第12話 第二層の一般魔物
事故調査が終わったという連絡が来たのは、土潜り蛇を倒した翌日の昼過ぎだった。
管理局からの通知には、あの第一層事故についての処理が一通り終わったと書かれていた。
第二層の魔物が第一層に出た原因については、まだ全部が公表されたわけではない。
けれど、現場で討伐された岩皮猿と石爪犬の魔石や素材、それから救助活動への協力金が、俺の口座に振り込まれていた。
金額を見た時、しばらく画面から目が離せなかった。
第一層で灰色スライムや小型牙鼠を倒していた頃の稼ぎとは、桁が違った。
もちろん、大金持ちになったわけじゃない。
怪我もした。
怖い思いもした。
あれを稼ぎと呼ぶには、あまりに割に合わない。
それでも、今の俺には十分すぎる額だった。
俺はその金を、ほとんど装備に回した。
軽量の腕当て。
脛当て。
少し厚い探索者用ジャケット。
閃光玉を二つ。
煙玉を二つ。
雷撃札を一枚。
それから、安物ではあるが第二層用のブーツも買った。
今までの装備が悪かったわけではない。
第一層なら、それで足りていた。
でも、第二層では足りない。
土潜り蛇一体に、あれだけ苦戦した。
鱗にナイフを弾かれ、足を取られ、締めつけられた。
少しでも判断を間違えれば、噛まれて終わっていた。
簡単に勝った、とは言いにくい。
だから、金が入ったからといって浮かれて第二層へ潜る気にはなれなかった。
装備を整えた。
それでも、俺自身が急に強者になったわけじゃない。
《強化》は反応した。
土潜り蛇の特性も吸収した。
足元の感覚は、少しだけ良くなった。
けれど、少しだけだ。
第二層の魔物に余裕で勝てるようになったわけではない。
机の上に装備を並べ、俺はメモ帳を開いた。
魔物が二体以上出たら撤退。
怪我をしたら撤退。
魔法道具を使ったら撤退。
階段から離れすぎたら撤退。
知らない音がしたら撤退。
書いているうちに、撤退条件ばかりになった。
情けないとは思う。
でも、これでいい。
翌日。
俺は銀座ダンジョンの地上施設にいた。
受付で手続きを済ませると、職員が俺の装備に目を向けた。
「装備、少し変えましたか」
「はい。事故処理分の入金があったので、腕当てと脛当て、それから第二層用のブーツを買いました」
「いい判断です。第二層では足元と腕をやられる人が多いので」
「深くまでは行きません。入口付近だけです」
職員は端末を操作しながら、真面目な声で言った。
「前回の土潜り蛇も、第二層では特別な魔物ではありません。入口付近でも、油断すれば普通に怪我をします」
「分かってます」
「配信はしますか」
「します。記録も兼ねて」
「コメントに乗せられて進まないようにしてください」
「そこは気をつけます」
職員は小さく頷いた。
「無理だと思ったら、すぐ戻ってください。第二層は、今のあなたならまだ一体倒して終わりでも十分です」
「はい」
受付を離れ、俺は第一層入口の前でカメラを起動した。
配信タイトルは短くした。
【第二層入口】無理せず一般魔物と戦います
「朝倉です。今日は第二層入口付近で、一般魔物と戦います。最初に言っておきますが、深くは行きません。魔物が複数出たら撤退します。怪我をしたら撤退します。魔法道具を使った場合も撤退します」
配信開始と同時に、コメントが流れ始めた。
『来た』
『また二層か』
『昨日休んだのはえらい』
『撤退条件多いな』
『無理すんな』
『装備変わってる?』
「事故調査が終わって、岩皮猿と石爪犬の分のお金が入りました。その分で、少し装備を整えました。とはいえ、装備が増えただけで俺が強くなったわけじゃないので、無理はしません」
『それ大事』
『金入ったのか』
『防具あるだけでだいぶ違う』
『でもまだ二層は普通に危ない』
「そのつもりです」
俺は第一層を進んだ。
第一層は、もう何度も歩いている。
ここなら、今の俺は落ち着いて動ける。
けれど、第二層へ続く階段が見えた瞬間、体の奥が少し固くなった。
怖さは、消えていない。
それでいい。
怖くなくなったら危ない。
階段の前で、俺は装備を見た。
ナイフ。
予備ナイフ。
閃光玉。
煙玉。
雷撃札。
背後の逃げ道。
全部ある。
「降ります」
『無理だと思ったら即戻れ』
俺は階段を降りた。
