第15話 復帰探索
三浦さんが探索に戻ると聞いたのは、俺が第二層で石爪犬を倒した二日後だった。
地上施設の素材買い取りカウンターの近くで、石爪犬の魔石を査定に出し、削れた腕当ての補修について考えていた時、後ろから声をかけられた。
「朝倉」
振り向くと、三浦さんが立っていた。
前に見た時より、顔色はずっと良くなっている。
左腕ももう吊っていない。
ただ、立ち方にはまだ少し慎重さが残っていた。
「三浦さん。もう体、大丈夫なんですか」
「大丈夫と言い切ると医者に怒られるな」
三浦さんはそう言って、少し笑った。
「事故調査が終わった。探索停止も今日で明けた。明日から、第二層に戻る」
「明日からですか」
「ああ。体を慣らす程度だ」
体を慣らす程度。
三浦さんはそう言うが、それは俺にとっては十分に深い場所だった。
俺は第二層に潜れるようになってきた。
土潜り蛇。
石殻蜥蜴。
石爪犬。
一体ずつなら、どうにか戦える相手が増えてきた。
けれど、それはあくまで入口付近での話だ。
第二層を探索している、とはまだ言いにくい。
階段から離れすぎず、倒せる相手だけを選び、危ないと思ったらすぐ戻る。
その繰り返しだった。
「朝倉、明日空いてるか」
「え?」
「よければ、一緒に潜らないか」
俺はすぐには返事ができなかった。
三浦さんとパーティーを組む。
それは前なら、考えることすらできなかった話だ。
第一層で灰色スライムを相手にしていた俺と、第二層を主戦場にしていた三浦さん。
立っている場所が違いすぎた。
でも今は、完全に無理だとは思わなかった。
怖さはある。
けれど、第二層に潜るなら、一人より三浦さんと一緒の方がずっと学べる。
「俺でいいんですか」
「むしろ、今のお前だから誘ってる」
三浦さんは真面目な顔で言った。
「石爪犬を一人で倒したんだろ」
「あれは、かなり危なかったです」
「危ない相手を、危ないと分かった上で倒したなら十分だ。調子に乗ってないのもいい」
「乗れませんよ。二体出たら終わりです」
「それが分かってる奴の方が、第二層では長く生きる」
三浦さんは少しだけ周囲を見てから、声を落とした。
「明日は配信しない。復帰初日を見世物にするつもりはないし、俺も余計なことを考えたくない。お前も、できれば切ってくれ」
「分かりました。配信はしません」
少しだけ迷いはあった。
今の俺なら、三浦さんとのパーティー探索はきっと配信映えする。
石爪犬のソロ討伐後なら、見に来る人も増えているはずだ。
けれど、それより大事なことがある。
「それと、ひとつ言っておく。俺のスキルは身体強化だ」
「身体強化、ですか」
「ああ。ただし、強い方じゃない」
三浦さんは自分の右手を軽く握った。
「身体強化にも幅がある。上位のやつは、腕力も速度も耐久もまとめて跳ね上がる。高階層で前衛を張るような連中は、だいたいその手の当たりを引いてる」
「三浦さんのは違うんですか」
「俺のは弱めだ。魔力を流した時に、動きが少し良くなる。踏ん張りも利く。怪我もしにくい。だが、劇的に速くなったり、岩みたいに硬くなったりはしない」
そう言ってから、三浦さんは苦笑した。
「だから俺は、第二層が主戦場だ。無理して第三層に行くより、第二層で安定して稼ぐ方が向いてる」
その言い方に、少しだけ安心した。
強い探索者でも、自分の限界を見ている。
三浦さんは第二層の探索者だ。
けれど、何でもできる人ではない。
それを自分で分かっている。
「明日、よろしくお願いします」
「ああ。無理はさせない。ただし、第二層の奥側を少し歩く。第三層入口までは行くつもりだ」
「第三層の入口まで……」
思わず、声が硬くなった。
