第3話 最後の雷撃札
青白い雷が、札から放たれた。
音は一瞬遅れて来た。
視界が白く焼ける。
空気が弾け、髪の毛が逆立つような感覚が全身を走った。
雷撃はまっすぐ飛んだわけではない。
俺の腕が震えていたせいで、光の筋はわずかにぶれた。
狙いは岩皮猿の腹の裂傷。
けれど、その中心からは少し外れていた。
終わった。
そう思った瞬間、雷撃が岩皮猿の焦げた右肩に当たり、そこから裂けた皮膚を伝うように腹の傷口へ走った。
岩皮猿が吠えた。
それは怒りの声ではなかった。
痛みの声だった。
第二層の通路から第一層へ響くほどの咆哮が、狭い石の通路を震わせる。
俺は耳を塞ぐ余裕もなく、雷撃札を突き出した姿勢のまま固まっていた。
光が傷口に食い込む。
岩みたいな皮膚の隙間で、青白い火花が弾けた。
焦げた臭いが鼻を刺す。
岩皮猿の巨体が大きく揺れた。
だが、倒れない。
岩皮猿は片膝をつきかけながら、また踏みとどまった。
潰れていない片目が、俺を見た。
その瞬間、背中から冷たい汗が噴き出す。
「駄目、か……」
声が漏れた。
雷撃札は、もうほとんど力を失っていた。
手元で青い文字が薄れていく。
札の端が黒く焦げ、ぱき、と小さな音を立てて割れた。
俺の魔力もほとんど持っていかれている。
足に力が入らない。
今から走って逃げることも、もう難しい。
コメント欄が流れている。
『入った!』
『いや倒れてない』
『まずい』
『逃げろ逃げろ逃げろ』
『札もう終わりだぞ』
『強化くん動け!』
動けと言われても、動けなかった。
岩皮猿が、ゆっくりと腕を上げる。
その動きは鈍い。
明らかに弱っている。
だが、あの腕が振り下ろされれば、それだけで俺の体は潰れる。
血まみれの第二層探索者が、床に落ちていた短槍へ手を伸ばした。
「く、そ……!」
だが、指先が届くだけだった。
短槍を握る力すら残っていない。
俺は焦げた雷撃札を握りしめた。
もう一発はない。
岩皮猿を止められるような魔法道具もない。
ナイフはある。
けれど、あの皮膚を貫けるわけがない。
岩皮猿の腕が振り上げられる。
終わった。
今度こそ、そう思った。
その時、岩皮猿の腹の傷口が、内側から弾けた。
「――ッ!」
音にならない声を上げて、岩皮猿が仰け反る。
雷撃が遅れて内部に回ったのだと気づいたのは、数秒後だった。
焦げた傷口から黒い煙が上がり、岩皮猿の膝が折れる。
片膝。
両膝。
巨体が前のめりに崩れた。
床が揺れる。
俺は反射的に後ろへ下がろうとしたが、足がもつれて尻もちをついた。
岩皮猿の拳が、俺のすぐ目の前に落ちる。
もし倒れる方向が少し違っていたら、それだけで潰されていた。
通路に、重い沈黙が落ちた。
耳鳴りがしている。
自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
「……倒れた、のか?」
誰に聞いたのか、自分でも分からなかった。
岩皮猿は動かない。
体のあちこちから黒い煙が上がり、腹の傷口からはどろりとした血が流れている。
それでも、俺はまだ信じられなかった。
魔物はしぶとい。
倒れたと思って近づいた探索者が反撃を受ける事故は、講習でも何度も見せられた。
俺は震える手でナイフを握った。
近づくべきか。
離れるべきか。
考えがまとまらない。
その時、視界の端に文字が浮かんだ。
――岩皮猿を討伐しました。
――魔力を吸収します。
見間違いではない。
討伐。
その二文字を見た瞬間、全身から力が抜けそうになった。
「入った……討伐判定……」
かすれた声で呟く。
コメント欄が一気に流れた。
『討伐入った!?』
『倒した?』
『マジ?』
『今の強化くんの討伐判定?』
『二層の兄ちゃんじゃなくて?』
『雷撃札でトドメ入ったのか』
『うそだろ』
俺は答えようとして、言葉を失った。
身体の奥に、熱が落ちてきた。
最初は、いつもの魔力吸収だと思った。
灰色スライムを倒した時。
小型牙鼠を倒した時。
あの時と同じように、体のどこかに薄い温かさが流れ込んでくるのだろうと。
だが、違った。
熱い。
比べものにならない。
胸の奥に火種を押し込まれたような感覚だった。
それが血管を通って全身へ広がっていく。
「ぐ、あ……っ」
息が詰まる。
俺は床に手をついた。
指先が震える。
腕の筋肉が勝手に収縮する。
骨の内側に、熱い針を通されているようだった。
痛い。
だが、ただの痛みではない。
身体の奥にある空っぽの器へ、強引に何かを注ぎ込まれている。
そんな感覚だった。
視界に、さらに文字が浮かぶ。
――スキル《強化》が発動しました。
「……発動?」
それは、今までも見たことがある表示だった。