空気が重くなる。
第一層とは違う圧が、肌にまとわりついてくる。
床には黒い砂が溜まり、壁の隙間には太い根のようなものが這っている。
天井は低く、青白い苔の光も弱い。
第二層。
前回より装備は良くなった。
それでも、ここに足を踏み入れる感覚は重かった。
階段を背にして、俺は通路の入口に立つ。
今日は前回より少しだけ進む。
ただし、見える範囲まで。
曲がり角の先へは行かない。
「階段から離れすぎないように進みます。曲がり角の先には行きません」
『慎重でよし』
『曲がり角はやめとけ』
『音聞け』
『足元も見ろ』
コメント欄が、だんだん保護者みたいになっている。
少し前まで、灰色スライムを倒していただけなのに。
俺は苦笑しかけて、すぐに表情を引き締めた。
油断するな。
通路を進む。
一歩。
二歩。
三歩。
新しく買ったブーツは、第一層用のものより靴底が硬い。
黒い砂に沈み込みすぎず、足首も少し支えてくれる。
それでも安心はできない。
土潜り蛇は、この床から出てきた。
足元を見ていなければ、また同じ目に遭う。
壁際に寄りすぎない。
逃げる時に足を取られにくい場所を選ぶ。
その時、奥の壁際で、何かがこすれる音がした。
俺はすぐに足を止めた。
「音がしました」
『壁際か?』
『砂の音?』
『姿見える?』
カメラを少しだけ奥へ向ける。
青白い苔の弱い光の中で、低い影が動いた。
最初は石に見えた。
だが、違う。
平たい体。
黒灰色の背中。
石の破片を貼りつけたような硬い鱗。
床に腹を擦るように動く四本の脚。
蜥蜴だ。
「……石殻蜥蜴、だと思います」
自分で言って、喉が乾いた。
第二層の一般魔物。
体高は低い。
背中の殻が硬く、正面からのナイフや短剣は弾かれやすい。
動きは石爪犬ほど速くないが、低い姿勢から急に突進する。
尻尾の打撃と噛みつきに注意。
狙うなら腹側か首元。
講習動画では、第二層初心者向けの魔物として紹介されていた。
初心者向け。
その言葉に安心しそうになって、俺はすぐに自分を止めた。
第二層の初心者向けだ。
第一層上がりの俺にとって、安全という意味ではない。
石殻蜥蜴が、ゆっくりとこちらを向いた。
小さな目が、青白く光る。
俺はナイフを構えた。
背後には階段。
距離はある。
単体。
逃げ道もある。
条件だけ見れば、戦えなくはない。
でも、無理だと思ったらすぐ戻る。
「石殻蜥蜴が一体です。戦闘に入ります。危ないと思ったら道具を使って撤退します」
『無理すんな』
『背中硬いぞ』
『腹狙え』
『正面から刺すな』
『尻尾気をつけろ』
コメントを全部読む余裕はない。
俺は息を整える。
石殻蜥蜴は、すぐには飛びかかってこなかった。
床に腹をつけるような姿勢で、じりじりと近づいてくる。
遅い。
石爪犬よりは、ずっと遅い。
そう思った瞬間、石殻蜥蜴の体が沈んだ。
来る。
床を蹴る音がした。
低い影が、思ったより速く伸びてくる。
「っ!」
俺は横へ跳んだ。
完全には避けきれない。
石殻蜥蜴の肩が、俺の脛にぶつかった。
重い衝撃。
だが、新しい脛当てが受けてくれた。
それでも足が持っていかれそうになる。
土潜り蛇を倒した時に得た体幹の感覚がなければ、そのまま転んでいたかもしれない。
俺は踏みとどまり、振り向きざまにナイフを振った。
刃が、背中の殻に当たる。
硬い音。
弾かれた。
「硬い……!」
『だから正面と背中は無理』
『腹!』
『低いから狙いにくいぞ』
『今の防具なかったらやばい』
脛に鈍い痛みが残っている。
防具越しでも、かなり響いた。
石殻蜥蜴が体を反転させる。
速くはない。
でも、低い。
近い。
目線が下に引っ張られる。
俺は距離を取ろうと後ろへ下がった。
その瞬間、石殻蜥蜴の尻尾が横に振られた。
鞭のような動きだった。
避けるのが遅れる。
尻尾が左腕に当たった。
「ぐっ!」
軽量の腕当てに衝撃が走る。
買っておいてよかった。
本当に、そう思った。
腕当てがなければ、ナイフを落としていたかもしれない。
それでも痺れは来る。
手の感覚が少し鈍くなった。
俺はナイフを握り直した。
石殻蜥蜴が、口を開く。
小さい牙が並んでいた。
噛まれたら、たぶん簡単には離れない。
俺は横へ逃げる。
石殻蜥蜴は追ってくる。
