第2話 逃げてきた男
逃げろ。
そう言われて、すぐに動ける人間はどれくらいいるのだろう。
少なくとも、その時の俺は動けなかった。
目の前には、血まみれの第二層探索者。
背後には、第一層の薄暗い通路。
そして階段の奥からは、ずん、ずん、と重い足音が近づいてくる。
体が固まっていた。
逃げなければならない。
それは分かっている。
俺は第一層探索者だ。
第二層に降りたことすらない。
第一層の灰色スライムや小型牙鼠にすら手間取るような人間が、第二層の魔物とまともに向き合えるはずがない。
なのに、足が床に貼りついたように動かなかった。
「何してる、早く下がれ!」
血まみれの男が叫んだ。
その声で、ようやく息を吸えた。
「っ、はい!」
俺は一歩下がる。
その瞬間、階段の暗がりから、大きな腕が現れた。
岩みたいな皮膚だった。
いや、岩に似ているだけじゃない。
皮膚の表面に、石の板を無理やり貼りつけたような凹凸がある。
指は太く、爪は短い。
腕だけで、俺の胴体くらいの太さがあった。
次に、肩。
それから、猿に似た顔。
第二層の魔物――岩皮猿。
名前だけは知っていた。
第二層では一般的な魔物。
硬い皮膚と強い腕力を持つ。
動きは遅いが、一撃が重い。
第二層に慣れた探索者なら、距離を取りながら傷を重ねて倒す。
そんな説明を、講習動画で見たことがある。
だが、画面越しに見るのと、目の前にいるのとではまるで違った。
大きい。
それが、最初に浮かんだ感想だった。
講習動画の岩皮猿は、せいぜい大きめの獣に見えた。
けれど、今、階段から這い上がってくるそれは、通路を塞ぐ壁のようだった。
岩皮猿は傷だらけだった。
腹には深い裂傷。
右肩は焦げ、片目は潰れている。
左の脚も少し引きずっている。
まともな状態ではない。
それでも、俺の全身が理解していた。
勝てない。
瀕死だろうが、弱っていようが、第一層の俺が正面から戦っていい相手ではない。
配信画面のコメント欄が、一瞬遅れて動き出す。
『岩皮猿?』
『二層のやつじゃん』
『なんで一層にいる?』
『逃げろ』
『強化くん逃げろ』
『これマジでやばいやつ』
いつもはほとんど動かないコメント欄が、今だけは妙に速かった。
たぶん俺の呼吸が乱れて、視界が狭くなっているせいだ。
俺は後ろを見た。
戻る道はある。
今なら、まだ逃げられるかもしれない。
そう思った瞬間、岩皮猿が腕を振った。
狙いは俺ではなかった。
壁だった。
ごう、と風が鳴る。
岩みたいな拳が通路の側面を叩きつけ、石壁が砕けた。
破片が散る。
「伏せろ!」
男の声に反応して、俺は頭を抱えて身を低くした。
頬に小さな痛みが走る。
石片がかすめたのだと気づいたのは、少し後だった。
轟音。
崩れた壁の一部が、俺たちの後ろの通路に落ちる。
完全に塞がったわけではない。
けれど、人がすぐ通れる幅ではなくなっていた。
俺は喉を鳴らした。
逃げ道が、狭まった。
岩皮猿が、低く唸った。
ただ暴れているだけじゃない。
俺たちを逃がさないように、通路を壊したのか。
そんな考えが頭をよぎり、背筋が冷たくなった。
「くそ……上がってくるなよ、普通……」
男が短槍を支えにして立っていた。
だが、腕も脚も震えている。
明らかに限界だった。
「大丈夫ですか?」
「見ての通り、大丈夫じゃない。魔力が空だ。足も、たぶんやってる」
言いながら、男は岩皮猿から目を離さない。
俺よりよほど慣れている。
恐怖で顔は歪んでいるが、それでも完全には崩れていない。
第二層の探索者。
名前は知らない。
大手でも有名人でもないだろう。
だが、俺から見れば明らかな格上だった。
