第8話 小さすぎる変化
三浦さんと別れたあとも、俺の頭の中には、一昨日でた表示が引っかかっていた。
岩皮猿の特性を吸収しました。
筋力が上昇しました。
耐久が上昇しました。
打撃耐性が上昇しました。
魔力循環がわずかに改善されました。
石爪犬の特性を吸収しました。
敏捷がわずかに上昇しました。
爪撃耐性がわずかに上昇しました。
瞬発力がわずかに改善されました。
それぞれ、伸びたものが違う。
岩皮猿は、硬くて力が強かった。
動きは重いが、一撃が重く、打撃に強い魔物だった。
石爪犬は、軽くて速かった。
岩皮猿ほどの耐久はない代わりに、爪で素早く切り裂いてくる魔物だった。
その二体を倒した時、俺の中に入ってきたものは、それぞれの特徴に近かった。
もしこれが偶然ではないのなら。
俺の《強化》は、ただ敵を倒すほど強くなるスキルではない。
倒した魔物によって、伸びるものが違う。
そう考えると、今まで分からなかったことにも説明がつく。
第一層で灰色スライムばかり倒しても、大きな変化はなかった。
小型牙鼠を倒しても、強くなった実感はほとんどなかった。
それは、第一層の魔物が弱すぎるからではないか。
あるいは、特徴が薄すぎるからではないか。
灰色スライムを倒しても、身体が柔らかくなるわけではない。
小型牙鼠を倒しても、急に牙が生えるわけでもない。
けれど、もしかしたら、本当にわずかな変化は起きていたのかもしれない。
俺が気づけなかっただけで。
そう思うと、確かめたくなった。
ただし、第二層へ行くつもりはない。
三浦さんにも言われた。
傷が治るまでは行くな。
装備を見直せ。
一人で行くな。
その忠告を、無視するつもりはなかった。
だから、まずは第一層で試す。
第一層の魔物でも、倒す相手によって変化が違うのか。
それを、できる範囲で確認する。
三浦さんと話した翌日、俺はまた銀座ダンジョンの地上施設にいた。
受付で第一層の探索許可を確認してもらい、装備を見直す。
ナイフ。
小型の予備ナイフ。
安物の閃光玉が一つ。
応急用の包帯。
飲料水。
雷撃札はない。
昨日から何度も値段を見ているが、今の俺には簡単に買えるものではなかった。
岩皮猿の素材分配が正式に決まれば、少し余裕はできるかもしれない。
けれど、管理局の事故調査が終わるまでは保留だ。
つまり今は、いつもの安い装備でやるしかない。
受付の職員は、俺の包帯を見て眉を寄せた。
「今日も第一層だけですね」
「はい。短時間で戻ります」
「昨日も同じことを言っていましたが、今日は本当に短時間でお願いします」
「分かってます」
少し信用されていない気がする。
当然だと思う。
昨日の今日でまた潜っている時点で、職員からすれば危なっかしく見えるだろう。
俺は第一層入口の前でカメラを起動した。
配信タイトルは、少しだけ迷ってからこうした。
【第一層検証】魔物ごとの違いを確認するだけ
配信開始ボタンを押すと、すぐにコメントが流れた。
『来た』
『また検証か』
『怪我人が毎日潜るな』
『強化くんおはよう』
『第二層行くなよ』
『今日は何を試すんだ?』
同接は、開始直後で三十人を超えていた。
まだ慣れない。
昨日まで、同接三人で話していた配信に、今は見知らぬ人が何十人もいる。
俺は少しだけ息を整えてから話し始めた。
「今日は第一層で、魔物ごとの違いを確認します。昨日と同じで、危ないことはしません。第二層には行きません」
『先に言った』
『二層行かない宣言』
『えらい』
『で、魔物ごとの違いって?』
『スキル検証?』
「スキル検証というほど大げさなものじゃないです。ただ、灰色スライムと小型牙鼠で、倒した後の感覚に違いがあるのかを確認するだけです」
嘘ではない。
ただ、全部を言ってはいない。
倒した魔物の特性を吸収するかもしれない。
そこまでは言わなかった。
言ったところで証明できないし、まだ俺自身も確信できていない。
第一層に入ると、いつもの湿った空気が肌に触れた。
青白い苔が壁際に光り、通路の奥に薄い影を落としている。
昨日までなら、何も考えずに回っていた場所だ。
でも今日は、少しだけ違って見える。
この階層の魔物たちは弱い。
それは間違いない。
けれど、弱いなりに違いはある。
灰色スライムは柔らかく、核を狙えば倒せる。
小型牙鼠は速く、噛みつきが危険。
石殻虫は小さいが、殻が硬い。
それぞれに特徴がある。
