第3章 脅迫
エレノアとの奇妙な同居は、季節の変わり目のような、緩やかな日々を運んできた。
今では山暮らしにも慣れたエレノアは、ワンピースの裾を大胆にたくし上げ、腰紐で留めて川へ入っている。
健康的な太腿が眩しい。
本人は俺を12歳の子どもとしか見ていないらしく、まるで気にした様子もない。
「見たか、トーリ。獲ったぞ」
「小魚1匹ですけどね」
「うるさい。私の初めての獲物だ」
両手で掲げられているのは、手のひらほどの小魚だった。
それでも、エレノアは公爵令嬢だった頃には見せたこともないだろう、得意げな顔をしている。
その小魚を塩焼きにして出してやると、彼女は目を丸くし、それから、しみじみと言った。
「……美味い。屋敷で食べたどんな料理より、美味い」
「川魚に塩を振って焼いただけですよ」
「そういうことではない」
そういうことなんだろう、と思う。
誰かに用意されたものではなく、自分の手が関わったもの。
この人は生まれて初めて、それを口にしているのかもしれない。
◇
その夜は静かだった。
小屋の外に椅子を2つ並べ、星を眺める。
この世界の星空は、前世で見たどんな夜空よりも濃い。街の灯りがないため、天の川がくっきりと帯になって流れている。
「王都では、こんな星は見えなかった」
「灯りが多すぎるんでしょう」
「そうだな。……煌びやかで、綺麗で、息が詰まる場所だった」
エレノアは膝に毛布をかけ、夜空を見上げていた。
断罪や追放について語った時の、張り詰めた気配はもうない。
ただ静かに、そこにいる。
「なあ、トーリ。私は、ずっと役目のために生きてきた。公爵家の娘として、王子の婚約者として」
彼女は星を見上げたまま、続けた。
「……だが、ここには役目がない。誰も私に何も求めない。魚を獲れと言われるくらいだ」
「もっと求めてあげましょうか? 次はウサギですよ」
「ふふ。……そうだな」
エレノアは笑った。
近頃、よく笑うようになった。
皮肉でも、諦めでもない笑い方を、この人は少しずつ思い出しているらしい。
「妙なものだ。人生で1番何もかも失った今が、1番、息がしやすい」
俺は何も言わず、星を眺めた。
この平穏がいつまで続くかは、わからない。
わからないが、続けばいいと、少しだけ思った。
◇
――もっとも、俺にも屋敷での顔がある。
いくら放蕩癖のある三男坊とはいえ、何日も家に戻らなければ怪しまれる。
数日に1度は屋敷へ顔を出し、食事を取り、何食わぬ顔で「山にこもっていた」と嘯く。
エレノアの分の食料を調達するにも、屋敷の厨房から分けてもらうのが手っ取り早かった。
その日の夕食、俺は父と母と食卓を囲んでいた。
「トーリ。お前、近頃やけに山ごもりが長いな」
「新しい罠の研究です。獲物の動きを観察していまして」
「ほう。研究な」
父――トーリントン子爵は、ワインを傾けながら、にやりと笑った。
この人は昔から、俺が何かを企んでいる時、たいてい見抜いている。
神童だなんだと持ち上げるくせに、目だけは妙に鋭い。
「まあいい。ただ、厨房のパンや干し肉が、近頃やけに減りが早いそうでな。鼠でも湧いたか」
「……まさか。自分ですよ。最近、狩りがうまくいっていないもので」
「そうか。世話をするなら、よく食わせてやれ。ひもじいと、心まで貧しくなる」
バレてる。
完全にバレてる。
だが、父はそれ以上何も訊かなかった。
母も静かに微笑み、帰りに持たせる食料の包みを大きくするよう、侍女へそっと目配せした。
この夫婦、気づいていながら、あえて泳がせているらしい。
そして母は、世間話のように――だが、明らかに意図を持って話を切り出した。
「そういえばトーリ。王都では、大変な騒ぎだったそうよ」
「騒ぎ、ですか」
「第一王子殿下の婚約破棄よ。夜会で、大勢の前で。お相手は……黒髪の平民の娘だとか。どこから現れたのかもわからない娘に、殿下がすっかり夢中になってしまって」
俺は表情を変えないよう、スープを口に運んだ。
「婚約を破棄されたルクレール家のご令嬢は、そのまま姿を消してしまわれたそうよ。公爵家は『静養のため療養に出た』と発表しているけれど……ねえ、あなた」
母が父へ話を振る。
父はワイングラスを回しながら、含みのある口ぶりで続けた。
「妙な話でな。公爵家は娘が消えたというのに、まるで探している気配がない。表向きは静養、裏では……まあ、厄介払いができて清々している、というのが本音だろう」
父の声には、貴族社会に対する冷めた響きがあった。
「政略の駒が傷物になれば、家にとってはお荷物だ。いなくなってくれた方が都合がいい、というわけだ」
……なるほど。
エレノアが心のどこかで信じていたであろう家族からも、見捨てられている。