「中には入らない。見るだけだ。第二層を歩けるようになってきたなら、その先がどんな場所につながってるか、一度見ておいた方がいい」
「分かりました」
俺は頷いた。
怖い。
でも、見たいと思った。
第二層の先。
まだ自分には届かない場所。
そこに続く入口を。
翌日。
俺は配信をつけずに、銀座ダンジョンの地上施設へ向かった。
いつもより少し早い時間だったが、施設内はすでに探索者で混み始めていた。
配信者用のスペースでは、何人かがカメラに向かって話している。
大きな声で今日の予定を宣言している者もいれば、コメントを読んで笑っている者もいる。
普段なら、俺もあの中にいる。
でも今日は違う。
スマホの通知は切った。
配信用カメラも起動しない。
管理局提出用の小型記録カメラだけを装備の胸元につけた。
少し変な感じがした。
見られていない探索。
コメント欄がない探索。
それは、配信者としては少し寂しい。
けれど、探索者としては本来の形なのかもしれなかった。
三浦さんは、受付前に立っていた。
装備は以前より少し軽めに見える。
短槍。
腕当て。
脚甲。
胸当て。
腰には煙玉と閃光玉。
それから、首元に小さな記録カメラ。
「来たな」
「おはようございます」
「体調は?」
「問題ないです。昨日は休みました。装備も見直してあります」
「なら行くか」
手続きを済ませ、俺たちは第一層へ入った。
三浦さんの歩き方は、俺とは違った。
速いわけではない。
雑でもない。
ただ、迷いが少ない。
どこを歩けば足音が響きにくいか。
どの壁際に魔物が隠れやすいか。
どの広さなら戦いやすいか。
そういうものを、体で覚えている歩き方だった。
「朝倉」
「はい」
「今日は俺の後ろを歩け」
「分かりました」
俺は少し距離を取って後ろを歩いた。
第一層を抜け、第二層へ続く階段に着く。
いつもの重さが胸に来る。
配信していないのに、自然と口が開きそうになった。
降ります。
いつもならそう言っている。
今日は、その言葉を飲み込んだ。
三浦さんが俺を見る。
「緊張してるか」
「してます」
「それでいい」
三浦さんは短く言って、階段を降りた。
第二層の空気が肌に触れる。
黒い砂。
湿った石の匂い。
青白い苔の光。
壁の根。
何度か来た場所なのに、今日は少し違って見えた。
一人ではない。
それだけで、周囲の見え方が変わる。
「まずは入口付近を抜ける。土潜り蛇が出たら、俺がやる」
「分かりました」
通路を進む。
しばらくして、床の黒い砂が揺れた。
土潜り蛇だ。
俺が身構えるより早く、三浦さんが短槍の石突きを床に打ちつけた。
こつん、という硬い音。
砂の盛り上がりが反応し、そちらへ走る。
三浦さんは半歩下がった。
床が弾ける。
土潜り蛇が飛び出した。
その瞬間、三浦さんの体が淡く揺らいだ。
魔力を流したのだと分かった。
目に見えて光ったわけではない。
ただ、動きの切れが一段だけ上がった。
短槍が、土潜り蛇の首元へ落ちる。
一撃ではない。
深く刺して、すぐ抜く。
暴れる胴を避け、もう一度突く。
土潜り蛇が跳ねる。
三浦さんは踏み込みすぎない。
逃げ道を残したまま、三度目の突きを入れた。
土潜り蛇の体が力を失う。
視界の端に文字が浮かんだ。
――パーティーメンバーが土潜り蛇を討伐しました。
――魔力を吸収します。
足元から、薄い熱が入ってくる。
いつもの魔力吸収だ。
だが、そのあとが続かなかった。
《強化》の表示はない。
体の奥に広がる熱も、普段より静かだった。
魔力は入ってくる。
だが、何かが噛み合わない。
俺は思わず手を握った。
「今、見えたか?」
三浦さんが土潜り蛇の魔石を拾いながら聞いた。