小型牙鼠を倒した時にも出た。
灰色スライムを何体も倒した時にも、毎回出ていた。
けれど、その後は何も起きなかった。
いや、何かは起きていたのかもしれない。
でも、俺には分からなかった。
体力が少し増えたような気がする。
腕の痛みが少し引いた気がする。
その程度だった。
しかし今回は違った。
表示が続いた。
――岩皮猿の特性を吸収しました。
――筋力が上昇しました。
――耐久が上昇しました。
――打撃耐性が上昇しました。
――魔力循環がわずかに改善されました。
俺は、しばらくその文字を見つめていた。
意味が分からなかった。
岩皮猿の特性を吸収しました。
そんな表示は、今まで一度も出たことがない。
筋力。
耐久。
打撃耐性。
魔力循環。
まるで、倒した魔物の特徴がそのまま自分の体に入ってきたみたいだった。
「なんだよ……これ」
声が震えた。
外れスキル。
半年間、そう思っていた。
周りにもそう言われてきた。
敵を倒すほど強くなる。
そんなのは全員そうだ。
魔物を倒せば、誰でも魔力を吸収して成長する。
だから《強化》は実質スキルなし。
表示が分かりやすいだけの、外れ。
俺自身、そう納得しようとしていた。
けれど、今見えている文字は違う。
普通の魔力吸収ではない。
ただ経験を積んだだけでもない。
岩皮猿の特性。
もし、この表示の通りなら。
俺の《強化》は、倒した魔物の特徴を吸収している。
胸の奥に残っていた熱が、少しずつ落ち着いていく。
代わりに、体が妙に重く、同時に軽く感じた。
矛盾している。
でも、そうとしか言えなかった。
腕に力を入れる。
床についた手が、さっきより強く体を支えた。
握ったナイフの柄が、やけに小さく感じる。
足に力を込めて立ち上がろうとすると、いつもより簡単に腰が浮いた。
「……立てる」
さっきまで、魔力を吸われて膝が抜けそうだった。
雷撃札を使った反動で、まともに動けないと思っていた。
なのに、立てる。
疲労はある。
恐怖もある。
手の震えも止まっていない。
それでも、身体の芯が前より太くなったような感覚があった。
第二層探索者の男が、床に座り込んだまま俺を見上げていた。
彼の顔には、安堵よりも心配が浮かんでいる。
「大丈夫か?」
「俺にも、分かりません」
本当に分からなかった。
分かったことがあるとすれば、たったひとつ。
俺のスキルは、俺が思っていたものとは違うかもしれない。
男は荒い息をつきながら、倒れた岩皮猿へ視線を向けた。
「討伐判定は?」
「……俺に入りました」
「そうか。なら、助かったのは俺の方だな」
「いや、でも、あなたがほとんど削ってくれていたからで……」
「それでも最後に倒したのはお前だ。俺はもう一発も入れられなかった」
男は悔しそうに息を吐いた。
だが、その声に俺を責める響きはなかった。
「助かった。正直、死ぬと思った」
その言葉に、俺はどう返せばいいのか分からなかった。
俺だって死ぬと思った。
今でも、足元がふわふわしている。
生きている実感より、まだ恐怖の余韻の方が強い。
コメント欄は、さっきから止まらない。
『討伐判定、強化くんか』
『二層魔物の討伐ログ入ったってこと?』
『横取りとか言うなよ、今のは助けただろ』
『いやでもトドメだけだぞ』
『雷撃札で倒しただけ』
『でも一層配信者が岩皮猿討伐は草』
『草じゃない、普通に事故』
『管理局まだ?』
横取り。
その文字が目に入った瞬間、胸の奥が冷えた。
そう見えるのかもしれない。
実際、俺は岩皮猿を最初から倒したわけではない。
第二層探索者が追い詰め、傷だらけにしていた相手に、最後の一撃を入れただけだ。
だから、俺が倒したと言っていいのかは分からない。
ただ、視界の表示は俺に討伐を告げた。
それがこの世界の判定だ。
俺は焦げた雷撃札の残骸を見下ろした。
札は、手の中で黒い灰になって崩れかけていた。
数週間分の稼ぎが、今ので消えた。
けれど、その代わりに俺の中へ何かが入った。
岩皮猿の力。
岩皮猿の硬さ。
岩皮猿の打撃への強さ。
まだ、それを信じ切ることはできない。
でも、確かに身体が違う。
俺はゆっくり息を吸った。
胸が深く膨らむ。
魔力の流れが、今までより少しだけ滑らかに感じる。
魔力循環がわずかに改善されました。
あの表示が、頭の中で繰り返される。
探索者は、スキルで将来性を見られる。
火魔法なら火魔法使い。
回復なら支援職。
身体強化なら前衛。
索敵ならパーティーの目。
では、《強化》は何だったのか。
敵を倒すほど強くなる。
みんなが笑ったその説明は、もしかすると、あまりにも雑すぎただけなのかもしれない。
倒した敵の特徴ごと、強くなる。
もしそうなら。
