第4章 決断
裏山を捨てた俺たちは、南へ向かった。
目指すは港町ヴェント。そこから船で他国へ渡る。
勘当された身なら、追手の届かぬ海の向こうで、2人とも生き直せる。
道中は、悪くなかった。
氣で身体を強化すれば、夜通し歩くこともできる。罠を仕掛ければ獲物も獲れた。
エレノアはもう、川で魚に触れて悲鳴を上げたりはしない。焚き火の番も、獲物の下処理も、覚えたことは着実にこなした。
時折、どちらかが失敗して、2人で顔を見合わせて笑った。
逃避行だというのに、妙に穏やかな時間だった。
港町へ着く頃には、俺はこの奇妙な同居人を――もう、ただの厄介事だとは、とても思えなくなっていた。
「トーリ。海だ。海を、初めて見た」
丘の上から港を見下ろし、エレノアが子どものように声を上げた。
潮風に、金色の髪が舞う。
断罪や追放に追い詰められていた女の顔には、もう、出会った頃の怯えはなかった。
この人を、あの海の向こうまで連れていく。
そう思っていた。
◇
港町ヴェントへ入ると、まず潮の匂いに包まれた。
山の川とはまるで違う。
塩気と魚、濡れた木材、人間の汗。それに香辛料まで混ざった、妙に濃い匂いだ。
石畳の大通りには荷車が行き交い、港からは船乗りたちの怒鳴り声が絶え間なく響いている。
見上げれば、建物の屋根よりも高い帆柱が何本も並んでいた。
「……すごいな」
隣を歩くエレノアが、感嘆の声を漏らした。
「王都の方が、大きな建物は多いでしょう」
「そういうことではない。ここにいる者たちは、皆、どこかへ向かおうとしている」
荷を担いだ船乗り。
客を呼び込む商人。
旅装に身を包み、船を待つ家族。
確かに港町にいる人間は、誰もがここではないどこかを見ているように思えた。
エレノアには外套のフードを深く被せ、目立つ金髪を隠させていた。
それでも、歩き方までは隠せない。
背筋を伸ばし、顎を引き、人を避ける時でさえ妙に優雅だ。
「エレノア様。もう少し、普通に歩けません?」
「普通に歩いている」
「どこの町娘が、夜会へ向かうみたいに歩くんですか」
「では、どう歩けばいい」
「少しくらい猫背になって、辺りをきょろきょろするとか」
エレノアは背中を丸め、首だけを左右へ動かした。
怪しい。
ものすごく怪しい。
「……もう普通でいいです」
「君がやれと言ったのだろう!」
フードの奥から睨まれた。
変装のつもりで、かえって不審者になっては意味がない。
宿を取ったのは、港の裏通りにある古い商人宿だった。
人の出入りが多い宿なら、旅人の顔をいちいち覚えている者も少ない。
宿帳には偽名を使い、旅の姉弟と記した。
「姉弟、か」
部屋へ入るなり、エレノアが宿帳に書いた関係を繰り返した。
「実際、俺より3つ上ですからね。顔はまったく似てませんけど」
「細かいことを気にするな。……ふふ。弟よ」
妙に嬉しそうなのは、なぜなのか。
「何ですか、姉上」
「やめろ。気持ちが悪い」
「そっちが始めたんでしょう」
荷物を置き、部屋の窓や裏口の位置を確認する。
本当なら、そのまま宿へ隠れているべきなのだろう。
だが、窓から港を眺めるエレノアが、あまりにも物欲しそうな顔をしていた。
「少しだけですよ」
「何がだ」
「港を見たいんでしょう」
「私は何も言っていない」
「顔に書いてあります」
そうして俺たちは、人の多い通りへ出た。
もちろん、ただ遊び歩くわけではない。
町の道を覚えるのも、逃げ道を確認するのも、尾行されていないか確かめるのも、逃亡者にとっては必要な仕事だ。
――というのは半分建前である。
要するに、初めての港町に、俺たちは2人ともそわそわしていた。
市場は、祭りのようだった。
威勢のいい呼び込みの声。
山のように積まれた香辛料。
聞いたこともない言葉で値切り合う、異国の船乗りたち。
山育ちならぬ山籠りの2人には、何もかもが物珍しい。
エレノアは人波にはぐれないよう、俺の袖をしっかり掴み、右を見て、左を見て、忙しなかった。
魚市場の前で、彼女の足が止まった。
台の上に、丸太のような大魚が横たわっている。
「……トーリ。あれは、魚か」
「魚ですね。海の」
「私の獲物の、何倍あるのだ」
「50倍くらいですかね」