「はい。パーティーメンバーが討伐しました、って出ました。魔力も入ってきました」
「パーティーで魔物を倒すと、魔力吸収は分配される」
俺は自分の胸元に手を当てた。
魔力は入った。
でも、《強化》は発動しない。
つまり、俺が倒さないと《強化》は動かない。
それは、少し重い事実だった。
パーティーを組めば、もっと安全に第二層を進める。
けれど、仲間が倒してくれるだけでは《強化》は育たない。
自分で倒さなければならない。
危険の中で、自分の手で。
「どうかしたか」
「すみません。次からは、俺がとどめを刺してもいいでしょうか」
「いいが、どうした?」
「俺の《強化》は、自分で討伐しないと発動しないみたいで」
三浦さんは小さく笑った。
「そういうことなら、とどめはお前に譲ろう」
「ありがとうございます」
「礼はいい。可能な限り、お前に討伐を渡す」
一人で戦っていた時とは、全然違う。
俺たちは第二層を進んだ。
入口付近を越えると、通路の幅が少し広くなった。
黒い砂は薄くなり、その代わり床の石がひび割れている。
壁の根も太くなり、場所によっては足元まで伸びていた。
「ここから少し、第二層らしくなる」
三浦さんが言った。
「入口付近は、まだ第一層上がりでも戻れる。ここから先は、戻り道を見失う奴が出る」
「分岐が増えるんですか」
「増える。あと、魔物が複数体で来る」
嫌な言葉だった。
「二体同時とかですか」
「普通にある。だから全部相手にするな。逃げ道があるうちに避ける。戦う場所を選ぶ。それができない奴から怪我をする」
「はい」
返事をした直後、壁際で低い音がした。
ずり。
石殻蜥蜴だ。
俺はナイフに手をかける。
三浦さんが左手を上げた。
「これは俺がやる。見てろ」
石殻蜥蜴がこちらを向く。
低く身を沈め、突進の体勢に入った。
三浦さんは正面から受けない。
斜めに下がり、石殻蜥蜴の進路をずらす。
短槍が低く走った。
背中ではない。
前脚の付け根。
刃が入る。
石殻蜥蜴が尻尾を振る。
三浦さんはそれを槍の柄で流し、足を一歩引いた。
動きは派手ではない。
けれど、無駄が少ない。
俺が何度も痛い目を見て覚えたことを、三浦さんは最初から自然にやっている。
石殻蜥蜴が二度目の突進に入る。
三浦さんは体を沈め、腹側へ短槍を入れた。
深い。
石殻蜥蜴が暴れたが、三浦さんは近づきすぎない。
動きが鈍ったところへ、首元へ最後の一突きを入れた。
視界の端に文字が浮かぶ。
――パーティーメンバーが石殻蜥蜴を討伐しました。
――魔力を吸収します。
また、魔力だけが入ってくる。
《強化》は出ない。
俺はその感覚を、今度は落ち着いて受け止めた。
自分が倒していないからだ。
「今のも、魔力だけです」
「そうか」
魔石をポーチに入れた時、奥から重い足音が聞こえた。
どん。
どん。
石爪犬の軽い爪音とは違う。
土潜り蛇の砂を擦る音でもない。
床そのものが揺れるような音。
俺の体が、先に思い出した。
岩皮猿。
三浦さんの顔つきが変わる。
「朝倉、こいつは二人でやるぞ」
「はい」
「岩皮猿だ」
通路の奥から、巨体が現れた。
灰黒い皮膚。
岩を貼りつけたような肩と腕。
長い前腕。
床を叩く拳。
今の方がはっきり分かる。
これは第二層の魔物の中でも、真正面から受けていい相手ではない。
事故の日の岩皮猿は、三浦さんが削り、雷撃札で内部から焼いた。
あれはまともな勝ち方ではなかった。
今回は違う。
俺と三浦さんの二人で、正面から戦うことになる。
「こいつは、お前が取れ」
三浦さんが言った。
「俺がですか」
「俺が削る。動きを止める。最後はお前が入れろ」
岩皮猿からは、すでに一度特性を吸収している。