その特徴が、俺に何かを残すのか。
俺は腰のポーチから、小さなメモ帳を取り出した。
『メモ帳?』
『急に真面目』
『検証配信っぽくなってきた』
『理系強化くん』
「倒した魔物と、体感を書くだけです。自分の感覚なので、あまり信用しすぎないでください」
『自己申告検証』
『でも大事』
『配信で記録残るしな』
『強化くん慎重で好き』
俺はメモ帳の一番上に、今日の日付を書いた。
その下に、三つの項目を作る。
灰色スライム。
小型牙鼠。
石殻虫。
最初に見つけたのは、灰色スライムだった。
通路の隅で、半透明の灰色の塊がゆっくり動いている。
「一体目、灰色スライムです」
俺はナイフを構えた。
焦らず、横に回る。
核の位置を確認する。
昨日よりは、やはり体が動く。
足運びに無駄が少ない。
ただ、それは岩皮猿と石爪犬を倒した後の変化であって、灰色スライムのおかげではない。
今知りたいのは、倒した後だ。
俺は核へナイフを突き込んだ。
灰色スライムが震え、すぐに崩れる。
――灰色スライムを討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
いつもの表示。
魔力が入ってくる感覚は、薄い。
温かいと言えば温かいが、岩皮猿の時のような強い熱ではない。
石爪犬の時のように、神経へ火花が走る感じもない。
俺はその場で手を握ったり開いたりした。
変化は分からない。
腕が柔らかくなった気もしないし、体が軽くなった気もしない。
魔力の流れも、特に変わった感じはなかった。
「一体目、変化は……分かりません」
『まあスライムだし』
『スライムで分かったら怖い』
『スライム特性ってなんだよ』
『ぷにぷにになる?』
『耐衝撃とか?』
『さすがに一体じゃ無理だろ』
俺はメモ帳に書く。
灰色スライム一体目。
討伐後の感覚、変化不明。
魔力吸収はかなり薄い。
それから、さらに灰色スライムを二体探して倒した。
結果は同じだった。
表示は出る。
魔力は入る。
でも、体感できるほどの変化はない。
「灰色スライム三体。今のところ、はっきりした変化はありません」
『地味』
『検証だからな』
『三体で変わったら逆に壊れスキル』
『いや壊れスキル疑惑はある』
『スライムが弱すぎる説』
スライムが弱すぎる説。
たぶん、それは正しい。
俺の《強化》が本当に魔物の特徴を吸収するのだとしても、元になる魔物が弱ければ伸びは小さい。
第一層で半年間戦っても気づけなかったのだから、一日で分かる方がおかしい。
次に、小型牙鼠を探すことにした。
灰色スライムよりは危険だ。
動きも速いし、噛まれれば怪我をする。
左腕の包帯が少しだけ重く感じる。
しばらく進むと、通路の先で低い鳴き声が聞こえた。
小型牙鼠が、壁際の亀裂から顔を出している。
「小型牙鼠です。今度は動きと反応の違いを見ます」
『無理すんなよ』
『怪我人だからな』
『牙鼠は昨日普通に倒してた』
『前より楽に処理できるか』
小型牙鼠がこちらに気づいた。
体を低くし、床を蹴る。
突進。
昨日より見える。
いや、昨日から見えていた。
石爪犬を相手にした後だと、第一層の魔物の動きはかなり追える。
俺は半歩横にずれ、牙鼠の横腹にナイフを合わせた。
浅く入る。
牙鼠が体勢を崩す。
そこへもう一歩踏み込み、首元へ刃を入れた。
――小型牙鼠を討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
魔力が流れ込む。
灰色スライムよりは、ほんの少しだけ濃い気がした。
だが、本当に少しだ。
俺は目を閉じて、自分の体を確かめた。
足。
腕。
呼吸。
視界。
反応速度。
何かが変わったような気もする。
でも、そう思いたいだけかもしれない。
「……灰色スライムよりは、少しだけ魔力が濃い気がします。ただ、体感できる変化はほとんどありません」
『気がします』
『自己申告が弱い』
『でも牙鼠の方が魔力ありそう』
『反応速度上がった?』
『いや今のは元から昨日の強化分じゃね』
『区別つかないな』
「そうですね。今動けているのが、岩皮猿と石爪犬の影響なのか、今倒した牙鼠の影響なのか、分けて考えるのが難しいです」
言いながら、自分でも整理していく。
昨日得たものが、まだ体に残っている。
だから、今日小型牙鼠を倒した後に少し動きやすくなったとしても、それが新しい変化なのか、元からの変化なのか分からない。
