第79話 スターナ編:落星
苔むした巨大な便器……当初の白い輝きは色褪せ、ここに飛び込むのを躊躇わせるには十分だった。
私たちは便器の縁に立ち、魔界へ通ずる濁った水面を見下ろす。
「これは……想像以上だねぇ……」
オルヴィエートさんが生唾を飲み込む。
「誰から行きます?」
ロザリアちゃんが恐る恐る尋ねる。
「そうね……えいっ!」
「うおっ、エマさん! 何を!」
エマさんが突然、ガスタージャさんを押し、便器の中へ落とした。
「ぎゃぁぁぁぁ! 誰か、助けてくれぇ!」
ガスタージャさんは過去のトラウマが蘇ったのか完全にパニック状態だ。
普段の威厳ある姿が、見る影もなくなっている。
――次の瞬間、突然、水が流れ出した。
「ガスタージャさん。ごめんなさい。安全確認のために……ね?」
「うわぁぁぁぁ!」
ガスタージャさんは悲鳴を上げながら濁流に呑まれていった。
「さあ! 皆さん! 行きますよ!」
エマさんが掛け声を発し、自らもガスタージャさんの後に続いた。
「えっ、えっ!?」
「きゃっほー!」
リリムちゃんも後に続く。
状況を理解する間もなく、渦巻く水流の中、皆、次々に飛び込んだ。
❇
い、息が……。
水流に呑まれ、呼吸もままならない。
たどり着いた先は円形の鉄枠で囲われた、池のような場所だった。
水は澄んでいて特に異臭などもしない。
「ここは……?」
既にみんな柵を乗り越え、荒廃した大地に足を下ろしていた。
空は曇天と紫電で埋め尽くされ、
殺風景な景色が地平線の先まで広がっている。
「ここが、魔界……ママがここにいる」
リリムちゃんが周囲を見渡す。
半年間も消息を絶っていたんだ。
ダイチたちがどうなっているか……考えたくもなかった。
大丈夫……大地はきっと生きている。
今度は私がダイチを助ける番……
どこにいても、必ず見つけ出す……。
私は自分に言い聞かせるように拳を握りしめた。
「あれ、ダイチくんじゃないか?」
決意を固めていると、ライドウくんの声が響く。
彼の視線の先……ん?
場違いな巨大な木造の屋敷――手入れの行き届いた庭先の水浴び場に捜し求めていた彼がいた。
「きゃはははは、ダイチ様、冷たいです!」
「ははは、ほら、くらえ!」
逃げるシルヴィアさんに水をかけるダイチ。
こっちの気持ちなど露知らずいちゃついていた。
「おいっ、ダイチ……」
自分の喉から出たとは思えないほどの、どす黒く低い声。
「ひっ、スターナ……落ち着くのだ……」
「リリムちゃん……邪魔しないで……」
私は二人に詰め寄った。
「ふぎゃっ!」
なに……これ……突然、見えない壁に阻まれた。
「スターナ! 助けに来てくれたのか!」
私たちに気づいたダイチがこちらに駆け寄ってくる。
「なによこれ……」
「たぶん、チャンク抜けバグだ。世界の裏側に入り込んでしまったみたいで抜け出せないんだ」
ダイチは時々意味不明な言語を話す。
何を言っているかさっぱりわからない。
「なるほどな……それで、半年もの間、抜け出せずにいたのか……」
オルヴィエートさんは納得したように頷く。
「どうすれば助けられるのでしょうか……」
シノメちゃんも口に手を当て考え込んでいる。
抜け出せないのは分かったけど……
「ダイチ……シルヴィアさんと何をしていたの?」
「あ、ああ……暇すぎて水遊びをだな…シルヴィア」
「そうです、スターナさん。別にふざけてたわけではないですよ」
薄い布地を着たシルヴィアさんが、ダイチに腕を組み胸を押し当てている。
「むほっ、シル……こんな人前で……」
なんだろう……心配していた自分がバカみたいだ。
ガンッ!
私は透明な壁を殴りつけた。
「ひっ……おい、スターナ……なんか、怒ってないか?」
「ダイチ……ママも、みんなも心配していたんだよ? なのに、あんたは……」
ガンッ、ガンッ、ガンッ。
私は言葉とともに拳を何度も打ち付けた。
ピシッ――
空間に亀裂が入る。
「ダイチくん、その調子でスターナさんをもっと怒らせるんだ!」
私の背後でライドウくんが叫ぶ。
「えっ、怒らせるったって……もう、充分怒っているだろ……」
「ダイチ様……私のここ……熱くなっている」
突然、シルヴィアさんが、ダイチの手を掴み、自身の胸に押し当てる。
「お、おい! シル、何を!」
「ダイチ……あんたってやつは……」
私の目の前で見せつけるように、いちゃついて……許さない。
拳が熱を帯びてきた。
パリンッ!
薄氷が割れるような音が響き、透明な壁が砕け散った。
「スターナ、誤解だ!」
黒い布地一枚履いているダイチが後ずさり、
地面に尻もちをついた。
「誤解? 何が?」
言葉とは裏腹に彼の指はシルヴィアさんの胸を揉みしだいていた。
「私、他の皆さんも呼んできますね……」
シルヴィアさんは私の殺気を察知してか慌てて、屋敷へ駆けていった。
「スターナ……許して……」
私はダイチの胸に飛び込んだ。
「今回ばっかりは、本当に許さないから……」
どれだけ心配したと思っているの……
ダイチの無事を何度、星に願ったか……。
分かっている。彼は悪くない。
それでも、怒りを通り越して、涙が溢れてきた。
「スターナ……ごめん……」
ダイチの手が私の頭を優しく撫でる。
「ホントだよ……ごめんじゃ済まないんだからね……」
どうせ、私は彼を許してしまう。
どうしようもなくダイチが好きなんだと……そんな自分が情けなかった。
「撫でないで!」
せめてもの反抗に、彼の手を払い除けた。




