第2章 新たな生活
エレノアが小屋に転がり込んで、3日が過ぎた。
匿うと決めた以上、生活は成立させねば。幸い、ここでの暮らしに不足はない。水も火も魔法で出る。館からパンは持ってこれるし、裏山には罠を張ってあるし、川に行けば魚も獲れる。土魔法で作った簡易ベッドフレームとバネと布で快適なベッドに、木魔法で削った食器。正直、王都の庶民よりも文明的である。飢えも凍えもしない。
問題は、公爵令嬢という生き物が、驚くほど何もできないことだった。
「トーリ。暖炉の火が消えた。ん? なんだその木は?」
「薪です。暖炉にくべてください。あと火は魔法で点けます」
「では魔法を」
「エレノア様が」
「……私が?」
こんな調子である。生まれてこのかた、指を鳴らせば誰かがやってくれる世界で生きてきたんだろう。自分でお茶を淹れるのに1日かかった。それでも文句ひとつ言わず、覚えたことを2度は間違えないあたり、根は真面目なんだと思う。いいとこ育ちなだけで、怠け者ではない。
夜。暖炉の火が爆ぜる音だけが、小屋を満たしていた。
エレノアはベッドの縁に腰かけ、膝を抱えて火を見ていた。3日前の張り詰めた気配は薄れ、代わりに、行き場のない静けさが彼女を包んでいる。
「……なあ、トーリ」
「はい」
「どうしてあのとき、殺してくれなかったんだ」
薪をくべようとしていた手が止まる。振り返ると、エレノアは火を見つめたまま、皮肉げに口の端を上げていた。
「落とし穴に落ちた女など、そのまま埋めてしまえばよかっただろう。誰にも知られず、面倒もない。君はそう言ったではないか。埋めた方が早い、と」
「馬鹿言わないでください」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「どうして家の裏山で、公爵令嬢を死なせられるんですか。追い出しても、あなたが野垂れ死でもしてみてください。トーリントン子爵家は取り潰しですよ。四大公爵の令嬢を領地で死なせたとなれば、言い逃れの余地もない。……こっちの心配もしてください」
「……ふ。そうか。家のためか」
「半分は。……もう半分は、寝覚めが悪いからです」
エレノアはしばらく黙って、それから、小さく笑った。今度は皮肉ではなく、少しだけ、力の抜けた笑いだった。
「妙な少年だ。本当に」
火が、ぱち、と鳴る。
彼女はもう一度、火に目を戻した。そうして、ぽつり、ぽつりと、これまで話さなかったことを話し始めた。
「……私はな。生まれた時から、王子の婚約者だった。ルクレール公爵家の長女として、政略の駒として、そう定められていた。会ったのは数えるほど。愛などなかった。だが、それが務めだと思っていた。果たすべき役目だと」
膝を抱える腕に、力がこもる。
「だが王子は、ある娘に心を移した。黒髪の――どこから現れたのかもわからん、身分もない娘だ。王子はその娘に夢中になり、私を疎んじるようになった。それだけならよかった。婚約を解消し、家同士で話をつければ、丸く収まるはずだった」
「収まらなかった、と」
「あの娘が、それを許さなかった」
声が、少し掠れた。
「私が黒髪の娘をいじめた、貶めた、害そうとした――ありもしない罪が、次から次へと湧いて出た。証人がいた。証拠があった。すべて、初めから用意されていたものだ。そして夜会での断罪。婚約破棄。公爵家からの勘当。……それでも、まだ足りなかったらしい」
エレノアは顔を上げた。青い瞳が、火明かりに濡れて光っていた。
「追放同然の身の私に、次の縁談が降ってきた。相手はゴードン伯爵。強欲で、残忍で、これまで娶った妻を3人も死なせたと噂される男だ。誰も嫁ぎたがらぬその男に、私を差し出す、と。……後で知った。その縁談すら、王子とあの娘が仕組んだものだったのだ。私の人生を、最後の一片まで壊すために」
ぽろ、と。
抱えた膝に、雫が落ちた。
「なぜだ。私が、何をした。務めを果たそうとしただけだ。それだけなのに……なぜ、ここまで」
こういう時、気の利いた言葉のひとつも掛けられたらいいんだろう。あいにく俺は12歳のモブで、女の涙の扱いなんて心得ちゃいない。薪をくべ、火を大きくして、黙って隣に座った。それくらいしかできることがなかった。
――さて。頭の隅では、冷静な部分が状況を整理している。
黒髪の乙女。断罪。仕組まれた縁談。俺が避けたかった"物語"の中身が、輪郭を持ってきた。乙女ゲームだか小説だかは知らんが、これは相当に悪辣な筋書きだ。悪役令嬢を破滅させるだけでは飽き足らず、危険な男との縁談まで用意する。ヒロインの性格がだいぶ歪んでいる。
だが、引っかかることがひとつ。
「エレノア様。ひとつ伺っても」
「……なんだ」
「あなたは伯爵に嫁がされるはずだった。なのに、なぜこの裏山にいるんです。どうやって逃げたんですか?」
エレノアは涙を拭い、微かに表情を和らげた。
「……メイドと、執事だ。幼い頃から私に仕えてくれた者たちが、危険を察して逃がしてくれた。転移の魔法で、遠くへ飛ばしてくれたのだ。行き先までは選べぬ魔法だったが……おかげで、私はここにいる。あの2人だけは、最後まで私の味方だった」
なるほど。忠義の家臣。美しい話だ。
――美しい話だ、が。
俺は口には出さず、内心で首を傾げた。
行き先までは選べぬ魔法だったが……ね。行き先を選べない"ランダム転移"だ。ぶっ飛びカード。魔力さえあれば発動できるが、代償に転移先が完全な運任せ。俺の認識としては、指定対象の座標のx軸とz軸がズレる魔法だ。y軸の高さは固定されてるから、宇宙や海の底へは転移されない。
運が悪ければ、岩の中。転移した先が固体の内部なら、体が空間ごと融合して即死する。"石の中にいる"状態。だから、まともな術者は滅多に使わない。
本当に主人の命を助けたいなら――そんな博打を、大事な令嬢に使うか?
馬車で逃がす。身分を偽って街道を落ちのびる。方法はいくらでもあった。よりにもよって、五分五分で即死する転移を選ぶ理由が、忠臣の側にあるとは思えない。
むしろ、これは。
"どこかへ消えてくれれば、生死はどうでもいい"――そういう手つきに、見える。
行方知れずになれば、追う側も探しようがない。死体が出なければ、誰も責任を問われない。あまりに都合がいい。エレノアを逃がしたその手は、本当に、彼女の味方だったのか?
……いや。今は言うまい。
3日ぶりに心を開きかけた女に、「あなたを助けた2人も敵かもしれません」なんて、言えたものじゃない。証拠もない。ただの俺の勘だ。
だが、覚えておこう。この一件、まだ底が見えていない。
「トーリ? どうかしたか」
「いえ。……あなたが無事でよかった、と。それだけです」
エレノアは少し驚いた顔をして、それから、今日一番柔らかく笑った。
「君は、口が悪いくせに、時々ずるいことを言う」
「よく言われます」
暖炉の火が、静かに2人を照らしていた。
平穏な夜だ。今はまだ。
――だが物語の歯車は、俺の知らないところで、とっくに回り始めている。