俺はメモ帳に書く。
小型牙鼠一体目。
魔力吸収は灰色スライムより少し濃い気がする。
反応速度の変化は不明。
倒す前から動きは見えていた。
続けて、もう一体。
今度はわざと少し距離を取って、突進のタイミングを見る。
小型牙鼠が走る。
見える。
避けられる。
ナイフも通る。
討伐後、また表示が出る。
――小型牙鼠を討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
やはり、特別な表示は出ない。
岩皮猿の時のように、特性を吸収しました、とは表示されない。
石爪犬の時のように、敏捷や爪撃耐性が上がったとも出ない。
「二体目も、特別な表示はなしです」
『特別な表示?』
『また言った』
『昨日は何か出てたのか?』
『気になる言い方するな』
『視界表示は配信に映らないからなあ』
コメント欄が反応した。
俺は少しだけ失敗したと思った。
だが、ここで黙りすぎるのも不自然だ。
「強い魔物を倒した時は、魔力吸収の感覚がかなり違いました。今日はそれがあるかを見ている感じです」
『なるほど』
『格上討伐ボーナスみたいな?』
『普通の魔力吸収でも強い敵の方が濃いんじゃね』
『強化くんのスキルが関係あるかは不明』
『だから検証か』
そう。
不明。
今のところ、全部その言葉で片づく。
灰色スライムを倒しても分からない。
小型牙鼠を倒しても分からない。
動きは良くなっているが、それは昨日の影響かもしれない。
確かめたいのに、確かめきれない。
そのもどかしさが、少しずつ胸に溜まっていった。
次に探したのは、石殻虫だった。
第一層の壁際や床の亀裂に潜む、小さな虫型魔物だ。
大きさは人の手のひらほど。
動きは遅い。
攻撃力も低い。
ただし、外殻が硬い。
灰色スライムや小型牙鼠より倒しにくく、ナイフの入れ方が悪いと刃が滑る。
「次は石殻虫を探します。硬い魔物です」
『そんなのいたな』
『地味魔物』
『素材が安いやつ』
『硬さ検証か』
『岩皮猿のミニ版?』
岩皮猿のミニ版。
コメントの一つを見て、俺は少しだけ苦笑した。
さすがに比べるのは無理がある。
岩皮猿と石殻虫では、魔物としての格が違いすぎる。
けれど、硬いという一点だけなら共通している。
もし倒した魔物の特徴によって伸び方が違うなら、石殻虫を倒した時には耐久や防御に関係する変化があるのではないか。
そう考えていた。
通路の壁際を探すと、石殻虫はすぐに見つかった。
小さな黒い塊が、青白い苔の下で動いている。
「いました。石殻虫です」
俺はしゃがみ、ナイフを構える。
石殻虫は動きが遅い。
だが、正面から刃を入れても弾かれる。
腹側の柔らかい部分を狙うか、外殻の隙間を探す必要がある。
俺はナイフの角度を調整し、外殻の継ぎ目に刃を差し込んだ。
硬い感触。
手首に少し負担がかかる。
だが、昨日までより力を入れやすい。
岩皮猿から得た筋力の影響かもしれない。
刃がわずかに入り、石殻虫の体が震えた。
さらに押し込む。
殻の内側に刃が通った。
――石殻虫を討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
俺は息を止めた。
硬い魔物。
耐久。
防御。
殻。
何か表示が続くのではないか。
しかし、視界にはそれ以上何も出なかった。
身体の奥に入ってきた魔力も、やはり薄い。
灰色スライムよりは少し濃いかもしれない。
小型牙鼠と同じくらいかもしれない。
でも、その程度だ。
腕を握っても、皮膚が硬くなった感覚はない。
打撃に強くなった感じもしない。
岩皮猿の時のような重い熱は、まったくなかった。
「……石殻虫も、はっきりした変化はありません」
『残念』
『硬いだけじゃ駄目か』
『魔物の格が低すぎるんじゃね?』
『第一層だからな』
『でも倒しやすくなってるのは分かる』
『ナイフの入り方、前より安定してない?』
俺は石殻虫の小さな素材を回収しながら、頷いた。
「倒すのは前より楽です。ただ、それが石殻虫を倒したことで変わったのか、昨日からの変化なのかは分かりません」
メモ帳に書く。
石殻虫一体目。
硬い魔物。
特別な表示なし。
耐久上昇の体感なし。
討伐自体は以前より楽。
そこから、俺はさらに第一層を回った。
灰色スライム。
小型牙鼠。
石殻虫。
同じ魔物を何体か倒し、そのたびにメモを取る。
