第1話 同接三人の《強化》配信者
世界に最初の穴が開いた日を、人類は今でも忘れていない。
それは火山の噴火でも、地盤沈下でも、隕石の落下でもなかった。
ある日、前触れもなく、世界の七か所に巨大な穴が現れた。
アメリカ。
ブラジル。
日本。
中国。
ドイツ。
南アフリカ共和国。
そして、アラブ首長国連邦。
それぞれの国、たった一つずつ。
まるで地球そのものに、黒い傷口が開いたようだった。
穴の底は見えなかった。
どれだけ照明を落としても、どれだけ測定器を沈めても、奥に続く闇があるだけだった。
人類がそれを「ダンジョン」と呼ぶようになるまで、そう時間はかからなかった。
だが、最初の頃、その言葉には今のような娯楽の響きなどなかった。
穴から魔物が出てきたからだ。
獣のようなもの。
昆虫のようなもの。
骨だけで動くもの。
炎を吐くもの。
銃弾を弾くもの。
現代兵器で倒せる個体もいた。
けれど、すべてがそうではなかった。
最初の数か月、人類は大きな被害を受けた。
都市機能は止まり、避難区域が広がり、いくつもの国で軍が出動した。
日本でも例外ではない。
日本に現れた唯一のダンジョンは、東京のど真ん中、銀座に開いた。
華やかな街の中心に巨大な穴が生まれ、そこから魔物が這い出してきた。
周辺一帯は封鎖され、避難が遅れた地域では多くの犠牲が出た。
だが、人類はただ押され続けていたわけではない。
魔物を倒した者の中に、異常な変化を起こす者が現れ始めた。
身体が強くなる。
傷の治りが早くなる。
魔力を感じ取れるようになる。
炎や雷を生み出せるようになる。
そして、最初の一体を倒した者は、必ずひとつのスキルを手に入れることが分かった。
その瞬間から、彼らの視界には文字が見えるようになる。
誰が作ったものなのか。
何の仕組みで表示されているのか。
脳に直接情報を送っているのか、それとも魔力そのものに干渉しているのか。
今でも、はっきりしたことは分かっていない。
ただ、探索者たちはそれを当たり前のように使っている。
魔物を倒した時。
魔力を吸収した時。
スキルを獲得した時。
あるいは、スキルが発動した時。
視界の端に、短い文字が浮かぶ。
未知の技術。
あるいは、ダンジョンが人間に与えた謎の仕組み。
それがなければ、人類はここまで早くダンジョンに適応できなかっただろう。
スキルには、いろいろな種類がある。
火魔法。
雷魔法。
回復。
索敵。
身体強化。
剣術補正。
毒耐性。
隠密。
結界。
空間収納。
魔物を倒せば、誰でも魔力を吸収して少しずつ成長する。
けれど、最初に手に入れたスキルによって、その者がどんな探索者になるのかは、おおよそ見えてしまう。
攻撃向きのスキルなら、前衛や魔法火力として期待される。
回復や防御なら、パーティー需要が高い。
索敵や罠感知なら、深い階層で重宝される。
派手な魔法系なら、配信映えもする。
逆に、使い道の分からないスキルを得た者は、その時点で将来性に線を引かれる。
ダンジョン時代が始まって十年以上。
世界は完全に元通りになったわけではない。
けれど、七つの巨大ダンジョンの周囲には管理施設が築かれ、穴から溢れた魔物はどうにか押し返された。
日本でも、銀座ダンジョンの周辺は巨大な封鎖区画となり、その外側には探索者協会、管理局、素材買取施設、配信者用の受付設備が建ち並んでいる。
破壊された街も、少しずつ復興した。
人々はまだダンジョンを恐れている。
それでも、かつてのように一方的に怯える時代は終わった。
そして、落ち着きを取り戻した人間は、やがて恐怖さえも娯楽に変えた。
ダンジョン配信。
最初は監視のためだった。
ダンジョンの中では、外の法律や警察の力が十分には届かない。
