第16話 少しだけ楽になった生活
第三層の入口を見た翌日、俺は朝から銀座ダンジョンの地上施設にいた。
目的は探索ではない。
素材の売却と、装備の修理だった。
昨日は三浦さんと一緒に第二層へ潜り、第三層の入口まで行った。
配信はしていない。
管理局提出用の記録カメラだけを回していたので、視聴者に見られながらの探索ではなかった。
それでも、体にははっきりと疲れが残っている。
岩皮猿との戦闘。
第三層の入口までの道。
帰り道の緊張。
どれも、今までの第二層入口付近の探索とは違った。
腕も足も重い。
肩も少し痛む。
昨日の夜は、布団に入った瞬間に眠った。
それでも、地上に持ち帰った魔石と素材には、ずしりとした重みがあった。
土潜り蛇の魔石。
石殻蜥蜴の魔石。
岩皮猿の魔石。
岩皮猿の硬い皮膚片。
割れた岩のような肩の素材。
石殻蜥蜴の殻の欠片。
全部を綺麗に回収できたわけではない。
戦闘後に長居する余裕はなかったし、三浦さんも「欲張るな」と言った。
それでも、第一層で灰色スライムの魔石を拾っていた頃とは、まるで違う量だった。
素材買い取りカウンターに並ぶと、いつもより少し落ち着かなかった。
前にここへ来ていた時は、査定額が今日の食費や道具代に直結していた。
灰色スライムの魔石がいくつか。
小型牙鼠の魔石が一つか二つ。
それで、次の探索に必要な最低限をどうにかする。
そんな日が多かった。
今、カウンターに置いている素材は、その頃とは違う。
第二層の素材だ。
「朝倉さん、本日の買い取り分です」
職員に呼ばれ、俺は端末をのぞき込んだ。
表示された数字を見て、思わず息が止まった。
高階層探索者から見れば、大した金額ではないのかもしれない。
人気配信者が一度の案件で受け取る額と比べれば、きっと小さいのだろう。
でも、俺にとっては違った。
装備の修理代。
閃光玉や煙玉の補充。
それらを頭の中で引いても、少し残る。
少しだけ。
でも、その少しが大きかった。
「こちらで問題ありませんか」
「はい。お願いします」
受け取り処理を済ませると、口座アプリに入金通知が届いた。
数字を見る。
何度見ても、消えない。
当たり前だが、入った金は幻ではなかった。
カウンターを離れると、近くのベンチで三浦さんが待っていた。
「どうだった」
「思っていたより、ありました」
「岩皮猿が入ってるからな。第二層でも、あいつの素材は悪くない」
三浦さんは自分の端末を見ながら言った。
昨日の探索分は、三浦さんと話し合って分けた。
パーティーでの成果だから、全部が俺のものになるわけではない。
土潜り蛇と石殻蜥蜴は三浦さんが倒した。
岩皮猿は俺が討伐を取ったが、削ったのはほとんど三浦さんだ。
だから、取り分は相談して決めた。
俺はもっと三浦さんの分を多くした方がいいと思った。
けれど、三浦さんは首を振った。
「岩皮猿の討伐はお前だ。そこは受け取れ」
「でも、三浦さんがいなかったら倒せませんでした」
「それはパーティーなら当たり前だ。俺だって一人なら、あの状態で無理に倒しに行かない」
「それでも」
「装備を直せ。次に飯でもおごってくれ」
そう言われると、返せなかった。
結局、三浦さんにきちんと分けた上でも、俺の取り分は今までの探索では考えられない額になった。
もちろん、すぐに消える金でもある。
第二層に潜るようになってから、必要なものが一気に増えた。
稼ぎが増えたからといって、そのまま使えるわけではない。
それでも、今までとは違う。
支払いを考えた瞬間に、胃が重くなる感じが少しだけ減った。
「顔が緩んでるぞ」
三浦さんに言われ、俺は慌てて口元を引き締めた。
「すみません」
「謝ることじゃない。稼げた時くらい、少しは喜んでいい」
「でも、すぐ装備で消えますよね」
「探索者用の装備は金食い虫だからな」
三浦さんは立ち上がった。
「俺は肩当てを直してくる。お前も装備屋に行くだろ」
「はい」
装備ショップで修理の見積もりを出してもらうと、やはり安くはなかった。
腕当ての削れ。
ジャケットの裂け。
ブーツの靴底の摩耗。
ナイフの刃こぼれ。
ひとつひとつは想定内でも、全部合わせるとそれなりの額になる。
以前の俺なら、その場で頭を抱えていたと思う。
でも今日は、払えた。
痛くないわけではない。
端末で支払いを済ませる時、指先が少しだけ重くなった。
それでも、払った後に口座残高を見て、絶望しなかった。
まだ残っている。
それだけで、肩の力が少し抜けた。
地上施設を出た後、俺は駅前のスーパーに寄った。
いつもなら、まず値引き棚を見る。
半額の弁当。
見切り品のパン。
安いカップ麺。
それが悪いわけではない。
でも今日は、精肉売り場でしばらく足を止めた。
鶏むね肉。
卵。
野菜。
米。
ちゃんと食べた方がいい。