もし本当にそうなら。
俺は、この半年間、第一層の弱い魔物ばかり倒していたから気づけなかっただけなのか。
灰色スライム。
小型牙鼠。
弱く、軽く、特徴も薄い魔物たち。
それをいくら倒しても、大きな変化がなかったのは当然だったのかもしれない。
岩皮猿のように、明確な特徴を持つ格上の魔物を倒した時にこそ、《強化》ははっきり働く。
そこまで考えて、俺は首を振った。
まだ決めつけるのは早い。
たった一度だ。
しかも相手は瀕死で、雷撃札を使った。
普通なら、これで自分のスキルが特別だと騒ぐ方がおかしい。
だけど。
胸の奥に残る熱が、まだ消えていなかった。
「朝倉……だったか?」
男が俺の配信画面を見て言った。
画面の端に、俺の名前が表示されている。
特に珍しい名前でもない。
「あ、はい。朝倉蓮司です」
「俺は三浦。三浦拓斗。二層で配信してる。今日は……だいぶ格好悪いところ見られたな」
「そんなことないです。俺だったら、そもそも二層で戦えません」
「そうかもしれないが、助けられたのは俺だ」
三浦さんはそう言って、無理に笑おうとした。
だが、すぐに顔をしかめる。
「管理局が来るまで、動かない方がいいですね」
「ああ。できればそうしたい。お前も無理に動くな。さっきの雷撃札で魔力をだいぶ持っていかれただろ」
「そのはずなんですけど……」
俺は自分の手を見た。
疲れている。
間違いなく疲れている。
それなのに、さっきより体が動く。
その異常さが、自分でも怖かった。
三浦さんもそれに気づいたのか、目を細めた。
「……お前、本当に一層の探索者なんだよな?」
「はい。今日もスライムと牙鼠に苦戦してました」
「冗談に聞こえないのが嫌だな」
「冗談じゃないので」
そう返すと、三浦は小さく笑った。
その笑い声には力がなかったが、少しだけ空気が緩んだ。
通路には、まだ岩皮猿の死骸が横たわっている。
崩れた瓦礫。
焦げた臭い。
血の匂い。
そして、騒がしいコメント欄。
現実味がない。
さっきまで、俺は第一層で日銭を拾っていた。
灰色スライムの魔石を昼飯代と言っていた。
牙鼠に手間取り、コメント欄に笑われていた。
その数分後に、第二層の魔物を討伐したことになっている。
配信はまだ続いていた。
切るべきなのかもしれない。
だが、探索中の記録公開義務がある以上、こういう事故の時ほど映像は残した方がいい。
それに、俺はまだ頭が回っていなかった。
『同接増えてるぞ』
『え、ほんとだ』
『誰か切り抜いた?』
『二層魔物が一層に上がってきたってマジ?』
『今来た、何があった?』
『強化くんが岩皮猿倒した』
同接。
その文字を見て、俺は画面の数字に目を向けた。
三人ではなかった。
十二人。
いつの間にか、増えていた。
普段なら喜ぶ数字だ。
けれど今は、何も感じなかった。
いや、少し怖かった。
今の映像が、誰かに見られている。
切り抜かれるかもしれない。
横取りだと言われるかもしれない。
雷撃札でトドメを刺しただけだと笑われるかもしれない。
それでも、俺の中に入った熱は消えない。
俺は倒れた岩皮猿を見た。
岩皮猿の死骸は、少しずつ輪郭を崩し始めていた。
魔物は討伐されると、一定時間で崩れ、魔石や素材を残す。
その素材は買取対象になるが、今は拾う気になれなかった。
三浦さんが肩で息をしながら言う。
「素材は……後で管理局に任せよう。俺の配信にも映ってる。分配はいい。全部そっちで受け取ってくれ」
「分配とか、別に」
「後で揉める。こういうのは、最初に言っておいた方がいい」
その冷静さに、少し驚いた。
さすがに探索者の先輩だ。
追い詰められていても、そういうところは分かっている。
「分かりました」
俺は頷いた。
その時だった。
階段の奥から、かすかな音が聞こえた。
かつん。
小さな爪が、石の床を叩くような音。
俺は顔を上げた。
三浦の表情が、一瞬で変わった。
「……まずい」
「え?」
「岩皮猿だけじゃなかった」
かつん。
かつん。
音は近づいてくる。
岩皮猿の重い足音とは違う。
軽く、速く、嫌に規則的な足音。
コメント欄がまた騒ぎ出した。
『音した?』
『まだ何かいる?』
『救助まだ?』
『これやばくない?』
『強化くん、札もうないぞ』
俺は空になったポーチに触れた。
雷撃札はもうない。
通路の後ろには瓦礫。
三浦は魔力切れ。
俺は、今しがた岩皮猿を倒したばかり。
階段の暗がりの奥で、何かの目が光った。
低い唸り声が聞こえる。
俺はナイフを握り直した。
指はまだ震えている。
怖い。
逃げたい。
けれど、身体の奥に残る熱が、さっきとは違う力で俺を立たせていた。
かつん。
最後の足音が、階段の出口で止まった。