「そうか……海は、すごいのだな……」
打ちのめされた顔をするな。
あんたの小魚も、いい魚でしたよ。
市場の奥では、足が何本もある軟体生物を輪切りにし、串に刺して焼いていた。
香ばしい匂いに釣られ、2本買う。
「トーリ。あれは、本当に食べられるのか?」
「食材として売っているんですから、多分」
「多分で買うな」
「俺が毒見しますよ」
そう言って、先に1本をエレノアへ渡した。
「私が先ではないか!」
「細かいことを気にしないでください」
恐る恐る口にしたエレノアは、何度か噛んでから目を見開いた。
「……美味い。屋敷で食べた、どんな料理より美味い」
「それ、川魚の時も言ってましたよ」
「事実だ。記録が更新され続けているだけだ」
どういう理屈だ。
だが、悪い理屈ではない。
立ち食いである。
元公爵令嬢が往来に立ち、串へ直接かぶりつき、はふはふと湯気を逃がしている。
王都の知り合いが見たら、卒倒するかもしれない。
だが、楽しそうなのでよしとしよう。
エレノアが串焼きを食べ終えた頃、埠頭の方から大勢の人間が押し寄せてきた。
船が着いたらしい。
人波に押され、エレノアとの距離が開く。
俺は反射的に手を伸ばし、彼女の手を掴んだ。
「こっちです」
「わ、わかっている」
「離れたら迷子になりますよ」
「迷子になるのは君の方だろう」
そう言いながら、エレノアは俺の手を振りほどかなかった。
むしろ、指先に少し力が入った。
人の流れが落ち着いても、その手は繋がれたままだった。
俺も、わざわざ指摘はしなかった。
そのまま露店の並ぶ通りを歩いていると、エレノアが小さな屋台の前で足を止めた。
並んでいるのは、貝殻を削って作った笛や飾り物だった。
「トーリ。金を少し貸してくれ」
「何を買うんですか」
「いいから」
小銭を渡すと、エレノアは屋台の親父と何やらやり取りを始めた。
しばらくして戻ってくると、買ったばかりの小さな貝笛を、俺へずいと突き出した。
「やる」
「……俺に?」
「君は私に、笛をくれただろう。あれの礼だ。それに――」
エレノアは、少しだけ目を逸らした。
「君ばかりが、私に何かをくれる。靴も、服も、笛も。それが、ずっと……落ち着かなかった」
「借りた金で買った物を、もらっていいんですかね」
「うるさい。いつか自分で稼いで返す。だから、それは私からの物だ」
受け取った貝笛を吹いてみる。
ぴい、と間の抜けた、それでも澄んだ音が鳴った。
エレノアが満足そうに頷いた。
「約束の笛を、私だけが持っているのは不公平だからな。君も何かあったら3回鳴らせ。私が迎えに行ってやる」
「エレノア様が? 俺を?」
「不満か」
「いえ。……心強いです」
本気でそう思ったのだから、仕方ない。
貝笛を懐へしまう。
以前なら、役に立たない土産物だと思ったかもしれない。
だが、なくさないようにしようと、自然に思った。
◇
市場を抜け、浜へ下りた。
エレノアは波打ち際で立ち止まると、革の短靴を脱いだ。
俺が作った靴を、宝物のようにきちんと揃えて砂の上へ置く。
ワンピースの裾をたくし上げ、裸足で波へ踏み込んだ。
「冷たいっ! 川と違う! 押してくるぞ、これ!」
「波ですからね」
「わっ、わっ、引いていく! 砂が、足の下から逃げる!」
寄せる波から逃げ、引く波を追いかけ、子どものように声を上げる。
12歳の俺より子どもだ。
指先で海水をすくい、恐る恐る舐める。
「本当にしょっぱい!」
「海ですからね」
「知識として知っているのと、実際に味わうのは違うだろう!」
公爵家の教師は、海の味までは教えなかったらしい。
夕暮れが近づくまで海辺で過ごし、足を拭いて靴を履き直した。
それから俺たちは、桟橋の先へ並んで腰を下ろした。
停泊した船の帆柱が、茜色の空へ何本も突き立っている。
船腹を叩く波の音。
遠くで鳴る、出航の鐘。
「手続きがうまくいけば、明後日には、あの船のどれかで海を渡るのだな」
「ええ。明日、母の伝手から偽の身分証を受け取って、船の手配を済ませれば」
「……不思議なものだ」
エレノアは膝を抱え、海を見つめた。
「生まれてからずっと、行き先は誰かが決めてきた。嫁ぎ先も、住む場所も、着る物も、口にする言葉さえ」