筋力。
耐久。
打撃への強さ。
魔力循環。
それらは、今の俺の土台になっている。
もう一度倒せば、表示に詳細は出なくても、積み上がるはずだ。
「分かりました」
「ただし、無理なら俺が倒す。討伐を渡すために死ぬのは馬鹿だ」
「はい」
岩皮猿が吠えた。
通路が震える。
三浦さんが前に出る。
身体強化。
淡い魔力が三浦さんの足運びに乗った。
岩皮猿の拳が振り下ろされる。
三浦さんは真横へ逃げない。
斜めに入り、拳の外側へ抜ける。
床が砕けた。
黒い砂と石片が跳ねる。
俺は距離を取りながら、岩皮猿の動きを見た。
速い。
重い。
攻撃範囲が広い。
石殻蜥蜴や石爪犬とは違う怖さだ。
一撃もらえば、防具があっても終わる。
三浦さんの短槍が、岩皮猿の脇腹をかすめた。
浅い。
岩皮猿の皮膚は硬い。
でも、三浦さんは焦らない。
腕。
脇。
膝裏。
腹の古傷のように見える薄い部分。
硬い皮膚の隙間だけを狙って、少しずつ傷を増やしていく。
「朝倉、今はまだ入るな」
「はい」
「拳の後だけ見ろ。叩いたあとの戻りが遅い」
言われて、見る場所が絞られた。
岩皮猿の拳が落ちる。
床が砕ける。
そのあと、腕を戻すまでに一瞬だけ遅れがある。
そこなら近づける。
だが、近づけばもう片方の腕が来る。
俺はナイフを握り直した。
雷撃札はある。
でも、今日は最初からそれに頼るつもりはない。
魔法道具を使えば、安全に倒せるかもしれない。
だが、今の俺がどこまで戦えるかを知るには、自分の体で踏み込む必要がある。
岩皮猿が三浦さんへ向かって大きく踏み込んだ。
右拳。
三浦さんは下がらず、左へ抜ける。
拳が床にめり込む。
「今だ!」
俺は走った。
黒い砂を蹴る。
土潜り蛇から得た足元の感覚が、滑りそうになる足を支えてくれる。
石爪犬の動きで覚えた踏み込みが、距離を縮める。
岩皮猿の硬さを知っている体が、狙うべき場所を探す。
腹側。
前に雷撃が走った時と似た位置。
ただし今回は、札ではない。
俺のナイフだ。
刃を突き込む。
硬い。
浅い。
岩皮猿が唸り、左腕を振る。
「離れろ!」
三浦さんの声で、俺は横へ跳んだ。
岩皮猿の腕が、俺の背中すれすれを通る。
風圧だけで体が揺れる。
危なかった。
一瞬でも遅れていたら、潰されていた。
「浅いです!」
「浅くていい! 同じ場所を狙え!」
同じ場所。
俺は息を整える。
岩皮猿がこちらを見た。
まずい。
標的が俺に移った。
その瞬間、三浦さんが岩皮猿の膝裏へ短槍を入れた。
岩皮猿の姿勢が崩れる。
怒りの咆哮。
今度は三浦さんへ腕が向く。
俺は動けなかった。
ただ見てしまった。
三浦さんは紙一重で避ける。
だが、完全ではない。
拳がかすめ、肩当てが砕ける音がした。
「三浦さん!」
「止まるな!」
怒鳴られた。
その声で、足が動いた。
そうだ。
今止まれば、三浦さんが作った隙が消える。
俺は岩皮猿の後ろ側へ回り込んだ。
膝裏。
さっき三浦さんが突いた場所。
そこへナイフを入れる。
今度は深く入った。
岩皮猿の脚が揺れる。
巨体がわずかに沈む。
「いい! もう一回!」
岩皮猿が腕を振り回す。
近づけない。
三浦さんが煙玉を投げた。
白い煙が通路に広がる。
「視界を切る! 音で位置を取れ!」
煙の中で、岩皮猿が吠えた。
足音。
床を叩く拳。
石が砕ける音。
俺は息を殺した。
見えない。
でも、完全に分からないわけではない。
重い足音が右へずれる。
拳が床を叩く。
その後、腕を戻す音が遅れる。
今。
煙を抜ける。
岩皮猿の腹が見えた。
最初に浅く刺した場所。
血が滲んでいる。
俺はそこへ、全身でナイフを押し込んだ。
刃が入る。