そして、それは転移を手引きした使用人にも当てはまるのかもしれない。
「ただな」
父の声が、わずかに低くなった。
「1人だけ、やけに熱心に動いている者がいる。ゴードン伯爵だ」
「ゴードン……伯爵」
「知っているか。強欲で残忍と評判の、あの男だ。破棄された令嬢を次の妻に迎えるはずだったらしい。それが逃げられて、面目を潰された」
父はワインを一口飲んだ。
「……だが妙なのは、その執念だ。あちこちの貴族に使いを出し、令嬢の行方を探し回っている。『どこかの家が匿っているのではないか』とな」
背筋を、冷たいものが伝った。
それでも、スプーンを持つ手は止めない。
「なぜ伯爵は、そこまで」
「さあな。だが、あの男が公爵家との縁を欲しがっているのは有名な話だ。令嬢を手に入れれば、傷物とはいえ、公爵家へ食い込む楔になる。権力への渇望よ」
父はわずかに目を細めた。
「近頃は、うちのような田舎の子爵家にまで、探りを入れ始めているらしい。『見慣れぬ客人を匿ってはいないか』とな」
カチャ、と母がわざとらしくティーカップを置いた。
「まあ、うちには関係のない話よねぇ。ねえ、トーリ?」
「……ええ。まったく」
母の目が笑っていない。
いや、笑っているのに、全部を見透かしている目だった。
父も母も、俺が裏山に誰を匿っているか、とっくに察している。
そのうえで、追い出せとも、突き出せとも言わない。
ただ、必要な情報だけを、そっと手渡してくれている。
この人たちには敵わない。
「食料は、多めに持っていきなさい。山は冷えるわ」
「……いただいていきます」
帰り道。
月明かりの山道を歩きながら、俺は父の話を反芻していた。
公爵家も、王子も、エレノアを探していない。
消えてくれて清々している。
追っているのは伯爵だけ。
それも、貴族の家を1軒ずつ当たり、匿い主を炙り出そうとしている。
引っかかるのは、そこだ。
もし本当に、エレノアがランダム転移で行方知れずになったのなら、どこへ飛んだかは誰にもわからないはずだ。
他国かもしれない。
岩の中で死んでいるかもしれない。
普通なら、探しても無駄だと諦める。
なのに伯爵は、エレノアがどこかの貴族に匿われていると決めてかかり、片端から探りを入れている。
まるで、彼女が生きて、この国のどこかにいることを確信しているかのように。
……何かを知っているのか?
あるいは、あの転移そのものに、俺の知らない仕掛けがあるのか?
考えても、答えは出ない。
手掛かりが足りなすぎる。
小屋に戻ると、窓に灯りがともっていた。
エレノアが起きて待っている。
俺の帰りを、待っている。
「おかえり、トーリ。遅かったな」
「屋敷で夕食を。……お土産です」
パンと干し肉の入った包みを差し出すと、エレノアは嬉しそうに受け取った。
その無防備な笑顔を見て、俺は父から聞いた話を――伯爵のことを飲み込んだ。
まだ、言わなくていい。
この平穏を、あと少しだけ。
そう思った。
それでも、その平穏が翌日には終わるとは、思っていなかった。
◇
翌日の昼下がり。
小屋の外で、枝を踏む音がした。
俺は反射的に立ち上がり、腰の短剣へ手をかけた。
この裏山へ、許しなく立ち入る者はいない。
罠も張ってある。
なのに足音は、迷いなく小屋へ近づいてくる。
「トーリ様。私です。ハンスでございます」
聞き覚えのある、しわがれた声だった。
屋敷の老従僕、ハンスじいだ。
俺が幼い頃から仕えている、父の腹心の1人。
息を切らし、額に汗を浮かべて、彼は小屋の前に立っていた。
俺は短剣から手を離した。
だが、警戒は解けない。
ハンスじいがここまで来たという事実が、すでに普通ではなかった。
「じい。どうしてここへ」
「ご無礼を承知で参りました。急ぎ、お伝えせねばならぬことがございます」
背後で、エレノアが息を呑む気配がした。
彼女を庇うように、俺は一歩前へ出た。
「本日、屋敷にゴードン伯爵家の使いが参りました」
その一言で、小屋の空気が凍った。
「使いは、消えたルクレール家のご令嬢を探しております。近隣の貴族の館を、片端から」
ハンスじいは苦しげに息を整えた。
「……そして旦那様へ、こう迫っております。『貴家の領内、とりわけ人の入らぬ裏山を検めさせていただけぬか』と」
――来たか。
背筋を冷たいものが伝う。
昨夜、父が言っていたとおりだ。
伯爵は、エレノアがどこかの貴族に匿われていると確信し、その手をついにトーリントン家まで伸ばしてきた。
「旦那様は、のらりくらりと躱しておいでです。『裏山は狩猟の罠だらけで危険。無闇に人を入れ、伯爵家の方々に怪我があっては申し訳が立たぬ』と」
ハンスじいは声を落とした。
「……ですが、それも時間稼ぎにすぎませぬ。伯爵の使いは執拗で、日を改めてでも立ち入る構え。場合によっては、数日のうちに、この裏山へ人が入ることになりましょう」
