外伝Ⅳ 忠臣の祈り
私の名は、ロラン。ルクレール公爵家に40年仕えた、しがない執事でございます。
エレノアお嬢様が生まれた日のことを、今でも覚えております。産着の中で、火のつくように泣くお姿を。乳母と共に夜を明かしたのは、私と、当時まだ小娘だったメイドのマーサでした。
以来、お嬢様の傍らには、いつも私どもがおりました。初めて歩いた日も。王子殿下との婚約が定まった日も。「務めを果たす」と、幼い背筋を伸ばして仰った日も。
――そして、あの方が、旦那様の秘密を知ってしまった日も。
◇
半年ほど前のことでございます。
お嬢様は、旦那様の書斎で、見てはならぬものをご覧になった。第二王子殿下との、度重なる密談の痕跡。そして、書き損じのまま焼き捨てられそこねた、一通の書簡の下書き。
そこにあったのは、玉座への企てでした。
第一王子殿下を廃し、第二王子殿下を立てる。そのための、長い長い筋書き。
お嬢様は、真っ直ぐなお方でした。曲がったことを、飲み込めぬお方でした。その夜、お嬢様は旦那様の書斎へ乗り込み、問い詰めなさった。扉の外で控えていた私は、すべてを聞いてしまった。
「私は、第一王子殿下の婚約者です。お父様の企ては、殿下への――王家への裏切りです。おやめください。おやめにならぬのなら、私は、私の務めに従います」
務めに従う。それは、王家に告げる、ということ。
あの瞬間、旦那様の中で、お嬢様は「娘」ではなくなったのでございましょう。企てのすべてを知り、決して口を閉ざさぬ、潔白な証人。反逆者にとって、これほど恐ろしいものはございません。
ですが、旦那様は聡明であられた。娘を闇討ちにすれば、痕跡が残る。ならば――娘の「言葉」のほうを、殺せばよい。
断罪された悪女の訴えなど、誰も信じませぬから。
黒髪の乙女が宮廷に現れたのは、その少し後のことでした。
◇
夜会での断罪を、私は末席から見ておりました。
仕組まれた証人。用意された証拠。婚約破棄。勘当。あまりに手際がよく、あまりに完璧で――そして、お嬢様ご自身だけが、その理由をご存じなかった。
当然でございます。書斎の一件から半年。報復は、企てとは似ても似つかぬ「恋の鞘当て」の形で参りました。会ったこともない娘をいじめた、という筋書きで。お嬢様は、あの夜の諫言と断罪が無関係ではないと疑っておられたでしょう。ですが、報復は企てとは似ても似つかぬ「恋の鞘当て」の形で参りました。会ったこともない娘への嫌がらせという筋書きで。疑うことはできても、確信するにはあまりにも形が違っていたのでございます。
「なぜだ。私が、何をした」
屋敷を追われる夜、お嬢様はそう呟いておられた。私とマーサは、答えを知りながら、申し上げられなかった。真実を知っていると旦那様に悟られれば、お嬢様の口を塞ぐ手が、私どもにも伸びる。そうなれば、お嬢様をお守りする者が、1人もいなくなる。
知りながら黙る。あれほど苦い務めは、40年の奉公でも、ございませんでした。
そして、ゴードン伯爵との縁談が降りてきた時、私どもは悟りました。
あれは、縁談ではございません。
◇
ルクレール公爵家の宝物庫の、最も奥。代々の執事だけが管理を許される小部屋に、それは眠っております。
「落離の秘法」。
建国の頃より、王家と公爵家にのみ伝わる、国家危機の際の脱出魔法でございます。座標指定転移より不正確ではありますが、ランダム転移より危険度は下がり、その難易度も格段と下がります。
転移先は、あらかじめ定められている。建国の折、王家に忠を尽くした数家の貴族の土地に、還る座標が刻まれているのです。どの家に飛ぶかまでは選べませぬが、いずれの地に降りても、そこは古き忠臣の敷地。岩の中で果てることも、大海原に放り出される事もない。
王家と公爵家すら、代替わりの中でこの仔細を忘れ、「危険な博打」としか伝わっておりませぬ。ですが、執事は忘れませぬ。それを覚えておくことこそが、私どもの家系の、務めでございますから。
伯爵家へ発つ前夜。私とマーサは、お嬢様を宝物庫へお連れしました。
「ロラン、これは……転移か? 正気か、そんなもの」
「行き先までは選べませぬ。ですが、お命は、必ず繋がります。それだけは、この老骨が請け合いまする」
