆者だ」と叫んだところで、誰が信じる。
そうして信用を奪い、公爵家から切り離し、最後には残忍と評判のゴードン伯爵へ売り渡した。
公爵家との縁を欲する伯爵。
邪魔な証人を消したい父親。
婚約者を捨て、偽聖女を選びたい王子。
エレノアを物語の悪役へ仕立てたい偽聖女。
彼ら全員が、初めから同じ目的で動いていたわけではない。
それぞれが、別の欲を抱えていた。
ルクレール公爵は、その欲望の向きを揃え、娘1人を破滅させる筋書きへ組み込んだのだ。
あの娘は、罪を犯したから、あんな目に遭ったのではない。
正しかったから、潰された。
王家へ忠実であったがゆえに、忠義を重んじるはずのこの国から裏切られたのだ。
余は、しばし言葉を失った。
王として余は、1人の潔白な臣を悪女と信じ、見殺しにしていた。
国の軸が狂うとは、こういうことなのだろう。
正しき者が悪と呼ばれ、悪しき者が忠臣の顔で玉座へ手を伸ばす。
それこそが、余の嗅いでいた腐臭の正体だった。
◇
余は立ち上がった。
証は揃った。
もはや、待つ理由はない。
「ルクレール公爵、ならびに第二王子を――国家反逆罪により捕縛せよ」
余の声は玉座の間へ、静かに、しかし揺るぎなく響いた。
その日、四大公爵の頂に君臨していたルクレール家は瓦解した。
領地と財産を押さえ、反逆へ加担した者を拘束し、家に残されていた書類を余さず没収した。
当主たるルクレール公爵は、反逆者として裁きの座へ送られた。
第二王子もまた王籍を剥奪され、罪人として拘束された。
玉座を狙った罪は、血の繋がりでは贖えぬ。
第一王子からも、王位継承権を剥奪した。
偽聖女の力に影響されていたことは認めよう。
だが、王族としての責務を放棄し、無実の臣下を自ら断罪した罪まで消えるわけではない。
余は、2人の息子を王子として失った。
1人は、操られながらも罪を犯した愚者として。
1人は、玉座を狙った逆賊として。
王家に生じた膿を、余は自らの手で切り落とさねばならなかった。
だが――狂った軸は、1つずつ正されていく。
偽りの聖女を、目立たぬ王女が暴いた。
偽聖女の失脚が、反逆者たちの口を割らせた。
隠されていた証拠を、名もなき役人や兵士たちが拾い集めた。
そして今、玉座がそれを裁く。
誰か1人の英雄が、すべてを解決したのではない。
この国の者たちが、それぞれの場所で、それぞれの手を伸ばし、傾いた天秤を少しずつ元へ戻していく。
それが、国というものの癒え方なのだろう。
◇
余は最後に、1つの命を下した。
「エレノア・フォン・ルクレールの名誉を、死者として正式に回復せよ」
夜会で下された断罪を撤回する。
聖女を虐げたという記録を削除する。
そして、あの娘は父の反逆を拒み、王家へ真実を伝えようとした忠臣であったと、国の記録へ残す。
エレノアは、伯爵邸の火事で死んだことになっている。
今さら、生き返らせることはできぬ。
だが、せめて汚名だけは取り除かねばならない。
潔白な娘を悪女と呼び続けることは、この国の恥だ。
……もっとも。
余の耳には、1つ、妙な噂が届いていた。
伯爵邸が燃えたあの夜、白い花嫁を抱え、城から夜の闇へ消えた小柄な影があったという。
そして時を同じくして、トーリントン子爵家が山中の事故で死んだと届け出て、葬儀まで執り行った三男坊。
その放蕩息子らしき少年を、南へ続く街道で見た者がいる、と。
余は、その噂を誰にも告げなかった。
調査も命じなかった。
死んだ者は、死んだままでよい。
もし、あの潔白な娘がどこか遠い空の下で、名も身分も捨て、ただ1人の女として笑って生きているのなら。
それは、この狂った国があの娘へ返せる、せめてもの詫びであろう。
余は玉座から、南の空を見やった。
達者で暮らせ。
王ではなく、娘を持つ1人の父として祈ろう。