そんな相手が、ここまで追い詰められている。
「何があったんですか」
「二層で配信してた。普通に岩皮猿を狩る予定だったんだよ。いつも通りなら倒せた。こいつ一体だけならな」
男は苦い顔で言った。
「でも途中で石爪犬が横から入ってきた。そっちを先に処理するしかなくて、魔力を使いすぎた。岩皮猿にもだいぶ入れたが、倒しきれなかった。撤退しようとしたら、こいつがしつこく追ってきやがった」
石爪犬。
その名前にも聞き覚えがあった。
第二層の魔物。
岩皮猿よりは弱いが、第一層の魔物よりずっと速い。
硬い爪で切り裂いてくる犬型の魔物。
つまり、二体を相手にしたのか。
俺なら、最初の一体で終わっている。
岩皮猿が一歩進んだ。
ずん、と床が揺れる。
俺は反射的にナイフを構えた。
安物の探索者ナイフ。
第一層のスライムや牙鼠を相手にするには十分。
だが、目の前の岩皮猿の皮膚に通るとは思えなかった。
男が横目で俺のナイフを見る。
「それじゃ無理だ。皮に弾かれる」
「……ですよね」
「逃げ道を開けるしかない。俺が一瞬引きつけるから、お前は後ろの瓦礫をどかせ」
「あなたは?」
「この状態で長くは持たない。だから一瞬だけだ」
無茶だ。
男の顔色は紙みたいに白い。
足も震えている。
短槍を握る手には力が入っていない。
そんな状態で岩皮猿を引きつけるなんて、できるはずがない。
だが、俺に代案はなかった。
コメント欄が流れる。
『管理局に通報した?』
『自動通報入ってるはず』
『逃げ道塞がってる』
『瓦礫どかせ』
『いや間に合わんだろ』
『二層の兄ちゃん無理すんな』
通報は、おそらく配信システムから自動で飛んでいる。
危険度の高い魔物が映れば、管理局に通知が行く仕組みだ。
だが、救助がすぐ来るとは限らない。
ダンジョン内では距離感が狂う。
同じ第一層でも、場所によって到着まで時間がかかる。
それまで耐えられるか。
岩皮猿が、再び腕を持ち上げた。
「来るぞ!」
男が前に出る。
短槍の先に、かすかな光が灯った。
残っている魔力を絞り出しているのだろう。
その光は弱く、今にも消えそうだった。
岩皮猿の腕が振り下ろされる。
男は横に転がるように避け、槍を岩皮猿の脇腹へ突き込んだ。
金属が岩を擦るような音。
槍はわずかに刺さった。
だが、深くは入らない。
「くそっ……!」
岩皮猿の反撃が来る。
男は避けきれなかった。
太い腕が、男の肩をかすめる。
それだけで、男の体が吹き飛んだ。
「ぐあっ!」
「大丈夫ですか!」
「こっちを見るな! 瓦礫をどかせ!」
怒鳴られて、俺は我に返った。
そうだ。
俺がすべきことは戦うことじゃない。
俺は背後の瓦礫に駆け寄った。
崩れた石を両手で掴み、必死に引っ張る。
重い。
一つ一つは持てないほどではない。
けれど、積み重なっているせいで簡単には動かない。
「くそ、動け、動けよ……!」
指先に力を込める。
爪の間に砂が入り、手のひらの皮が擦れる。
それでも、瓦礫はほとんど動かなかった。
俺の力では遅すぎる。
背後で、岩皮猿が吠えた。
振り返ると、男が膝をついていた。
短槍は床に落ちている。
肩の防具が完全に砕け、口元から血が垂れていた。
岩皮猿も無事ではない。
さっきの槍が入ったのか、脇腹の傷が広がっている。
腹の裂傷からは黒っぽい血が流れ、片膝がわずかに落ちていた。
瀕死。
その言葉が頭に浮かぶ。
だが、まだ立っている。
まだ俺たちを殺せる。
男は震える手で短槍を拾おうとした。
だが、指がうまく動いていない。
「あと……少しなんだよ」
男が呻くように言った。