硬い皮膚の奥へ、少しだけ届いた感触があった。
岩皮猿が吠え、俺を掴もうと腕を下ろす。
逃げる。
だが足元が滑った。
黒い砂に踵を取られる。
体が傾く。
終わった、と思うより早く、三浦さんの短槍が岩皮猿の手首を叩いた。
軌道がずれる。
岩皮猿の指が、俺の肩の横を掠めた。
「立て!」
「はい!」
俺は転がるように距離を取った。
心臓が暴れている。
手が震える。
怖い。
石爪犬を倒した時とは違う。
岩皮猿の一撃は、当たれば終わりだ。
それでも、傷は増えている。
腹。
膝裏。
脇。
三浦さんが削った場所と、俺が入れた場所。
岩皮猿の動きは明らかに鈍っていた。
「次で決めるぞ」
三浦さんが言った。
「俺が膝を崩す。お前は腹だ。迷うな」
「はい」
「危なければ、捨てて逃げろ」
「はい」
岩皮猿が低く唸り、こちらへ突っ込んできた。
巨体が迫る。
床が震える。
三浦さんが前へ出た。
身体強化。
短槍が低く走る。
岩皮猿の傷ついた膝裏に、深く刺さった。
巨体が崩れる。
完全には倒れない。
片膝をついただけだ。
だが、腹が下がった。
届く。
俺は踏み込んだ。
怖さが喉を塞ぐ。
それでも、止まらない。
初めて岩皮猿を前にした時、俺は雷撃札を握って震えていた。
あの時は、三浦さんが削った相手に、最後の保険を撃つしかなかった。
今回は違う。
削ってもらっているのは同じだ。
助けられているのも同じだ。
でも、踏み込むのは俺だ。
自分の手で、刃を入れる。
「っああ!」
声が漏れた。
ナイフを、腹の傷口へ突き込む。
深い。
今までで一番深く入った。
岩皮猿が俺を見た。
目が、怒りで開く。
腕が上がる。
間に合わない。
俺はナイフを引き抜かず、そのまま体重をかけた。
三浦さんの短槍が、岩皮猿の脇へ入る。
岩皮猿の腕がわずかにずれる。
俺はナイフをさらに押し込んだ。
岩皮猿の体が、大きく震えた。
咆哮が、途中で切れる。
巨体が前のめりに崩れた。
床が揺れる。
俺はナイフを手放し、横へ転がった。
岩皮猿の拳が、さっきまで俺のいた場所に落ちる。
通路に、重い沈黙が落ちた。
俺は荒い息のまま、岩皮猿を見た。
動かない。
数秒。
さらに数秒。
視界の端に文字が浮かぶ。
――岩皮猿を討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
胸の奥に、熱が落ちた。
重い熱だった。
岩皮猿を初めて倒した時ほど、暴れるような感覚ではない。
けれど、深い。
筋肉の奥。
骨の近く。
体の芯に、じわりと重さが増していく。
俺は床に手をついたまま、しばらく動けなかった。
「入ったか」
三浦さんが息を切らしながら言った。
「はい。討伐も、《強化》も、俺に入りました」
「なら成功だ」
三浦さんは短槍を支えにして立っていた。
肩当てが割れている。
息も荒い。
余裕の勝利ではない。
三浦さんと二人がかりで、ようやく倒した。
それでも、倒した。
第二層の岩皮猿を。
自分の手で。
「大丈夫ですか」
「肩は打った。だが動く」
「すみません。俺が足を取られて」
「謝るな。あれで済んだなら上出来だ」
三浦さんは岩皮猿の魔石を見下ろし、少しだけ笑った。
「それに、お前は止まらなかった。前ならたぶん、あそこで固まってた」
否定できなかった。
前なら、三浦さんが傷ついた時点で動けなかったかもしれない。
岩皮猿の目がこちらを向いた時点で、足が止まっていたかもしれない。
でも今日は、止まらなかった。
怖かった。
今も怖い。
それでも、動けた。
「魔力はどうだ」
「かなり入りました。体が重いというか、熱いです」
「今日はここで引き返してもいい」
