幕間 トーリントン子爵の計算
トーリントン子爵は、書斎の椅子に深く身を沈め、届いたばかりの何通かの書簡を暖炉の火にかざしていた。
息子が裏山に女を匿っている。それを知ったのは、ずいぶん前だ。厨房の食料が減り、三男坊の山ごもりが長くなり、あれの目つきに「隠し事をする者特有の落ち着きのなさ」が滲み始めた頃には、もう見当がついていた。
放蕩息子の隠す女が、消えた公爵令嬢であることも。
普通の親なら、頭を抱えるところだ。四大公爵筆頭・ルクレール家の、断罪された令嬢。触れれば火傷では済まない代物を、よりにもよって自分の領地に。だが子爵は、慌てなかった。慌てる前に、算盤を弾いた。それが、家を保つ者の務めだ。
――この女に、価値はあるか。
もし公爵家が、内心ではまだ娘を惜しんでいるなら。表向き勘当を装いつつ、実は生存を望んでいるなら。その令嬢を無傷で確保している我が家は、公爵家に途方もない貸しを作れる。子爵家が、筆頭公爵家に。それは家格を3段飛ばしにする楔になり得た。
だから子爵は、静かに探りを入れた。信の置ける商人を通じ、王都に伝手を辿り、公爵家の内情を測った。ルクレール公は娘の失踪をどう扱っているのか。悲しんでいるのか。探しているのか。それとも――
答えは、火にかざした書簡の中にあった。
公爵家は、探していない。
「静養」という体裁の裏で、あの家は清々しているのだ。傷物になった政略の駒。王家との縁を失い、あまつさえ醜聞の主となった娘など、公爵家にとってはもはや負債でしかない。消えてくれて助かった、というのが本音。娘が生きていようが死んでいようが、二度と表に出てこないことだけを望んでいる。
つまり――貸しは、作れない。
エレノア・フォン・ルクレールという女には、もはや政治的価値が一片も残っていない。保護したところで、感謝する家がない。差し出したところで、買う家がない。ただの、厄介な娘だ。
子爵は、ふう、と息を吐いた。書簡を火にくべる。紙が縮れ、灰になっていく。
残る算段は、2つ。
1つは、あの放蕩息子のこと。女に見向きもせず、山とダンジョンと妙な工作にばかり熱を上げていた三男坊が、初めて1人の女を側に置いた。嫁の貰い手が、あの奔放な息子にも生じたのかもしれぬ。……それは、親としてほんの少し、悪くない話ではあった。
もう1つは――ゴードン伯爵だ。
あの強欲な男が、消えた令嬢を執拗に探している。公爵家との縁を欲し、権力に飢えて。近頃は子爵家のような小家にまで、遠回しに探りを入れてくる。「見慣れぬ客人を匿ってはおられぬか」と。
もし、我が家が令嬢を匿っていると露見すれば。
公爵家の意向に逆らい、伯爵家の面目を潰し、王家の醜聞に首を突っ込んだ家として、トーリントン子爵家は終わる。領地を失い、家名を汚し、一族郎党が路頭に迷う。娘1人のために、トーリントン子爵家を賭ける――そんな博打は、打てない。
守るために、動くことはない。この家に、そのメリットはない。
子爵は、静かにそう結論した。冷たい、が、正しい。家を預かる者の、正しさだ。
――だが。
彼はペンを取り、新しい1枚に、筆を走らせ始めた。宛先は、遠く海を隔てた国に住む、妻の縁者。
『――事情あり。三男トーリを、しばらくそちらで預かってはもらえまいか。路銀と、当面の費えは持たせる。あれは変わり者だが、腕は立つ。決して家の恥にはならぬ』
子爵は、あの息子を勘当するつもりだった。書面の上で、正式に。トーリントンの家名から切り離し、「あれはとうに家を出た放蕩者、当家とは関わりない」と言い切れるように。そうすれば、たとえ息子が令嬢と共に捕らわれても、家は無傷でいられる。
冷酷な措置だ。だが、これは同時に――逃げ道でもあった。
勘当された身なら、あれは自由だ。家の柵に縛られず、女を連れて、国を出られる。海の向こうの縁者を頼れば、追手の届かぬ地で生き直せる。子爵は、そのための路銀を、船の手配を、偽りの身分証を、密かに整え始めていた。
守るためには、動かない。
だが、逃がすためになら、いくらでも動こう。
それが、この不器用な父にできる、精一杯の愛だった。娘1人のために家を捨てることはできない。けれど、息子1人を生かすためになら、この手を汚すことも厭わない。
子爵は書簡に封蝋を落とし、印を押した。火明かりに照らされた横顔は、いつもの飄々とした子爵のものではなく、ただ1人の、老いた父親の顔をしていた。
「……達者でな、トーリ」
誰にも聞かせぬ声で、彼は呟いた。
◇
その日、屋敷から小屋へ戻る道すがら、俺は妙な胸騒ぎを覚えていた。
母が、いつもより多くの食料を持たせた。それだけならいい。だが別れ際、母は俺の手をぎゅっと握って、何か言いかけて、結局「体に気をつけなさい」とだけ言った。父も、書斎から出てきて、俺の顔をやけに長く見た。まるで、しばらく会えなくなる者を見るような目で。
気のせいだろうか。
いや。あの2人が、俺の隠し事を知らないはずがない。知っていて、何も言わない。ただ、いつになく優しい。
何かを、準備している。俺のために。あるいは、俺を切り離すために。
どちらなのかは、わからなかった。両親の情の深さも、家を守る冷徹さも、俺は等しく知っている。あの人たちは、俺を愛しているからこそ、俺を助けるとは限らない。そういう家に、俺は生まれた。
小屋の灯りが見えてくる。窓辺で、エレノアが待っている。
守ってくれる者は、いない。この山の中には、俺とあの女しか、いない。
その事実を、俺はまだ、他人事のように噛みしめていた。
――嵐は、もう、目の前まで来ていたというのに。