さらに、民間人が探索者として潜る以上、不正や犯罪、救助放棄、素材の横領を防ぐ必要があった。
だから探索者には、探索中の行動記録を公開する義務が課された。
最初はただの記録映像だった。
だが、やがてそれをリアルタイムで配信する者が現れた。
魔物との戦闘。
未知の階層。
スキルの実演。
命懸けの攻略。
そして、探索者同士の競争。
人々はそれに熱狂した。
今ではダンジョン配信は一大産業だ。
人気配信者は芸能人より稼ぐ。
高階層探索者は国から表彰される。
企業は装備を提供し、配信事務所は新人を囲い込み、視聴者は毎日のように誰かの攻略を追いかける。
日本唯一のダンジョン、通称・銀座ダンジョン。
人類最高到達層は、現在七十八層。
六十層から七十層を探索する者たちは、上位探索者、あるいはトップ配信者と呼ばれる。
二十層から四十層に潜る者で、ようやく中堅。
十層を越えれば駆け出し卒業。
五層を越えれば初心者卒業。
そして、第一層。
そこは、探索者になったばかりの者が日銭を稼ぐ場所だ。
銀座ダンジョン第一層。
薄暗い石造りの通路に、俺の声が情けなく響いた。
「はい、というわけで今日も一層を回っていきます。えー、昨日よりは少し奥まで行けたらいいかなと思ってます」
返事はない。
いや、厳密には画面の右端にコメント欄は表示されている。
だが、流れない。
同接三人。
そのうち一人はたぶん自分の確認用端末で、もう一人は毎回来てくれる常連の「石ころ」さん。最後の一人は、たぶん暇つぶしに迷い込んだ誰かだ。
俺――朝倉蓮司は、配信用の小型カメラを肩に固定し、安物の探索者ナイフを握り直した。
年齢は十九。
探索者歴は半年。
到達階層は第一層。
配信者としての登録者数は、今日の朝時点で二百八十一人。
ダンジョン配信者を名乗るには、あまりにも寂しい数字だった。
コメント欄がひとつ動いた。
『今日も一層?』
「今日も一層です。まあ、無理して死んだら終わりなんで」
『強化くん慎重で草』
強化くん。
俺はその呼び方に、もう反応しなくなっていた。
俺が最初に魔物を倒したのは、半年前の探索者講習の実地試験だった。
相手は第一層に出る小型の魔物、灰色スライム。
弱い。遅い。核を割れば倒せる。
それでも、初めて魔物と向かい合った時、俺は膝が震えていた。
どうにか倒した瞬間、視界に文字が浮かんだ。
――スキルを獲得しました。
――《強化》
――敵を倒すほど強くなる。
その文字は、カメラにも映らない。
他人にも見えない。
けれど、俺の視界には確かに表示されていた。
探索者になった者なら、誰でも一度は見る文字だ。
そして、その後も魔物を倒せば、討伐や魔力吸収の表示が視界に浮かぶようになる。
最初は感動した。
自分も探索者になったのだと思えた。
スキル名だけなら悪くない。
強化。分かりやすい。探索者向きにも聞こえる。
けれど、鑑定担当の職員は申し訳なさそうに言った。
「……朝倉さん。これは、かなり評価が難しいスキルですね」
その時点で、なんとなく察した。
この世界では、魔物を倒せば誰でも強くなる。
魔力を吸収し、肉体も魔力量も少しずつ成長する。
つまり、俺のスキル説明は、探索者なら全員に当てはまる当たり前のことを書いているだけだった。
敵を倒すほど強くなる。
そんなの、みんなそうだ。
しかも半年、第一層で魔物を倒し続けても、俺は目に見えて強くならなかった。
多少は体力がついた。
多少はナイフの扱いに慣れた。
多少は魔物を前にしても固まらなくなった。
でも、それは普通の探索者の成長と変わらない。
いや、むしろ遅いくらいだった。
火魔法を得た同期は、今では第三層で配信している。
身体強化を得た知り合いは、第五層ボスに挑む準備をしているらしい。