ダンジョンに潜るなら、体を作らないといけない。
頭では前から分かっていた。
けれど、金がなければ選べない。
俺は少し迷ってから、鶏むね肉と卵をカゴに入れた。
野菜も少し買った。
それから、値引きシールのない弁当を一つ入れた。
レジで会計を済ませる。
高い買い物ではない。
でも、俺にとっては妙に大きな一歩だった。
家に帰り、荷物を置いてから、口座アプリをもう一度開いた。
入金。
修理代。
食費。
消耗品の注文。
数字はちゃんと減っている。
それでも、底が見えない。
前なら、一度大きな支払いをしただけで、月末まで何を削るか考えなければならなかった。
今は違う。
少しだけ余裕がある。
ほんの少し。
でも、そのほんの少しで、息がしやすくなる。
「……楽になったな」
口に出してから、少し驚いた。
自分でそう言える日が来るとは思っていなかった。
裕福になったわけじゃない。
安心できるほど稼げているわけでもない。
第二層の装備をまともにそろえようと思えば、まだ足りないものはいくらでもある。
けれど、明日の食費を心配しながらナイフを研ぐ生活からは、少しだけ離れた。
それだけで十分だった。
夜になって、俺は配信用の管理画面を開いた。
昨日は配信していない。
けれど、石爪犬を単独で倒した回と、第二層入口の安全第一配信の切り抜きが少し伸びていた。
再生数も、前より明らかに多い。
収益管理の画面には、まだ小さな数字が並んでいる。
広告収益。
投げ銭。
切り抜き経由の流入。
登録者の増加。
まだまだ人気配信者から見れば、誤差みたいなものだと思う。
それでも、俺にとっては違った。
配信で得た金が、初めて「探索の足し」以上の意味を持ち始めていた。
俺は画面を見ながら、しばらく黙っていた。
同接三人だった頃のことを思い出す。
灰色スライムを倒しても、コメントはほとんど流れない。
小型牙鼠に驚いても、笑う人が二人か三人いるだけ。
配信を切った後、誰も見ていないんじゃないかと思う日もあった。
それでも続けた。
毎日ではない。
休んだ日もある。
怖くなった日もある。
けれど、やめなかった。
そして今、俺の配信を待っている人が少しだけいる。
翌日。
体の重さが少し抜けたので、俺は配信をつけることにした。
ただし、第二層には降りない。
今日は第一層で体を動かしながら、装備の調子を見るだけだ。
配信タイトルは、少し考えてから決めた。
【装備修理明け】第一層はどれくらい楽になったのか試す配信
自分でも、前よりタイトルが配信っぽくなってきたと思う。
配信開始ボタンを押す。
「朝倉です。昨日は配信なしで第二層に潜っていました。今日は第一層で軽く動くだけです。体に疲れが残っているので、無理はしません」
コメント欄がすぐに動いた。
『来た』
『昨日配信なかったから心配した』
『二層行ってたのか』
『タイトル長くて草』
『装備修理明けって何があった』
開始直後の同接は、四十二人だった。
少し前なら、それだけで十分多い数字だった。
俺は第一層へ入りながら話す。
「昨日は三浦さんと一緒でした。詳しい戦闘内容は、相手もいるので全部は話しません。ただ、第二層の奥側を少し歩きました」
『三浦さんって誰?』
『よかった』
「先日、岩皮猿に追われていた人です」
『あーあいつか』
『二層奥って普通に怖い』
『強化くん、もう二層探索者じゃん』
「第二層探索者と名乗るには、まだ早いです。俺はまだ、入口付近で一体ずつが基本です」
『慎重』
『そこがいい』
『でも成長してる』
『同接増えたな』
そのコメントを見て、画面の数字へ視線を向ける。
五十八人。
まだ増えている。
俺は少しだけ言葉に詰まった。
「人、多いですね」
『今さら?』
『石爪犬ソロの切り抜きから来た』
『安全第一配信から』
『強化くん、地味に見やすい』
『外れスキル詐欺になってきたな』
「外れスキル詐欺ではないです。まだ普通に死にかけます」
『正直で草』
『そこは詐欺ってくれ』
『いや正直でいい』
『死なないで』
第一層の通路に灰色スライムが現れた。
今の俺にとっては、かなり遅く見える。
以前なら、距離を取りすぎるくらい取っていた。
ナイフを構える手にも力が入りすぎていた。
今は違う。
近づきすぎず、しかし無駄に下がらず、核の位置を見てナイフを入れる。
灰色スライムが崩れた。
視界の端に文字が浮かぶ。
――灰色スライムを討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
体に入ってくる魔力は小さい。
第二層の魔物に比べると、はっきりと薄い。
それでも、懐かしい感覚だった。
「灰色スライム、討伐しました」
『早い』
『前はもっと時間かかってた』
『一層だと安定感すごいな』
『これが成長か』
