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外れスキル《強化》は、倒した魔物の特性を吸収する 〜同接三人の底辺探索者、銀座ダンジョン配信で成り上がる〜  作者: 夕暮れ


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第15話 復帰探索

 三浦さんが探索に戻ると聞いたのは、俺が第二層で石爪犬を倒した二日後だった。


 地上施設の素材買い取りカウンターの近くで、石爪犬の魔石を査定に出し、削れた腕当ての補修について考えていた時、後ろから声をかけられた。


「朝倉」


 振り向くと、三浦さんが立っていた。


 前に見た時より、顔色はずっと良くなっている。

 左腕ももう吊っていない。

 ただ、立ち方にはまだ少し慎重さが残っていた。


「三浦さん。もう体、大丈夫なんですか」


「大丈夫と言い切ると医者に怒られるな」


 三浦さんはそう言って、少し笑った。


「事故調査が終わった。探索停止も今日で明けた。明日から、第二層に戻る」


「明日からですか」


「ああ。体を慣らす程度だ」


 体を慣らす程度。


 三浦さんはそう言うが、それは俺にとっては十分に深い場所だった。


 俺は第二層に潜れるようになってきた。


 土潜り蛇。

 石殻蜥蜴。

 石爪犬。


 一体ずつなら、どうにか戦える相手が増えてきた。


 けれど、それはあくまで入口付近での話だ。


 第二層を探索している、とはまだ言いにくい。


 階段から離れすぎず、倒せる相手だけを選び、危ないと思ったらすぐ戻る。


 その繰り返しだった。


「朝倉、明日空いてるか」


「え?」


「よければ、一緒に潜らないか」


 俺はすぐには返事ができなかった。


 三浦さんとパーティーを組む。


 それは前なら、考えることすらできなかった話だ。


 第一層で灰色スライムを相手にしていた俺と、第二層を主戦場にしていた三浦さん。


 立っている場所が違いすぎた。


 でも今は、完全に無理だとは思わなかった。


 怖さはある。


 けれど、第二層に潜るなら、一人より三浦さんと一緒の方がずっと学べる。


「俺でいいんですか」


「むしろ、今のお前だから誘ってる」


 三浦さんは真面目な顔で言った。


「石爪犬を一人で倒したんだろ」


「あれは、かなり危なかったです」


「危ない相手を、危ないと分かった上で倒したなら十分だ。調子に乗ってないのもいい」


「乗れませんよ。二体出たら終わりです」


「それが分かってる奴の方が、第二層では長く生きる」


 三浦さんは少しだけ周囲を見てから、声を落とした。


「明日は配信しない。復帰初日を見世物にするつもりはないし、俺も余計なことを考えたくない。お前も、できれば切ってくれ」


「分かりました。配信はしません」


 少しだけ迷いはあった。


 今の俺なら、三浦さんとのパーティー探索はきっと配信映えする。

 石爪犬のソロ討伐後なら、見に来る人も増えているはずだ。


 けれど、それより大事なことがある。


「それと、ひとつ言っておく。俺のスキルは身体強化だ」


「身体強化、ですか」


「ああ。ただし、強い方じゃない」


 三浦さんは自分の右手を軽く握った。


「身体強化にも幅がある。上位のやつは、腕力も速度も耐久もまとめて跳ね上がる。高階層で前衛を張るような連中は、だいたいその手の当たりを引いてる」


「三浦さんのは違うんですか」


「俺のは弱めだ。魔力を流した時に、動きが少し良くなる。踏ん張りも利く。怪我もしにくい。だが、劇的に速くなったり、岩みたいに硬くなったりはしない」


 そう言ってから、三浦さんは苦笑した。


「だから俺は、第二層が主戦場だ。無理して第三層に行くより、第二層で安定して稼ぐ方が向いてる」


 その言い方に、少しだけ安心した。


 強い探索者でも、自分の限界を見ている。


 三浦さんは第二層の探索者だ。

 けれど、何でもできる人ではない。


 それを自分で分かっている。


「明日、よろしくお願いします」


「ああ。無理はさせない。ただし、第二層の奥側を少し歩く。第三層入口までは行くつもりだ」