回復スキルを得た女子は、すでにパーティーの固定メンバーになっている。
俺は今も第一層で、灰色スライムと小型牙鼠を相手にしている。
『敵を倒すほど強くなるって、それ全員そうで草』
新しいコメントが流れた。
初見の名前だった。
「まあ、そうですね。俺もそう思います」
『自分で言うなよw』
「いや、事実なんで。盛ってもしょうがないですし」
俺は苦笑いしながら通路を進んだ。
足元には、ところどころ青白い苔が生えている。
壁は石のようでいて、地上の石材とは違う。削って持ち帰ろうとした探索者もいたらしいが、地上に出すと数時間で崩れて砂になる。
ダンジョンは、いまだに分からないことだらけだ。
ただ、第一層に関してはだいぶ安全管理が進んでいる。
通路には最低限の案内標識が設置されているし、危険区域には警告板もある。
もちろん、魔物が出る以上、安全とは言い切れない。だが、探索者登録をしたばかりの新人が最初に潜る階層としては、十分に整備されていた。
だからこそ、配信としては退屈だ。
上位配信者のように、巨大な竜と戦うわけではない。
中堅配信者のように、属性魔法を撃ち合うわけでもない。
第一層で起きることなんて、せいぜい小型魔物を倒して魔石を拾うくらいだ。
通路の角を曲がると、ぬめりのある灰色の塊が床を這っていた。
灰色スライム。
第一層で最も弱い魔物のひとつだ。
「いました。灰色スライムですね。今日一体目です」
『きたー』
『いつもの』
コメント欄に、常連の石ころさんが反応してくれた。
俺はナイフを構え、灰色スライムとの距離を測る。
スライムは弱い。
だが、油断すると足に絡みついてくる。
動けなくなったところを、別の魔物に襲われる事故も過去にはあった。
だから、基本通りに倒す。
横に回り、核の位置を確認する。
透明に近い体の奥に、小さな濁った石のようなものがある。
そこを狙って、ナイフを突き入れた。
ぶよ、と嫌な感触が手に返る。
スライムの体が震え、次の瞬間、どろりと形を失った。
視界の端に小さな表示が出る。
――灰色スライムを討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
身体の奥に、ごく薄い温かさが流れ込む。
これが魔力吸収だ。
最初の頃は、視界に文字が出るたびに胸が高鳴った。
自分もこの世界の裏側に触れているのだと思えた。
けれど今では、入浴剤を入れた湯に指先だけ浸したような、頼りない感覚でしかない。
俺はスライムの残した小さな魔石を拾い上げた。
「魔石、回収します。今日の昼飯代その一ですね」
『悲しい』
『もっと夢見せて』
『強化くんの配信、生活感ありすぎる』
「夢は上の階層の人たちに任せます。俺はまず家賃です」
そう言うと、コメント欄に小さく「草」と流れた。
笑われているのか、笑ってくれているのかは分からない。
でも、無反応よりはずっといい。
第一層の魔石は安い。
灰色スライム一体で取れる魔石など、コンビニのおにぎり一個にも届かないことがある。
それでも、数を集めれば食費になる。
素材も売れば、安い装備の補修費くらいにはなる。
配信収益はまだ期待できない。
だから俺は、探索者というより、ダンジョンで日銭を拾っているだけの人間だった。
次に現れたのは、小型牙鼠だった。
犬ほどの大きさの鼠型魔物。
前歯が鋭く、噛まれると普通に肉が裂ける。
俺は少し距離を取り、腰のポーチから安い閃光玉を取り出した。
『牙鼠にアイテム使うの?』
『赤字では?』
「噛まれて治療費払う方が赤字です」
閃光玉を床に叩きつける。
白い光が弾けた瞬間、小型牙鼠の動きが止まった。
俺はその隙に踏み込み、首元を狙ってナイフを振る。
一撃では浅い。
牙鼠が暴れ、俺の腕をかすめた。
「っ……!」