『でも二層では慎重にな』
「はい。第一層で動けるからって、第二層で同じことはできません」
そう言いながら、俺は周囲を見る。
第一層は歩きやすい。
足場も安定している。
魔物も単独で出ることが多い。
でも、油断していい場所ではない。
そう思えるようになったのも、たぶん成長なのだろう。
同接は、七十一人になっていた。
コメント欄の流れも、以前より速い。
全部は読めない。
拾えるものだけ拾う。
それも、少しずつ慣れてきた。
『収益出てる?』
『装備代足りてる?』
『今日は飯食えよ』
『ちゃんと肉買え』
俺は少し笑ってしまった。
「収益は、少しだけ出てます。本当に少しです。でも、助かってます。昨日の素材売却もあったので、今月は食費を削らずに済みそうです」
『よかった』
『肉食え』
『装備も直せ』
『生活感あるな』
『底辺探索者リアル』
『強化くん、ちゃんと稼げてきたじゃん』
稼げてきた。
その言葉を、俺はすぐには飲み込めなかった。
稼いでいる。
まだ小さい。
まだ不安定だ。
第二層で一度大きく装備を壊せば、すぐに吹き飛ぶ程度の額だ。
それでも、確かに前より稼げている。
素材売却。
配信収益。
投げ銭。
少し増えた視聴者。
その全部が、今の生活を少しだけ支えている。
俺は第一層を歩きながら、ポーチの中に入れた魔石に触れた。
灰色スライムの魔石。
小さい。
軽い。
でも、昔の俺にとっては、これが一日の成果だった。
今は、第二層の素材を売り、配信の収益画面を見るようになっている。
不思議な感じだった。
「前は、灰色スライムの魔石をいくつ拾えるかで、その日の食費を考えてました」
口に出すつもりはなかった。
でも、自然に言葉が出た。
「今は、少しだけ違います。装備を直して、食べるものを買って、それでも次の探索用に少し残せるようになりました」
コメント欄が少しだけゆっくりになった。
『よかったな』
『ほんとに少しずつだな』
『成り上がりっていうより生活改善』
『そこがリアル』
『無理して一気に行くなよ』
『ちゃんと休め』
「はい。一気には行きません」
同接は、七十八人。
二桁後半。
同接三人だった頃から考えれば、信じられない数字だ。
人気配信者から見れば、小さな枠かもしれない。
でも俺にとっては、画面の向こうに人がいると実感するには十分すぎた。
七十八人が、俺の探索を見ている。
それは少し怖くて、少し心強かった。
俺は第一層の出口へ向かいながら言った。
「今日はこのまま地上に戻ります。体を動かすだけのつもりだったので、長くは潜りません」
『早い』
『でもそれでいい』
『タイトル通り軽め』
『帰る判断早くて助かる』
『お疲れ』
「ありがとうございます」
地上施設へ戻ると、人の声や機械音が耳に入ってきた。
そのどれもが、前より少しだけ近く感じた。
俺はもう、第一層の端でぎりぎり日銭を拾っているだけの探索者ではなくなってきた。
でも、第二層を自由に歩ける探索者でもない。
その間にいる。
少し稼げるようになり。
少し見てもらえるようになり。
少し生活が楽になった。
そのくらいの場所。
今の俺には、それで十分だった。
「地上に戻りました。今日はここまでです。見に来てくれてありがとうございました」
『お疲れ』
『また見る』
『飯食えよ』
『次も安全第一で』
『同接八十いきそうだったな』
画面の数字を見る。
七十九人。
あと一人で八十だった。
少しだけ惜しいと思ってしまい、すぐに苦笑した。
前なら三人だった。
それを思えば、七十九人なんて信じられない。
「同接、すごいですね。ありがとうございます。でも、数字を追って無理をしたら意味がないので、今日は終わります」
『そこで終われるのえらい』
『八十待たないの草』
『いやそれでいい』
『次で八十いこう』
『おつ』
「お疲れさまでした」
配信を切る。
画面が暗くなる。
俺はしばらく、その黒い画面を見ていた。
素材を売れば、少しまとまった金が入る。
配信をすれば、少しずつ収益が積み上がる。
同接も増えている。
それは嬉しい。
嬉しいに決まっている。
でも、数字が増えたからといって、死ににくくなるわけではない。
口座残高が増えたからといって、岩皮猿の拳を受けられるわけではない。
同接が増えたからといって、第三層に降りられるわけでもない。
だから、勘違いしない。
増えた金は、装備と食事と次の準備に使う。
増えた視聴者には、無理な場面ではなく、生きて帰るところを見せる。
俺はポーチの中の小さな魔石を握り、ゆっくり息を吐いた。
生活は、少しだけ楽になった。
探索者としても、少しだけ前に進んだ。
その少しを、雑に扱わないようにしよう。
今の俺に必要なのは、大きく跳ぶことじゃない。
今日も帰って、明日も潜れるようにすることだ。