「第三層の入口まで……」


 思わず、声が硬くなった。


「中には入らない。見るだけだ。第二層を歩けるようになってきたなら、その先がどんな場所につながってるか、一度見ておいた方がいい」


「分かりました」


 俺は頷いた。


 怖い。


 でも、見たいと思った。


 第二層の先。


 まだ自分には届かない場所。


 そこに続く入口を。


 翌日。


 俺は配信をつけずに、銀座ダンジョンの地上施設へ向かった。


 いつもより少し早い時間だったが、施設内はすでに探索者で混み始めていた。

 配信者用のスペースでは、何人かがカメラに向かって話している。

 大きな声で今日の予定を宣言している者もいれば、コメントを読んで笑っている者もいる。


 普段なら、俺もあの中にいる。


 でも今日は違う。


 スマホの通知は切った。

 配信用カメラも起動しない。

 管理局提出用の小型記録カメラだけを装備の胸元につけた。


 少し変な感じがした。


 見られていない探索。


 コメント欄がない探索。


 それは、配信者としては少し寂しい。

 けれど、探索者としては本来の形なのかもしれなかった。


 三浦さんは、受付前に立っていた。


 装備は以前より少し軽めに見える。

 短槍。

 腕当て。

 脚甲。

 胸当て。

 腰には煙玉と閃光玉。


 それから、首元に小さな記録カメラ。


「来たな」


「おはようございます」


「体調は?」


「問題ないです。昨日は休みました。装備も見直してあります」


「なら行くか」


 手続きを済ませ、俺たちは第一層へ入った。


 三浦さんの歩き方は、俺とは違った。


 速いわけではない。

 雑でもない。


 ただ、迷いが少ない。


 どこを歩けば足音が響きにくいか。

 どの壁際に魔物が隠れやすいか。

 どの広さなら戦いやすいか。


 そういうものを、体で覚えている歩き方だった。


「朝倉」


「はい」


「今日は俺の後ろを歩け」


「分かりました」


 俺は少し距離を取って後ろを歩いた。


 第一層を抜け、第二層へ続く階段に着く。


 いつもの重さが胸に来る。


 配信していないのに、自然と口が開きそうになった。


 降ります。


 いつもならそう言っている。


 今日は、その言葉を飲み込んだ。


 三浦さんが俺を見る。


「緊張してるか」


「してます」


「それでいい」


 三浦さんは短く言って、階段を降りた。


 第二層の空気が肌に触れる。


 黒い砂。

 湿った石の匂い。

 青白い苔の光。

 壁の根。


 何度か来た場所なのに、今日は少し違って見えた。


 一人ではない。


 それだけで、周囲の見え方が変わる。


「まずは入口付近を抜ける。土潜り蛇が出たら、俺がやる」


「分かりました」


 通路を進む。


 しばらくして、床の黒い砂が揺れた。


 土潜り蛇だ。


 俺が身構えるより早く、三浦さんが短槍の石突きを床に打ちつけた。


 こつん、という硬い音。


 砂の盛り上がりが反応し、そちらへ走る。


 三浦さんは半歩下がった。


 床が弾ける。


 土潜り蛇が飛び出した。


 その瞬間、三浦さんの体が淡く揺らいだ。


 魔力を流したのだと分かった。


 目に見えて光ったわけではない。

 ただ、動きの切れが一段だけ上がった。


 短槍が、土潜り蛇の首元へ落ちる。


 一撃ではない。


 深く刺して、すぐ抜く。

 暴れる胴を避け、もう一度突く。


 土潜り蛇が跳ねる。


 三浦さんは踏み込みすぎない。

 逃げ道を残したまま、三度目の突きを入れた。


 土潜り蛇の体が力を失う。


 視界の端に文字が浮かんだ。


 ――パーティーメンバーが土潜り蛇を討伐しました。

 ――魔力を吸収します。


 足元から、薄い熱が入ってくる。


 いつもの魔力吸収だ。


 だが、そのあとが続かなかった。


 《強化》の表示はない。


 体の奥に広がる熱も、普段より静かだった。

 魔力は入ってくる。

 だが、何かが噛み合わない。


 俺は思わず手を握った。


「今、見えたか?」