「あと一発、入れば倒せる。倒せるはずだった。なのに、魔力が……」
あと一発。
その言葉が、耳に残った。
俺は腰のポーチに触れた。
そこには、一枚の札が入っている。
《雷撃札》。
低ランク探索者向けの使い捨て魔法道具。
魔力を流すと、一度だけ雷撃を放つ。
本来は、魔物を足止めするためのものだ。
第一層で囲まれた時。
逃げる時間を作るため。
そのために買った。
値段は高かった。
俺にとっては、数週間分の稼ぎを使って買った最後の保険だ。
買った日は、帰り道で何度も後悔した。
でも、命を守るためだと思って無理に納得した。
それを、今使うのか。
岩皮猿を倒すために。
いや、そもそも倒せるのか。
雷撃札は便利だが、強力な武器ではない。
第二層の魔物を一撃で倒せるような代物なら、俺なんかが買える値段では売られていない。
でも、目の前の岩皮猿は傷だらけだ。
あと一発。
男はそう言った。
コメント欄が、俺の迷いを見透かしたように流れた。
『札ある?』
『雷撃札か?』
『足止めにはなる』
『でも倒せるか?』
『傷口に入ればワンチャン』
『使え』
『いや高いやつだぞ』
『命より高いものはないだろ』
命より高いものはない。
それは、正しい。
正しいのに、俺の指は震えていた。
これを使えば、数週間分の稼ぎを注ぎ込んだ最後の保険が消える。
明日からの探索で使える切り札もなくなる。
買い直せば、装備の補修も今月の生活費もさらに厳しくなる。
そんなことを考えてしまう自分が、ひどく情けなかった。
目の前では人が倒れている。
魔物が迫っている。
自分も死ぬかもしれない。
それなのに、頭の片隅で金の計算をしている。
俺は歯を食いしばった。
そんな計算をしている場合じゃない。
岩皮猿が男へ近づく。
男は動けない。
俺はポーチから雷撃札を引き抜いた。
札は薄い金属板のような質感で、表面に青い文字が刻まれている。
魔法技術で作られた量産品。
俺のような低ランク探索者でも扱える、数少ない護身用道具。
使い方は講習で習った。
魔力を流す。
狙う。
起動句を唱える。
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、指がうまく動かない。
「おい、……何をしてる」
男が俺を見た。
「雷撃札です。これなら、もしかしたら」
「馬鹿、距離が近すぎる。外したら終わるぞ」
「ぎりぎりで撃ちます」
自分で言って、喉が乾いた。
岩皮猿がこちらを向く。
潰れていない片目が、濁った怒りでぎらついている。
たぶん、俺が何かをしようとしていると分かったのだろう。
岩皮猿の足が床を踏みしめる。
来る。
俺は雷撃札を握り、魔力を流した。
途端に、体の奥から何かを引き抜かれる感覚がした。
魔力だ。
普段、灰色スライムを倒した時に入ってくる薄い温かさ。
その逆。
体の中にあるものを、札が強引に吸っていく。
札の文字が青白く光った。
視界の端に、文字が浮かぶ。
――魔法道具《雷撃札》を起動します。
その表示を見た瞬間、不思議と腹が決まった。
この文字が見えるようになった日、俺は探索者になった。
外れスキルだと言われても、底辺だと笑われても、ここで日銭を稼いできた。
その半年が、何の意味もなかったとは思いたくない。
岩皮猿が踏み込んだ。
床が揺れる。
俺は札を構えた。
狙うのは、腹の裂傷。
男がつけた、いちばん深い傷。
そこに入らなければ、たぶん倒せない。
腕が震える。
視界も揺れる。
コメント欄が何か叫んでいるが、もう読めない。
岩皮猿の拳が持ち上がる。
俺は息を止めた。
「撃て!」
青白い雷が、札から放たれた。