痛みが走る。
防刃ジャケットの上からでも衝撃はある。
俺は一歩下がり、もう一度踏み込んだ。
今度は体重を乗せて、ナイフを突き込む。
牙鼠が甲高い声を上げ、床に倒れた。
――小型牙鼠を討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
また、薄い温かさ。
けれど、何が強くなったのかは分からない。
視界の文字も、それ以上は何も教えてくれなかった。
腕の痛みが少し引いた気がした。
気のせいかもしれない。
「二体目。ちょっと手間取りました」
『今の危なかったな』
『一層でこれだと二層無理じゃね?』
『強化くん、今日も平均以下』
平均以下。
その言葉は、たぶん正しい。
探索者はスキルで将来性を見られる。
もちろん努力で覆せる部分もある。
けれど、同じ努力をするなら、良いスキルを持つ者の方が伸びる。
火魔法持ちは火魔法を鍛えればいい。
身体強化持ちは前衛として伸びればいい。
回復持ちはパーティーに入れば経験を積める。
俺の《強化》は、何を鍛えればいいのか分からない。
敵を倒せば強くなる。
だから敵を倒している。
でも、誰でもそうなのだ。
自分のスキルが何をしているのか、俺には半年経っても分からなかった。
通路の奥から、低い振動音が聞こえた。
最初は、何かが崩れた音かと思った。
第一層では珍しくない。
ダンジョンの壁が勝手に形を変えることもあるし、遠くで探索者が魔法道具を使うこともある。
だが、次の音は明らかに違った。
どん、と腹に響く爆発音。
その直後、かすかな悲鳴が聞こえた。
俺は足を止めた。
「……今の、聞こえました?」
『聞こえた』
『爆発?』
『二層側じゃね?』
『行くなよ』
コメントが急に流れ始めた。いつもより画面が騒がしい。
俺はマップを確認した。
今いる場所から少し進めば、第二層へ続く階段がある。
もちろん、今日は降りる予定なんてなかった。
というより、俺はまだ第二層に降りたことがない。
第一層でこれだけ苦戦している人間が、第二層に行くのは無謀だ。
そう言われ続けてきたし、俺自身もそう思っていた。
もう一度、音がした。
今度は近い。
石の床が震え、天井から細かな砂が落ちてくる。
「……さすがに、確認だけします。危なそうならすぐ戻ります」
『やめとけ』
『通報だけでいい』
『配信者魂出すな』
『強化くん死ぬぞ』
「分かってます。無理はしません」
俺はそう言いながら、ゆっくり進んだ。
無理はしない。
本当に、そのつもりだった。
探索者には、異常を発見した場合、可能な範囲で記録し、管理局に通報する義務がある。
配信映像は、そのまま証拠にもなる。
だから、確認だけ。
危険なら逃げる。
それだけだ。
階段へ続く通路が見えてきた。
普段なら、新人探索者が何人か出入りしている場所だ。
だが今は、妙に静かだった。
いや、違う。
静かなのではない。
奥から、荒い息遣いが聞こえていた。
「はぁっ……はぁっ……くそ、なんで、上まで……!」
階段の方から、一人の男がよろめきながら現れた。
年は二十代前半くらい。
肩に配信用カメラをつけ、胸元には第二層探索許可のタグが揺れている。
装備は俺よりずっと良い。
軽量の防具に、魔力を通しやすい短槍。
けれど、その顔は真っ青だった。
左腕の防具は砕け、服のあちこちが裂けている。
魔力切れ特有の震えが、足に出ていた。
俺は反射的に声をかけた。
「大丈夫ですか!」
「来るな!」
男が叫んだ。
それと同時に、階段の奥から重い足音が響いた。
ずん、と床が揺れる。
俺の喉が、勝手に鳴った。
第二層から何かが上がってくる。
男は俺を見て、目を見開いた。
「一層の探索者か……? 逃げろ。二層のやつが上がってきてる!」