 三浦さんが土潜り蛇の魔石を拾いながら聞いた。


「はい。パーティーメンバーが討伐しました、って出ました。魔力も入ってきました」


「パーティーで魔物を倒すと、魔力吸収は分配される」


 俺は自分の胸元に手を当てた。


 魔力は入った。


 でも、《強化》は発動しない。


 つまり、俺が倒さないと《強化》は動かない。


 それは、少し重い事実だった。


 パーティーを組めば、もっと安全に第二層を進める。

 けれど、仲間が倒してくれるだけでは《強化》は育たない。


 自分で倒さなければならない。


 危険の中で、自分の手で。


「どうかしたか」


「すみません。次からは、俺がとどめを刺してもいいでしょうか」


「いいが、どうした?」


「俺の《強化》は、自分で討伐しないと発動しないみたいで」


 三浦さんは小さく笑った。


「そういうことなら、とどめはお前に譲ろう」


「ありがとうございます」


「礼はいい。可能な限り、お前に討伐を渡す」


 一人で戦っていた時とは、全然違う。


 俺たちは第二層を進んだ。


 入口付近を越えると、通路の幅が少し広くなった。

 黒い砂は薄くなり、その代わり床の石がひび割れている。

 壁の根も太くなり、場所によっては足元まで伸びていた。


「ここから少し、第二層らしくなる」


 三浦さんが言った。


「入口付近は、まだ第一層上がりでも戻れる。ここから先は、戻り道を見失う奴が出る」


「分岐が増えるんですか」


「増える。あと、魔物が複数体で来る」


 嫌な言葉だった。


「二体同時とかですか」


「普通にある。だから全部相手にするな。逃げ道があるうちに避ける。戦う場所を選ぶ。それができない奴から怪我をする」


「はい」


 返事をした直後、壁際で低い音がした。


 ずり。


 石殻蜥蜴だ。


 俺はナイフに手をかける。


 三浦さんが左手を上げた。


「これは俺がやる。見てろ」


 石殻蜥蜴がこちらを向く。


 低く身を沈め、突進の体勢に入った。


 三浦さんは正面から受けない。

 斜めに下がり、石殻蜥蜴の進路をずらす。


 短槍が低く走った。


 背中ではない。

 前脚の付け根。


 刃が入る。


 石殻蜥蜴が尻尾を振る。


 三浦さんはそれを槍の柄で流し、足を一歩引いた。


 動きは派手ではない。


 けれど、無駄が少ない。


 俺が何度も痛い目を見て覚えたことを、三浦さんは最初から自然にやっている。


 石殻蜥蜴が二度目の突進に入る。


 三浦さんは体を沈め、腹側へ短槍を入れた。


 深い。


 石殻蜥蜴が暴れたが、三浦さんは近づきすぎない。

 動きが鈍ったところへ、首元へ最後の一突きを入れた。


 視界の端に文字が浮かぶ。


 ――パーティーメンバーが石殻蜥蜴を討伐しました。

 ――魔力を吸収します。


 また、魔力だけが入ってくる。


 《強化》は出ない。


 俺はその感覚を、今度は落ち着いて受け止めた。


 自分が倒していないからだ。


「今のも、魔力だけです」


「そうか」


 魔石をポーチに入れた時、奥から重い足音が聞こえた。


 どん。


 どん。


 石爪犬の軽い爪音とは違う。

 土潜り蛇の砂を擦る音でもない。


 床そのものが揺れるような音。


 俺の体が、先に思い出した。


 岩皮猿。


 三浦さんの顔つきが変わる。


「朝倉、こいつは二人でやるぞ」


「はい」


「岩皮猿だ」


 通路の奥から、巨体が現れた。


 灰黒い皮膚。

 岩を貼りつけたような肩と腕。

 長い前腕。

 床を叩く拳。


 今の方がはっきり分かる。


 これは第二層の魔物の中でも、真正面から受けていい相手ではない。


 事故の日の岩皮猿は、三浦さんが削り、雷撃札で内部から焼いた。

 あれはまともな勝ち方ではなかった。


 今回は違う。


 俺と三浦さんの二人で、正面から戦うことになる。


「こいつは、お前が取れ」


 三浦さんが言った。


「俺がですか」


「俺が削る。動きを止める。最後はお前が入れろ」


 岩皮猿からは、すでに一度特性を吸収している。


 筋力。

 耐久。

 打撃への強さ。

 魔力循環。