速すぎるわけではない。
見えない相手ではない。
なのに、苦しい。
低い姿勢で来るせいで、攻撃を当てる場所がない。
背中は硬い。
頭も殻に守られている。
腹を狙うには、相手の横か下に入らなければならない。
そんなことをすれば、噛まれる。
普通の第二層魔物。
そのはずなのに。
俺は、もう息が上がり始めていた。
「これ……普通に、きついです」
『見れば分かる』
『無理するな』
『閃光玉使っていい』
『道具使ったら撤退な』
『装備あってこれか』
装備あってこれ。
そのコメントは、痛いほど正しかった。
もし前回の装備のままだったら、今の突進と尻尾でかなり危なかった。
少し整えただけで、ようやくぎりぎり耐えられている。
俺はまだ、装備に助けられているだけだ。
石殻蜥蜴が三度目の突進を仕掛けてくる。
俺は今度こそ、先に動いた。
真横ではなく、斜め後ろへ下がる。
突進の進路をずらし、通り過ぎる瞬間に前脚の付け根を狙う。
ナイフを突き出す。
浅い。
刃は鱗の隙間に少し入ったが、深くは刺さらない。
石殻蜥蜴が暴れた。
尻尾が来る。
俺は腕を上げて受けた。
重い。
腕当てがあっても痺れる。
それでも、離れない。
今離れたら、同じことの繰り返しだ。
俺は歯を食いしばり、石殻蜥蜴の横腹へ体を押し込んだ。
低い姿勢になる。
相手の下に入り込む。
腹側を狙う。
頭では分かっている。
だが、実際にやると怖すぎた。
石殻蜥蜴の口が、すぐ近くで開く。
俺の腕を狙っている。
牙が、防爪グローブの表面をかすめた。
嫌な音がする。
「くそ……!」
ナイフを腹へ突き込む。
今度は入った。
柔らかい感触。
だが、浅い。
石殻蜥蜴が暴れ、俺の体を押し返す。
低い体からは想像できない力だった。
俺は尻もちをつきかけた。
その瞬間、石殻蜥蜴が頭を振った。
牙が来る。
避けきれない。
俺は反射的に腰の閃光玉を抜いた。
迷っている時間はなかった。
「閃光玉、使います!」
叫ぶように言って、魔力を流す。
閃光玉が白く弾けた。
視界の端まで白く染まる。
顔をそむけていたが、それでも光がまぶたの裏に刺さった。
石殻蜥蜴が甲高い鳴き声を上げる。
動きが止まった。
今しかない。
俺は転がるように横へ回り込み、石殻蜥蜴の首元へナイフを突き立てた。
一度。
浅い。
二度。
硬いものに当たる。
三度。
鱗の隙間を抜けた。
黒っぽい血が飛ぶ。
石殻蜥蜴が暴れ、俺の肩に体当たりしてくる。
痛い。
探索者用ジャケットが衝撃を少し受けてくれた。
それでも肩の奥に鈍い痛みが残る。
離したら、また仕切り直しになる。
俺はナイフを握り直し、腹側へもう一度突いた。
今度は深く入った。
石殻蜥蜴の体が大きく跳ねる。
尻尾が床を叩き、黒い砂が舞った。
俺はすぐに後ろへ下がる。
まだ近づかない。
最後に暴れる可能性がある。
石殻蜥蜴は、床の上で低く体を震わせた。
前脚が何度か石を掻く。
それから、動きが止まった。
視界の端に文字が浮かぶ。
――石殻蜥蜴を討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
熱が来た。
土潜り蛇の時とは違う。
足から沈むような熱ではなく、皮膚の下に薄い膜が広がるような感覚だった。
左腕の痺れが、一瞬だけ熱に包まれる。
表示が続く。
――石殻蜥蜴の特性を吸収しました。
――耐久がわずかに上昇しました。
――斬撃耐性がごくわずかに上昇しました。
――低姿勢時の安定性がごくわずかに改善されました。
俺は息を吐いた。
出た。
やっぱり、出る。
第二層の魔物を倒せば、特性吸収が起きる。
けれど、喜びより先に、腕の痛みが来た。
左腕が重い。
脛も痛い。
肩も打った。
閃光玉も一つ使った。
つまり、今日の撤退条件に入っている。
魔法道具を使ったら撤退。
俺はナイフを下ろし、石殻蜥蜴の死骸から距離を取った。
「討伐しました。でも、閃光玉を使ったので撤退します」
『よし』
『今のは使わなかったら噛まれてた』
『普通に危なかった』
『装備あってもギリギリ』
『強化くん、腕大丈夫か』
「腕は動きます。でも痺れてます。脛も痛いです」
『帰れ』
『素材回収して帰れ』
『いや周り見てから』
『二体目来るぞ』