コメント欄は、思ったよりも残っていた。
『地味だけど見てしまう』
『検証配信ってこういうものか』
『強化くん、研究者向きでは?』
『いやメモが雑』
『小型牙鼠の後、少し踏み込み早くなってない?』
『気のせいじゃね』
『石殻虫で防御上がったか殴って試そう』
『やめろ』
俺はコメントに苦笑しながら、無茶な検証は避けた。
わざと攻撃を受ける。
壁を殴って硬さを確かめる。
怪我した腕で力試しをする。
そういうことはしない。
今の俺がやるべきなのは、自分が死なない範囲で情報を集めることだ。
しばらくして、俺は安全区域の手前で足を止めた。
討伐数は、灰色スライム五体。
小型牙鼠三体。
石殻虫二体。
いつもの俺なら、十分すぎる成果だ。
体はまだ動く。
けれど、包帯の下が熱を持ち始めている。
今日はここまでだ。
「一度まとめます」
俺は壁際に腰を下ろさず、立ったままメモ帳を開いた。
「灰色スライムは、魔力吸収がかなり薄いです。体感できる変化はなし。小型牙鼠は、灰色スライムより少し濃い気がしますが、反応速度が上がったかは不明。石殻虫は硬い魔物ですが、耐久が上がった体感はありません」
『全部不明で草』
『検証失敗?』
『いや大事な結果だろ』
『第一層では変化が小さいってことか』
『強い魔物じゃないと分からない説』
『岩皮猿と石爪犬が例外だったのかも』
「そうですね。今日分かったことがあるとすれば、第一層の魔物では変化が小さすぎて、俺にはよく分からないということです」
言葉にすると、少しだけ悔しかった。
もっとはっきりした答えが欲しかった。
灰色スライムを倒したら何かが変わる。
小型牙鼠を倒したら敏捷が上がる。
石殻虫を倒したら耐久が上がる。
そんなふうに分かりやすければよかった。
だが、現実は違う。
第一層の魔物では、変化は小さすぎる。
あるのかもしれない。
ないのかもしれない。
その程度だ。
俺はメモ帳を閉じた。
「ただ、昨日の岩皮猿と石爪犬で感じた変化が、完全な気のせいだったとも思えません。今日の動きや疲れにくさは、昨日までとは違います」
『お』
『少し認めた』
『強化くんが前向きだ』
『でも二層行くなよ』
『検証するなら強い魔物必要じゃね?』
『だからって二層は早い』
「第二層には行きません。少なくとも今は」
俺はすぐに言った。
だが、その言葉のあとに、少しだけ間が空いた。
少なくとも今は。
自分で言ったその言葉が、妙に耳に残る。
コメント欄にも拾われた。
『今は、ね』
『そのうち行く気だ』
『フラグ』
『装備整えてからにしろ』
「怒られたくないので、今日は帰ります」
そう言うと、コメント欄に少し笑いが流れた。
俺は配信終了の挨拶をした。
「今日の検証はここまでです。結果としては、第一層の魔物では変化が小さすぎて分からない、という感じでした。見に来てくれてありがとうございました」
『おつ』
『地味だけど面白かった』
『次も検証?』
『無理すんな』
『第二層行くなら準備してからな』
『強化くん、ちゃんと休め』
配信を終了する。
コメント欄が消え、第一層の通路が静かになる。
俺はメモ帳をもう一度開いた。
自分の字で書かれた記録を見る。
灰色スライム。
小型牙鼠。
石殻虫。
どれも、変化は不明。
それでも、無意味ではなかった。
少なくとも、第一層の魔物では大きな変化が出ないことは分かった。
昨日の岩皮猿と石爪犬が、やはり特別だった可能性が高いことも。
魔物の強さ。
魔物の特徴。
討伐判定。
そして、俺の《強化》。
それらがどう関係しているのか、まだ分からない。
ただ、ひとつだけ考えが固まりつつあった。
倒した魔物によって、伸び方が違う。
その仮説を確かめるには、第一層だけでは足りない。
俺は第二層へ続く方向を見た。
今日は行かない。
明日も、たぶん行かない。
でも、いつかは行くことになる。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
怖さとは違う。
期待とも違う。
もっと確かめたい。
自分のスキルが何なのか、知りたい。
その気持ちが、昨日より少しだけ強くなっていた。
俺はメモ帳を閉じ、出口へ向かって歩き出した。
第一層の通路は、いつもと同じように薄暗い。
けれど、その暗さの向こうにある第二層を、俺はもう、ただの他人事だとは思えなくなっていた。 第一層の通路は、いつもと同じように薄暗い。