 それらは、今の俺の土台になっている。


 もう一度倒せば、表示に詳細は出なくても、積み上がるはずだ。


「分かりました」


「ただし、無理なら俺が倒す。討伐を渡すために死ぬのは馬鹿だ」


「はい」


 岩皮猿が吠えた。


 通路が震える。


 三浦さんが前に出る。


 身体強化。


 淡い魔力が三浦さんの足運びに乗った。


 岩皮猿の拳が振り下ろされる。


 三浦さんは真横へ逃げない。

 斜めに入り、拳の外側へ抜ける。


 床が砕けた。


 黒い砂と石片が跳ねる。


 俺は距離を取りながら、岩皮猿の動きを見た。


 速い。

 重い。

 攻撃範囲が広い。


 石殻蜥蜴や石爪犬とは違う怖さだ。


 一撃もらえば、防具があっても終わる。


 三浦さんの短槍が、岩皮猿の脇腹をかすめた。


 浅い。


 岩皮猿の皮膚は硬い。


 でも、三浦さんは焦らない。


 腕。

 脇。

 膝裏。

 腹の古傷のように見える薄い部分。


 硬い皮膚の隙間だけを狙って、少しずつ傷を増やしていく。


「朝倉、今はまだ入るな」


「はい」


「拳の後だけ見ろ。叩いたあとの戻りが遅い」


 言われて、見る場所が絞られた。


 岩皮猿の拳が落ちる。

 床が砕ける。

 そのあと、腕を戻すまでに一瞬だけ遅れがある。


 そこなら近づける。


 だが、近づけばもう片方の腕が来る。


 俺はナイフを握り直した。


 雷撃札はある。

 でも、今日は最初からそれに頼るつもりはない。


 魔法道具を使えば、安全に倒せるかもしれない。

 だが、今の俺がどこまで戦えるかを知るには、自分の体で踏み込む必要がある。


 岩皮猿が三浦さんへ向かって大きく踏み込んだ。


 右拳。


 三浦さんは下がらず、左へ抜ける。


 拳が床にめり込む。


「今だ!」


 俺は走った。


 黒い砂を蹴る。


 土潜り蛇から得た足元の感覚が、滑りそうになる足を支えてくれる。

 石爪犬の動きで覚えた踏み込みが、距離を縮める。

 岩皮猿の硬さを知っている体が、狙うべき場所を探す。


 腹側。


 前に雷撃が走った時と似た位置。


 ただし今回は、札ではない。


 俺のナイフだ。


 刃を突き込む。


 硬い。


 浅い。


 岩皮猿が唸り、左腕を振る。


「離れろ!」


 三浦さんの声で、俺は横へ跳んだ。


 岩皮猿の腕が、俺の背中すれすれを通る。


 風圧だけで体が揺れる。


 危なかった。


 一瞬でも遅れていたら、潰されていた。


「浅いです!」


「浅くていい! 同じ場所を狙え!」


 同じ場所。


 俺は息を整える。


 岩皮猿がこちらを見た。


 まずい。


 標的が俺に移った。


 その瞬間、三浦さんが岩皮猿の膝裏へ短槍を入れた。


 岩皮猿の姿勢が崩れる。


 怒りの咆哮。


 今度は三浦さんへ腕が向く。


 俺は動けなかった。


 ただ見てしまった。


 三浦さんは紙一重で避ける。

 だが、完全ではない。

 拳がかすめ、肩当てが砕ける音がした。


「三浦さん!」


「止まるな!」


 怒鳴られた。


 その声で、足が動いた。


 そうだ。


 今止まれば、三浦さんが作った隙が消える。


 俺は岩皮猿の後ろ側へ回り込んだ。


 膝裏。


 さっき三浦さんが突いた場所。


 そこへナイフを入れる。


 今度は深く入った。


 岩皮猿の脚が揺れる。


 巨体がわずかに沈む。


「いい! もう一回!」


 岩皮猿が腕を振り回す。


 近づけない。


 三浦さんが煙玉を投げた。


 白い煙が通路に広がる。


「視界を切る! 音で位置を取れ!」


 煙の中で、岩皮猿が吠えた。


 足音。

 床を叩く拳。

 石が砕ける音。


 俺は息を殺した。


 見えない。


 でも、完全に分からないわけではない。


 重い足音が右へずれる。

 拳が床を叩く。

 その後、腕を戻す音が遅れる。


 今。


 煙を抜ける。


 岩皮猿の腹が見えた。


 最初に浅く刺した場所。

 血が滲んでいる。


 俺はそこへ、全身でナイフを押し込んだ。


 刃が入る。


