終幕 遠い空の下で
海の見える、静かな町だった。
国境をいくつも越えた先、南の小さな港町。エレノアが望んだ通りの場所を、俺たちは、ようやく見つけた。潮の匂いと、白い壁の家々と、夜になれば、あの晩に見たのと同じ、濃い星空。
……理想の場所だ。理想の場所なんだが。
「はい、そこの坊や。子どもの遊びに付き合ってる暇はないんだよ」
「坊やじゃありません。冒険者登録を、と言ってるんです。ちゃんと実力も――」
「はいはい。お使いなら、母ちゃんと来な」
これだ。
この国に来てから、痛感している。俺は、いわゆる異世界転生チート持ちだ。氣も魔法も使える。魔物討伐はドラゴンが相手でも問題なし。前世の知識から農作物の防除や虫の駆除も容易だ。井戸を掘ることも水の濾過だってできる。
だが、俺は――12歳なのだ。
どれだけ力があろうと、見た目は、ただの子ども。誰も、まともに取り合ってくれない。ギルドの登録も、家の賃貸も、素材の売買も、「子どもは引っ込んでろ」の一言で終わる。貴族の息子のときは、こんなこと言われる事もなかったんだが。
異世界転生、チート能力持ち。それでも、年齢という壁だけは、どうにもならなかった。
「――失礼。この子の、保護者です」
背後から、凛とした声。
エレノアだった。すっと前に出て、受付の男に、優雅に、しかし有無を言わさぬ気品で微笑みかける。かつての公爵令嬢の、あの立ち居振る舞いは、こんな辺境の港町でも、健在だった。
「この子は私の弟のようなもので、腕は確かです。素材の目利きも、討伐の腕も、そのへんの大人には引けを取りません。まずは、試験だけでも受けさせていただけませんか?」
男の態度が、コロッと変わる。美しい大人の女性の言葉には、耳を貸すらしい。現金なものだ。
……こうして、俺の"社会的な顔"は、たいていエレノアが務めることになった。交渉も、契約も、大人の世界とのやり取りも、全部。俺が魔物を狩り、素材を採り、道具を作り、エレノアがそれを売り、話をまとめ、暮らしを回す。
立場が、すっかり逆転していた。
出会った頃は、俺があの人を落とし穴から引っ張り上げて、守っていた。それが今や、あの人に支えられている。世話を焼かれ、頭を撫でられ、「まだ子どもなんだから無理をするな」なんて言われる始末だ。
「なにが『まだ子ども』ですか。川で魚1匹に悲鳴上げてた人でしょうが」
「あら。今の私は、あなたより上手に魚を焼けるけれど?」
「……ぐぬ」
言い返せない。悔しいが、事実、あの人はこの数ヶ月で、逞しくなった。飾られた人形だった女は、もういない。俺と並んで、2人分の暮らしを、その手で回している。
貧しくはあった。苦労も、山ほどあった。子ども扱いされて歯噛みする夜も、明日の蓄えを数えて溜息をつく夜も、あった。
だが、不思議と惨めではなかった。隣にこの人がいたから。
遠い故国の噂が風に乗って届いたのは、ある晩のことだった。
港にはいろんな国の船が来る。船乗りや行商人が、酒場で遠い異国の話をする。その中に俺たちの生まれた国の、大きな騒動の話が混じっていた。
――偽りの聖女が暴かれ、封じられたこと。
――その女に狂わされていた王子が、廃嫡されたこと。
――名門ルクレール公爵と、第二王子が、玉座を狙った反逆の罪で、断罪されたこと。
――強欲で鳴らしたゴードン伯爵が、その反乱に連座し、滅んだこと。
――そして、辺境の小さな子爵家が、たった一夜でクーデターを空から砕き、英雄として、伯爵に取り立てられたこと。
酒場の隅でその話を黙って聞いていた。
空からクーデターを砕いた。
……親父だ。俺の"鴉"を、見つけたんだ。山小屋に残した飛行魔導具を。手記の通りに、使ってのけた。政治を面倒くさがっていたはずの、飄々とした親父が。
思わず笑いがこみ上げた。目の奥が、少し、熱くなる。
狂っていた国の軸が、俺の知らないところで、たくさんの手によって、1つずつ、正されていったらしい。目立たぬ王女が、老いた王が、そして、俺の家族が。誰か1人の英雄がやったんじゃない。みんなが、少しずつ。
隣でエレノアも静かに聞いていた。
やがて行商人が、こう付け加えた。「なんでも、あの反逆の裏で、無実の罪を着せられて死んだ公爵令嬢がいたそうで。王様が、その娘の名誉を回復させたとか。可哀想にねぇ、もう死んじまってるってのに」
エレノアの手が、俺の手を、そっと握った。
握り返す。何も、言わずに。
「……よかった」
ぽつり、エレノアが呟いた。涙も見せず、ただ、穏やかに。
「お父様のことは、許せない。でも――私が、悪女じゃなかったって。それだけは、あの国に残るのね」
「ああ。残るよ。エレノア・フォン・ルクレールは、無実だった。悪女なんかじゃ、なかった」
「ええ。……でも、その人はもう死んだの。火事でね」
彼女は、俺を見て、悪戯っぽく笑った。
「ここにいるのは、ただの――あなたのエレノアよ」
酒場を出て、2人で夜の波止場を歩いた。
海の向こうに、星が降っている。あの晩、狩猟小屋の外で見上げた、あの星空と同じ星。
帰る国は、ない。戻る家も、名も、身分もない。俺たちは公には2人とも死んでいる。
だが、それでいい。
誰も俺たちを追わない。誰も俺たちを縛らない。故国の膿は、あちらの人々が自分たちの手で綺麗に洗い落としてくれた。俺たちはもう何も背負わなくていい。
あるのはこの手の温もりと、これから作っていく、ささやかな暮らしだけ。
「なあ、エレノア」
「なに?」
「苦労、かけるな。俺がもう少し大きけりゃ、楽させてやれるのに」
「ふふ。じゃあ、大きくなるまで待ってあげる。……それに」
エレノアは、俺の手を引いて、星明かりの下で笑った。
出会った頃には決して見せなかった、屈託のない、幸せそうな笑顔で。
「2人でならどんな苦労も、なんてことないわ。――生きてるだけで、こんなに幸せなんだもの」
潮風が、2人の間を、あたたかく吹き抜けていった。
どこまでも自由な、遠い空の下で。
俺たちの、新しい物語は、ここから始まる。