仔細を語る時間は、ございませんでした。追手の目は、もう屋敷の中にもあった。マーサがお嬢様の手を握り、私が秘法を起こし――お嬢様は、光の中に消えられました。
転移先の家のいずれかが、どうか、心あるお家でありますように。
私どもにできたのは、それきりの、祈りだけでございました。
◇
ですが、私は1つ、しくじっておりました。
旦那様に取り入らんと、長年この屋敷に出入りしていたゴードン伯爵の手の者が――使用人の1人を、金で落としていたのです。
その者が知っていたのは、ほんの切れ端。「公爵家には古き脱出の秘法がある」「行き先は、どこぞの貴族の地らしい」。それだけ。転移先の家名までは、漏れませなんだ。それだけは、執事の私しか知りませぬゆえ。
ですが、切れ端だけで、十分でございました。
伯爵は確信したのです。花嫁は生きている。野を彷徨ってもおらぬ。必ずや、どこかの貴族の地に降り、匿われている、と。
だからあの男は、平民の町も、街道も、森も探さなかった。貴族の館だけを、片端から。
伯爵の手の者は、転移先の候補と考えられる貴族領を、1つずつ洗っていった。
その過程で、トーリントン領の麓にある古着屋から、奇妙な証言が上がった。
公爵令嬢が姿を消してから間もない頃、トーリントン子爵家の三男が、若い女物の服を何着も買い込んでいたという。
簡素なワンピースにシャツ、スカート。それだけなら、屋敷の使用人に頼まれたという本人の説明でも通っただろう。
だが、少年はそれに加えて、女物の下着まで数組購入していた。
選んだのは、伸縮性があり、紐で多少の大きさを調整できる庶民向けの品だった。使用人のためだと言いながら、なぜ主人の家で用意せず、子爵家の三男が自ら町まで買いに来たのか。
店の女主人も、そこまでは尋ねなかった。
ただ、少年が自分用の衣服には目もくれず、女1人がしばらく暮らせるだけの着替えを揃えていったことだけは、よく覚えていた。
さらに、その三男は以前から裏山へ入り浸り、何日も屋敷へ戻らないことが珍しくない。近頃は、パンや干し肉を以前より多く山へ持ち込んでいるという話まで出てきた。
どれも、それ1つなら取るに足らない。
だが、秘密の転移先に選ばれた貴族領。
失踪直後に買われた女物の衣服。
山へ運び込まれる、2人分の食料。
点をつなげれば、答えは1つしかなかった。
ゴードン伯爵は、その時点で確信した。
エレノア・フォン・ルクレールは生きている。
そして、トーリントン家の裏山に匿われている、と。その領の関所と、最寄りの港町に、網を張った。
……港町で、お嬢様がどのような目に遭われたか。後にそれを知った時、私は、己を呪いました。秘法でお繋ぎした道を、私の脇の甘さが、また閉ざしかけたのですから。
◇
伯爵の城が燃え、花嫁が亡くなった――その報せを聞いた夜、マーサは声を殺して泣きました。
私は、泣きませなんだ。
おかしいのです。あの城の検分は妙に早く閉じられ、遺骨はあまりに都合よく「見つかった」。そして私は、思い出しておりました。落離の秘法に刻まれた忠臣の家々、その1つが――トーリントン子爵領であることを。
同じ頃、かの家の三男坊が病で身罷り、葬儀が営まれたと聞きます。
消えた令嬢の降りた先かもしれぬ土地で、時を同じくして世を去ったことになった少年。
偶然にしては、できすぎておりましょう。
「マーサ。お前は、どう思う」
「……執事様。私は、信じとうございます」
「ああ。私もだ」
やがて公爵家が反逆の罪で瓦解した折、私どもは、知るすべてを陛下の御前で証言いたしました。企ての仔細も。お嬢様の潔白も。あの方が、正しかったがゆえに潰されたのだということも。せめて汚名だけは、雪がねばなりませんでしたから。
ただ1つ――落離の秘法の転移先だけは、この胸に納めたまま、墓まで持って参ります。
それを明かさぬことが、今の私どもにできる、最後のご奉公でございますゆえ。
お嬢様。
どこか遠い空の下で、どうか、笑っていてくださいませ。あなた様に「なぜ」と泣かせたまま、何も申し上げられなかった不忠者の、これが精一杯の祈りにございます。