三浦さんはそう言った。
けれど、少しだけ迷ってから続けた。
「ただ、第三層入口は近い。見るだけ見て戻るか?」
「……行けます」
「無理はするな」
「無理なら言います。でも、見たいです」
三浦さんは俺をじっと見た。
それから頷いた。
「分かった。戦闘は避ける。俺が前を歩く。お前は周囲と足元だけ見ろ」
「はい」
俺たちは岩皮猿の魔石と最低限の素材だけを回収し、通路を進んだ。
そこから先の第二層は、入口付近とは空気が違った。
黒い砂が減り、石床が増える。
壁の根は太く絡み合い、ところどころに黒い水が染み出している。
通路の天井が高くなり、青白い苔の光が弱くなる。
魔物の気配も濃い。
遠くで爪が鳴る。
砂が擦れる。
低い唸りが聞こえる。
三浦さんは、そのたびに立ち止まり、進む道を変えた。
戦わない。
避ける。
第二層を探索するとは、魔物を倒し続けることではないのだと分かった。
戦う相手を選ぶ。
進む道を選ぶ。
帰る余力を残す。
三浦さんはそれを、黙って背中で見せていた。
やがて、通路の奥が開けた。
広い空間だった。
天井が高い。
壁一面に青白い苔が広がっている。
中央には、黒い石でできた大きな階段があった。
下へ続く階段。
第一層から第二層へ降りる階段よりも、ずっと暗い。
階段の下から、冷たい風が上がってくる。
肌が粟立った。
「あれが、第三層の入口だ」
三浦さんが言った。
俺は何も言えなかった。
第三層。
銀座ダンジョンのさらに下。
今の俺には、まだ遠すぎる場所。
階段の奥は暗く、光が届かない。
そこに何がいるのか、想像するだけで背中が冷える。
「今日はここまでだ」
三浦さんが言った。
「中には入らない。覗き込むのもなしだ。第三層はまだ早い」
「はい」
返事はすぐに出た。
行きたいとは思わなかった。
ただ、ここまで来たのだと思った。
第二層の入口で一体ずつ戦っていた俺が、三浦さんと一緒に、第三層の入口まで来た。
もちろん、一人の力ではない。
三浦さんがいた。
道を選んでくれた。
戦い方も支えてくれた。
でも、俺も戦った。
岩皮猿を倒した。
《強化》も発動した。
そして、三浦さんが倒した魔物では、魔力だけが入った。
今日の探索で分かったことは多い。
パーティーの仲間が討伐しても、魔力吸収は起きる。
だが、《強化》は、自分が討伐しなければ発動しない。
それは都合のいい力ではなかった。
仲間に倒してもらえば勝手に強くなる、そんな甘いものではない。
自分で危険を背負い、自分で最後を取る必要がある。
それでも、一人で全部を倒す必要もない。
三浦さんが削り、俺が入れる。
三浦さんが倒し、俺は魔力だけを受け取る。
必要な時に役割を変える。
パーティーなら、それができる。
「朝倉」
「はい」
「戻るぞ。ここに長くいると、余計なものを呼ぶ」
「分かりました」
俺はもう一度だけ、第三層へ続く階段を見た。
暗い。
重い。
怖い。
でも、ただ怖いだけではなくなっていた。
いつか。
そう思ってしまった。
今ではない。
今日でもない。
明日でもない。
けれど、いつか。
俺はあの先へ降りるのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に残っていた岩皮猿の熱が、静かに脈打った気がした。
「行きます」
俺は三浦さんの後ろについた。
第三層の入口を背にして、俺たちは第二層の通路を戻り始めた。
帰るまでが探索。
配信していなくても、その言葉はもう体に染みついている。
今日の成果は大きい。
だからこそ、生きて地上へ戻らなければならない。
俺はポーチの中の岩皮猿の魔石を感じながら、慎重に足を進めた。