沈みかけた夕日が、青い瞳に映っている。
「だが、海の向こうだけは違う。あれは、私が自分で選んだ、初めての行き先だ」
「怖くないんですか。知らない国ですよ」
「怖いさ」
エレノアはあっさり認めた。
それから、俺を見て笑った。
「だが、隣に君がいる」
……さらりと言うな、そういうことを。
返す言葉に困り、俺は海へ目を戻した。
夕日が波の上で細かく砕け、光っている。
この景色を、この人の隣で見ている。
それだけのことが、妙に胸の奥へ残った。
「海の向こうへ渡ったら、君は何をするつもりだ」
「魔物を狩ったり、魔導具を作ったり。食べていく手段には困らないでしょう」
「私は?」
「小魚を獲って暮らします?」
「1匹しか獲れなかったことを、いつまで言うつもりだ」
「せめて2匹目を獲るまでは」
エレノアはむっとした顔で海を睨んだ。
「ならば、向こうではもっと大きな魚を獲る」
「漁師になるんですか」
「悪いか」
「元公爵令嬢が漁師。話題にはなりますね」
「話題になっては困るのだろう!」
思わず笑った。
エレノアも少し遅れて笑った。
未来の話だった。
明日のことすらわからない逃亡者が、海の向こうで何をするかを話している。
それでも、不思議と冗談だけには聞こえなかった。
「魚が獲れなければ、お茶を淹れる」
エレノアが言った。
「最近は、上手くなっただろう」
「最初よりは」
「素直に褒めろ」
「俺が魔物を狩って、エレノア様がお茶を淹れる。それで生活できますかね」
「できるさ」
エレノアは、迷いなく答えた。
「私たちは、あの小屋でも生活できたのだから」
繋いだままの手が、少しだけ温かく感じられた。
俺は海の向こうへ目を向けた。
「……そうですね」
俺たちなら、どこでだって生きられる。
その時は、本気でそう思っていた。
◇
日が暮れる前に、俺たちは宿へ戻った。
念のため何度か道を変え、露店の間を抜け、追ってくる人影がないことを確認した。
少なくとも、俺が気づく範囲には誰もいない。
部屋へ入ると、エレノアはフードを脱ぎ、大きく息を吐いた。
「疲れた」
「遊んでいただけでしょう」
「人混みで目立たないように歩くのは、夜会より難しい」
「普通に歩けばいいだけです」
「それが難しいと言っている」
エレノアは窓辺へ寄り、夕日に染まった海を眺めた。
「だが、楽しかった」
「それは何よりです」
「明日は、船を見に行けるのか?」
「手続きが終われば。出航する船も確認してきます」
「そうか」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
それから、部屋を見回す。
狭い寝台が2つと、小さな机しかない、どこにでもある宿の一室だ。
「ただいま、だな」
「宿ですよ、ここ」
「それでも、今夜、私たちが帰ってくる場所だ」
反論しようとして、やめた。
エレノアは荷物から木のカップを2つ取り出し、机の上へ並べた。
山小屋から持ってきたものだ。
「湯をもらってくる。今日は私が淹れよう」
「疲れたんじゃなかったんですか」
「生活だからな」
あの夜、俺が言った言葉を、そのまま返された。
エレノアは得意そうに笑い、カップを持って部屋を出ていく。
俺はその背中を見送りながら、明日の予定を考えた。
偽の身分証を受け取る。
船の正式な手配を済ませる。
路銀の一部を、渡航費用へ換える。
あとはエレノアを連れ、海を渡るだけだ。
何もかも、もうすぐ上手くいく。
そう信じられるだけの未来が、その夜には確かにあった。
◇
港町の宿に落ち着いて、2日目。
俺は船の段取りをつけるため、1人で出かけた。
母の伝手を頼りに、出航の日を確かめ、偽の身分証を受け取り、路銀の一部を渡航の費えに換える。
半日ほどの用事だ。
「すぐ戻ります。宿から出ないでくださいね」
「わかっている。子どもではない」
「子どもですよ。魚1匹で威張るような人は」
「……一言多い」
むくれるエレノアへ手を振り、俺は宿を出た。
それが、間違いだった。
◇
港での用事は、思ったよりも手間取った。
伯爵の手の者が港を見張っているという噂があり、身分証の受け渡しは慎重にならざるを得なかった。
ようやく段取りを終え、宿へ戻った頃には、日が傾きかけていた。