 硬い皮膚の奥へ、少しだけ届いた感触があった。


 岩皮猿が吠え、俺を掴もうと腕を下ろす。


 逃げる。


 だが足元が滑った。


 黒い砂に踵を取られる。


 体が傾く。


 終わった、と思うより早く、三浦さんの短槍が岩皮猿の手首を叩いた。


 軌道がずれる。


 岩皮猿の指が、俺の肩の横を掠めた。


「立て!」


「はい!」


 俺は転がるように距離を取った。


 心臓が暴れている。


 手が震える。


 怖い。


 石爪犬を倒した時とは違う。

 岩皮猿の一撃は、当たれば終わりだ。


 それでも、傷は増えている。


 腹。

 膝裏。

 脇。


 三浦さんが削った場所と、俺が入れた場所。


 岩皮猿の動きは明らかに鈍っていた。


「次で決めるぞ」


 三浦さんが言った。


「俺が膝を崩す。お前は腹だ。迷うな」


「はい」


「危なければ、捨てて逃げろ」


「はい」


 岩皮猿が低く唸り、こちらへ突っ込んできた。


 巨体が迫る。


 床が震える。


 三浦さんが前へ出た。


 身体強化。


 短槍が低く走る。


 岩皮猿の傷ついた膝裏に、深く刺さった。


 巨体が崩れる。


 完全には倒れない。


 片膝をついただけだ。


 だが、腹が下がった。


 届く。


 俺は踏み込んだ。


 怖さが喉を塞ぐ。


 それでも、止まらない。


 初めて岩皮猿を前にした時、俺は雷撃札を握って震えていた。

 あの時は、三浦さんが削った相手に、最後の保険を撃つしかなかった。


 今回は違う。


 削ってもらっているのは同じだ。

 助けられているのも同じだ。


 でも、踏み込むのは俺だ。


 自分の手で、刃を入れる。


「っああ!」


 声が漏れた。


 ナイフを、腹の傷口へ突き込む。


 深い。


 今までで一番深く入った。


 岩皮猿が俺を見た。


 目が、怒りで開く。


 腕が上がる。


 間に合わない。


 俺はナイフを引き抜かず、そのまま体重をかけた。


 三浦さんの短槍が、岩皮猿の脇へ入る。


 岩皮猿の腕がわずかにずれる。


 俺はナイフをさらに押し込んだ。


 岩皮猿の体が、大きく震えた。


 咆哮が、途中で切れる。


 巨体が前のめりに崩れた。


 床が揺れる。


 俺はナイフを手放し、横へ転がった。


 岩皮猿の拳が、さっきまで俺のいた場所に落ちる。


 通路に、重い沈黙が落ちた。


 俺は荒い息のまま、岩皮猿を見た。


 動かない。


 数秒。


 さらに数秒。


 視界の端に文字が浮かぶ。


 ――岩皮猿を討伐しました。

 ――魔力を吸収します。

 ――スキル《強化》が発動しました。


 胸の奥に、熱が落ちた。


 重い熱だった。


 岩皮猿を初めて倒した時ほど、暴れるような感覚ではない。

 けれど、深い。


 筋肉の奥。

 骨の近く。

 体の芯に、じわりと重さが増していく。


 俺は床に手をついたまま、しばらく動けなかった。


「入ったか」


 三浦さんが息を切らしながら言った。


「はい。討伐も、《強化》も、俺に入りました」


「なら成功だ」


 三浦さんは短槍を支えにして立っていた。


 肩当てが割れている。

 息も荒い。


 余裕の勝利ではない。


 三浦さんと二人がかりで、ようやく倒した。


 それでも、倒した。


 第二層の岩皮猿を。


 自分の手で。


「大丈夫ですか」


「肩は打った。だが動く」


「すみません。俺が足を取られて」


「謝るな。あれで済んだなら上出来だ」


 三浦さんは岩皮猿の魔石を見下ろし、少しだけ笑った。


「それに、お前は止まらなかった。前ならたぶん、あそこで固まってた」


 否定できなかった。


 前なら、三浦さんが傷ついた時点で動けなかったかもしれない。

 岩皮猿の目がこちらを向いた時点で、足が止まっていたかもしれない。


 でも今日は、止まらなかった。


 怖かった。


 今も怖い。


 それでも、動けた。


「魔力はどうだ」


「かなり入りました。体が重いというか、熱いです」


「今日はここで引き返してもいい」