そのコメントを見た瞬間、俺は背筋が冷たくなった。
そうだ。
討伐表示が出たからといって、周りが安全になったわけじゃない。
俺はすぐに顔を上げた。
奥の通路。
壁際。
黒い砂。
天井。
背後の階段。
魔石と素材を回収したい。
けれど、その前に周りを見る。
呼吸を抑える。
すると、奥の黒い砂が、ほんの少しだけ動いた。
ぞわりとした。
土潜り蛇かもしれない。
いや、違う魔物かもしれない。
どちらでも同じだ。
今は戦わない。
「奥で砂が動きました。回収は最低限にして戻ります」
『それでいい』
『二体目は無理』
『今の状態で土潜り蛇はやめろ』
『煙玉準備しとけ』
俺は腰の煙玉に手をかけたまま、石殻蜥蜴の魔石だけを拾った。
素材は一部が残っている。
たぶん、買い取りに出せば少しは金になる。
でも、全部拾う時間はない。
欲を出すな。
俺は自分に言い聞かせた。
魔石をポーチに入れ、ゆっくり後ろへ下がる。
背中を見せない。
奥の黒い砂が、もう一度動いた。
今度は、さっきよりはっきり。
何かがいる。
俺は迷わず階段へ向かった。
走りたい。
でも、走ると足を取られる。
音で反応されるかもしれない。
早足で、でも雑にならないように戻る。
階段まで、あと十歩。
八歩。
六歩。
背後で、砂を割る音がした。
振り返りたい衝動を抑える。
振り返るより、階段だ。
あと三歩。
二歩。
階段に足をかけた瞬間、後ろで何かが床を叩いた。
そこで初めて振り返った。
黒い砂の中から、細長い体が半分だけ出ていた。
土潜り蛇。
前回倒したものと同じ種類だ。
ただし、距離はまだある。
追ってくるかどうかは分からない。
俺は煙玉を握ったまま、階段を上がった。
土潜り蛇は、こちらを追ってこなかった。
それでも、階段の途中まで上がるまで、俺は息を止めていた。
第一層の空気に変わったところで、ようやく肩から力が抜ける。
「……戻りました。第二層から出ました」
『よし』
『生還』
『二体目行かなかったの偉い』
『今の追ってきてたらやばかった』
もし調子に乗っていたら。
もし、もう一体いけると思っていたら。
たぶん危なかった。
俺はカメラに向けて、正直に言った。
「今日分かったことがあります」
『何?』
『スキル?』
『二層の感想?』
「第二層の一般魔物は、俺にとって普通に危ないです。装備を整えても、石殻蜥蜴一体で閃光玉を使いました。腕も痺れてます。脛も痛いです。土潜り蛇が見えた時点で、もう戦う余裕はありませんでした」
コメント欄が流れる。
『正直でよし』
『それが分かっただけ大事』
『強くなったけど強者ではない』
『一体ずつだな』
『装備もっといる』
『無理すんな』
強くなったけど強者ではない。
その言葉が、胸に残った。
たぶん、その通りだ。
俺は弱いままではない。
岩皮猿。
石爪犬。
土潜り蛇。
石殻蜥蜴。
倒すたびに、少しずつ変わっている。
でも、まだ強者ではない。
第二層を自由に歩ける探索者ではない。
慎重に相手を選び、逃げ道を頭に入れ、道具を使うタイミングを間違えず、一体倒したら帰る。
それくらいしなければ危ない。
俺は石殻蜥蜴の魔石が入ったポーチに触れた。
小さな重みがある。
成果はある。
でも、代償もある。
閃光玉を一つ消費した。
腕が痺れている。
足も痛い。
素材も全部は回収できなかった。
探索者としては、まだまだ下手だ。
それでも、生きて帰っている。
今は、それが一番大事だった。
「今日はこのまま地上に戻ります。素材は最低限しか回収できませんでしたけど、無理して拾うより帰る方を優先しました」
『それでいい』
『素材欲出したら死ぬ』
『生きて帰るまでが探索』
『いい判断』
俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「ありがとうございます」
誰に向けて言ったのか、自分でも曖昧だった。
第一層の通路を地上へ向かって歩き出す。
足が痛む。
左腕も重い。
それでも、今日で少し分かったことがある。
第二層には、俺の《強化》を成長させるだけの意味がある。
でも同時に、俺を簡単に殺せるだけの危険もある。
どちらか片方だけを見たら駄目だ。
その両方を抱えたまま、俺は地上への道を歩いた。