ハンスじいは深く頭を垂れた。
「奥様は、こうお伝えせよと。――『私の故郷の海を見てくると良いわ』と」
……なるほど。
母の故郷へ向かえ、と。
捜索が始まる前に、エレノアを連れて国を出ろ。
母の縁を頼れ。
そういう意味だ。
ハンスじいは、抱えていた大きな荷袋を、そっと足元へ置いた。
ずしりと重い音がした。
食料。
それに、金貨の詰まった袋の音。
路銀だ。
「これを。それから、旦那様より言伝がございます」
ハンスじいは一度言葉を止め、俺をまっすぐに見た。
「『達者で暮らせ。二度と、この家の名を口にするな』と」
しばらく、声が出なかった。
二度と家の名を口にするな。
それは、勘当の言葉だ。
俺をトーリントン家から切り離し、家に累が及ばないようにする。
同時に、家の柵から俺を解き放ち、どこへなりと逃げられるようにする言葉でもあった。
叱られるより、泣かれるより、ずっと重い。
あの不器用な父と母の、精一杯だった。
「……わかった。じい、伝えてくれ。『世話になった』と」
「……はい。確かに」
老従僕はもう一度深く頭を下げ、来た道を戻っていった。
その背中が、やけに小さく見えた。
小屋の中は静まり返っていた。
振り返ると、エレノアが壁際に立っていた。
すべて聞いていたのだろう。
顔から血の気が引き、握りしめた手が、かすかに震えている。
「……トーリ」
「聞きましたね。まあ、そういうわけです。少し慌ただしくなりますが――」
「私、行くわ」
言葉を遮られた。
俺はエレノアの顔を見た。
彼女は震えながらも、まっすぐに俺を見返していた。
「伯爵のもとへ、私から出頭する。そうすれば、この家の裏山を検める必要もなくなる。あなたも、あなたのご両親も、無事でいられる」
彼女の口調が変わった。
目の前の俺に話しているはずなのに、妙によそよそしい。
魚を誇らしげに掲げ、俺へ「おかえり」と笑いかけていたエレノアが消え、知らない公爵令嬢が立っているようだった。
胸の奥に、寂しさと苛立ちが混ざったざらつきが生まれる。
理由を考えている時間はない。
俺はその感情を、息と一緒に飲み込んだ。
「……本気で言ってます?」
「本気よ」
エレノアの声は掠れていたが、揺るがなかった。
「トーリ。あなたは気づいていないかもしれないけれど、これは私1人の問題ではないの」
エレノアは、俺から目を逸らさなかった。
「あの女と王子は、私の破滅だけでは飽き足らない。私を匿ったと知れれば、あなたの家は――トーリントン子爵家は、王家と公爵家と伯爵家、そのすべてを敵に回すことになる。取り潰しどころか、一家断絶まであるかもしれない」
彼女は一歩、俺へ近づいた。
「私1人で済むのなら、行かなければならないわ。あなたに、あなたの家族に、これ以上の迷惑はかけられない」
涙が、彼女の頬を伝った。
それでも彼女は、笑おうとしていた。
「ここで過ごした日々は、本当に幸せだった。だから、もう十分よ」
その言葉が、腹立たしかった。
「ありがとう、トーリ。あなたに拾われて、よかった」
――ぶちり、と。
頭の中で、何かが切れる音がした。
「馬鹿野郎、死ぬつもりか!!」
気づけば、俺は怒鳴っていた。
いつもの飄々とした調子も、皮肉も、どこかへ吹き飛んでいた。
「ゴードン伯爵のところへ行ってどうする!? あんた、自分で言ったじゃないですか! その縁談自体が、あんたの人生を壊すために王子と黒髪の女が仕込んだ罠だって!」
エレノアが息を呑む。
「妻を3人殺した男のところへ、のこのこ戻る? それならまだ、最初に土へ埋めた方がましだった!」
「でも、それしか――」
「それしかないって、勝手に決めるな!」
声が小屋の壁を震わせた。
「恩を返すつもりで死なれたら、父も母も俺も、何のためにあんたを逃がすんです!」
エレノアは目を見開き、俺を見ていた。
俺の剣幕に、というよりも、俺が本気で怒っていることに驚いているようだった。
……ああ、そうだ。
自分でも意外だった。
家のためだの、寝覚めが悪いだの。
そんな理由で、この女を拾ったはずだった。
なのに今、この人が勝手に死のうとしていることが、たまらなく腹立たしい。
いつの間にか、俺はこの奇妙な同居人を、ただの厄介事だとは思えなくなっていた。
「……いいですか、エレノア様」
俺は努めて声を落とした。
まだ震えている彼女の肩へ、手を置く。
「あんたは、どこにも行きません。出頭もしません。逃げるなら、俺と一緒だ」
青い瞳が揺れた。
「父も母も、そのつもりで路銀を寄越したんです。……全部を背負うのは、あんた1人の役目じゃない」
エレノアの目から、今度は違う種類の涙がこぼれ落ちた。