 三浦さんはそう言った。


 けれど、少しだけ迷ってから続けた。


「ただ、第三層入口は近い。見るだけ見て戻るか?」


「……行けます」


「無理はするな」


「無理なら言います。でも、見たいです」


 三浦さんは俺をじっと見た。


 それから頷いた。


「分かった。戦闘は避ける。俺が前を歩く。お前は周囲と足元だけ見ろ」


「はい」


 俺たちは岩皮猿の魔石と最低限の素材だけを回収し、通路を進んだ。


 そこから先の第二層は、入口付近とは空気が違った。


 黒い砂が減り、石床が増える。

 壁の根は太く絡み合い、ところどころに黒い水が染み出している。

 通路の天井が高くなり、青白い苔の光が弱くなる。


 魔物の気配も濃い。


 遠くで爪が鳴る。

 砂が擦れる。

 低い唸りが聞こえる。


 三浦さんは、そのたびに立ち止まり、進む道を変えた。


 戦わない。


 避ける。


 第二層を探索するとは、魔物を倒し続けることではないのだと分かった。


 戦う相手を選ぶ。

 進む道を選ぶ。

 帰る余力を残す。


 三浦さんはそれを、黙って背中で見せていた。


 やがて、通路の奥が開けた。


 広い空間だった。


 天井が高い。

 壁一面に青白い苔が広がっている。

 中央には、黒い石でできた大きな階段があった。


 下へ続く階段。


 第一層から第二層へ降りる階段よりも、ずっと暗い。


 階段の下から、冷たい風が上がってくる。


 肌が粟立った。


「あれが、第三層の入口だ」


 三浦さんが言った。


 俺は何も言えなかった。


 第三層。


 銀座ダンジョンのさらに下。


 今の俺には、まだ遠すぎる場所。


 階段の奥は暗く、光が届かない。

 そこに何がいるのか、想像するだけで背中が冷える。


「今日はここまでだ」


 三浦さんが言った。


「中には入らない。覗き込むのもなしだ。第三層はまだ早い」


「はい」


 返事はすぐに出た。


 行きたいとは思わなかった。


 ただ、ここまで来たのだと思った。


 第二層の入口で一体ずつ戦っていた俺が、三浦さんと一緒に、第三層の入口まで来た。


 もちろん、一人の力ではない。

 三浦さんがいた。

 道を選んでくれた。

 戦い方も支えてくれた。


 でも、俺も戦った。


 岩皮猿を倒した。


 《強化》も発動した。


 そして、三浦さんが倒した魔物では、魔力だけが入った。


 今日の探索で分かったことは多い。


 パーティーの仲間が討伐しても、魔力吸収は起きる。

 だが、《強化》は、自分が討伐しなければ発動しない。


 それは都合のいい力ではなかった。


 仲間に倒してもらえば勝手に強くなる、そんな甘いものではない。


 自分で危険を背負い、自分で最後を取る必要がある。


 それでも、一人で全部を倒す必要もない。


 三浦さんが削り、俺が入れる。

 三浦さんが倒し、俺は魔力だけを受け取る。

 必要な時に役割を変える。


 パーティーなら、それができる。


「朝倉」


「はい」


「戻るぞ。ここに長くいると、余計なものを呼ぶ」


「分かりました」


 俺はもう一度だけ、第三層へ続く階段を見た。


 暗い。


 重い。


 怖い。


 でも、ただ怖いだけではなくなっていた。


 いつか。


 そう思ってしまった。


 今ではない。

 今日でもない。

 明日でもない。


 けれど、いつか。


 俺はあの先へ降りるのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸の奥に残っていた岩皮猿の熱が、静かに脈打った気がした。


「行きます」


 俺は三浦さんの後ろについた。


 第三層の入口を背にして、俺たちは第二層の通路を戻り始めた。


 帰るまでが探索。


 配信していなくても、その言葉はもう体に染みついている。


 今日の成果は大きい。


 だからこそ、生きて地上へ戻らなければならない。


 俺はポーチの中の岩皮猿の魔石を感じながら、慎重に足を進めた。

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