「エレノア様、戻り――」
扉を開け、言葉が止まった。
部屋は空だった。
彼女の荷物も、外套も、きれいに消えている。
荒らされた様子はない。
争った跡もない。
机の上に、1枚の紙だけが、丁寧に置かれていた。
嫌な予感が、心臓を掴んだ。
俺はその紙を、引ったくるように取った。
『トーリへ
帰ってくると約束したのに、それを破ることを許してほしい。あなたが止めるとわかっていたから、あなたのいない間に書いている。
あなたが出かけたあと、宿の主人が、トーリントン家から急使が来たと知らせに来た。
けれど、現れたのはゴードン伯爵の使いだという男だった。
男は言った。トーリントン子爵家が、私を匿った罪で捕らえられたと。ご両親が投獄され、あなたにも追手がかかっていると。
そして、私が伯爵のもとへ出頭すれば、すべて穏便に済ませる。子爵家の罪も問わない、と。
トーリ。
私は、あなたにも、あなたのご両親にも、優しくしてもらった。
生まれて初めて、幸せだった。
その人たちが、私のせいで牢へ繋がれているなんて、耐えられない。
私1人が行けば済むのなら、私は何度でもそうする。
どうか、追ってこないで。あなたは、あなたの人生を生きて。
拾ってくれて、ありがとう。
あなたに出会えて、私は本当に幸せだった。
エレノア』
紙を持つ手が震えた。
崩れるように、俺は椅子へ腰を落とした。
頭が真っ白になる。
行った。
あの馬鹿は、1人ですべてを背負い、勝手に消えた。
逃げるなら俺と一緒だと約束したのに。
帰ってくると、約束したのに。
――だが。
白くなった頭の隅で、冷えた部分がゆっくりと回り始めた。
……おかしい。
子爵家が、令嬢を匿った罪で捕らえられた?
両親が投獄された?
あり得ない。
父は俺を勘当した。
書面の上で、正式に。
「あれはとうに家を出た放蕩者。当家とは関わりない」と言い切れるよう、家と俺を切り離したのだ。
その手筈は、法の上でも隙なく済んでいるはずだ。
今さら子爵家を、令嬢を匿った罪で問うのは、無理筋にもほどがある。
それに、時間が合わない。
俺たちが裏山を出て、まだ数日だ。
子爵家が捕らえられ、その報せが、この港町のエレノアのもとまで届く?
そんな早さで?
誰が、わざわざ?
――ゴードン伯爵の使いが。
答えは、そこにあった。
嘘だ。
全部、嘘だ。
子爵家は捕まってなどいない。
両親も無事だ。
伯爵の交渉人は、ありもしない話をでっち上げ、エレノアの良心につけ込んだ。
俺が留守にした、その隙を狙って。
妻を3人殺したような男が、穏便に済ませるだと?
そんな言葉、信じる方がどうかしている。
だが、エレノアは信じた。
信じてしまった。
自分のせいで恩人が牢に繋がれていると聞かされ、確かめる術もなく、俺へ相談することもできず――彼女の1番柔らかいところを、正確に抉られたのだ。
力ずくではない。
剣も魔法も使わない。
ただ留守を突き、嘘1つで、あの女を連れ去った。
これ以上ないほど、卑怯なやり方で。
ぐしゃ、と。
俺は手の中の紙を握りつぶしかけて――寸前で思いとどまった。
皺を伸ばし、丁寧に畳み、懐へしまう。
彼女が最後に残した、これだけは。
立ち上がる。
もう、頭の中の白さは消えていた。
代わりにあるのは、静かで冷たい怒りだった。
――決めた。
もう、どうでもいい。
エレノアが「幸せだった」と書き残した、この紙1枚で、俺の中の言い訳はすべて燃え尽きた。
俺は、あの女を取り戻す。
ゴードン伯爵の手から。
王子の思惑から。
黒髪の女の悪意から。
全部ひっくり返して、奪い返す。
誰が相手でも関係ない。
四大公爵だろうと、王家だろうと。
「あの女は――エレノアは、俺が取り戻す」
誰もいない宿の部屋で、俺は声に出して、そう言った。
窓の外では、赤い夕日が港町ヴェントの海を燃やしていた。
船の出航は、また今度。
まずは、エレノアだ。
ゴードン伯爵の居城の位置。
警備の厚さ。
港町を出た馬車が、どの道を使ったか。
エレノアが伯爵のもとへ到着するまでの猶予。
婚儀を急ぐつもりなのか。それとも、別の目的があるのか。
調べるべきことは山ほどある。
だが、迷うことは何もなかった。




