第10話 第二層の重さ
階段を降りるたびに、空気が変わっていくのが分かった。
第一層の通路にも湿気はある。
青白い苔が光っていて、石の壁はいつも冷たい。
けれど、第二層へ続く階段の途中から、空気の重さが一段変わった。
冷たいだけじゃない。
肌にまとわりつくような圧がある。
足音が、妙に大きく響いた。
こつん。
こつん。
自分の靴音なのに、そのたびに肩が揺れる。
配信画面の端では、コメント欄が流れていた。
『本当に降りてる』
『戻ってもいいぞ』
『入口だけな』
『無理すんな』
『二層の空気違う?』
『強化くん、声出して』
俺は息を吸った。
「今、階段を降りてます。第一層より……少し空気が重いです。気のせいかもしれませんけど」
『気のせいじゃない』
『二層から魔力濃いって言うよな』
『初心者はそこでビビる』
『ビビっていい』
ビビっていい。
そのコメントを見て、少しだけ気が楽になった。
怖い。
俺は今、かなり怖い。
でも、それを隠して進む方が危ない。
三浦さんも言っていた。
分からない力を当てにして潜るな。
俺は腰のポーチを確認する。
閃光玉二つ。
煙玉一つ。
低出力の雷撃札一枚。
防爪グローブをはめた手で、探索者ナイフの柄を握る。
少し硬い。
まだ手に馴染んでいない。
でも、買う前よりはましだ。
階段の終わりが見えた。
その先に、第一層とは違う通路が広がっている。
第二層。
足を踏み入れた瞬間、俺は思わず立ち止まった。
暗い。
第一層も明るい場所ではない。
けれど、第二層の暗さは違った。
青白い苔の光が弱い。
壁の色も、第一層より少し黒ずんでいる。
通路の幅は広いが、天井が低く感じる。
遠くから、何かが擦れるような音が聞こえた。
俺はすぐに背後を確認した。
階段は後ろにある。
逃げ道。
まず、それを確認する。
「第二層に入りました。階段からは離れません。今日は入口付近だけにします」
『よし』
『背中に階段置いとけ』
『本当に入口だけにしろよ』
『音した?』
「しました。たぶん奥です。近づきません」
俺はそう言いながら、通路の壁際に寄った。
第一層と同じように歩こうとして、すぐに違うと分かる。
床が少し柔らかい。
石のはずなのに、土が混ざっているような感触がある。
ところどころに黒い砂が溜まり、壁の隙間には太い根のようなものが這っていた。
第二層は、第一層より不安定。
三浦さんの言葉を思い出す。
通路の形も不安定になる。
逃げ道が分かりにくい場所もある。
魔物も、単体とは限らない。
俺はメモ帳を取り出した。
手が少し震えていて、文字が歪む。
第二層入口。
空気が重い。
床に黒い砂。
階段から離れない。
『メモしてる場合か?』
『いや大事』
『検証配信らしくなってきた』
『背後確認えらい』
『魔物出たらすぐ逃げろ』
俺はメモ帳をしまい、ゆっくり進んだ。
一歩。
二歩。
三歩。
階段からの距離を意識する。
まだ戻れる。
まだ大丈夫。
その時、床の黒い砂が小さく動いた。
俺は足を止めた。
「……何かいます」
『戻れ』
『早い』
『砂?』
『土潜り蛇か?』
『入口にいるのかよ』
土潜り蛇。
事前に確認した第二層初心者向け注意事項に載っていた魔物だ。
土や砂の下に潜み、近づいた獲物の足元を狙う。
動きはそこまで速くないが、噛みつきと巻きつきが危険。
小型とはいえ、第一層の魔物より力がある。
黒い砂が、もう一度動いた。
俺は息を止める。
逃げるか。
まだ姿も見えていない。
入口付近の確認が目的なら、ここで戻ってもいい。
けれど、単体なら。
一体だけなら。
俺は腰の煙玉に触れた。
使えば逃げられる。
ただし、一つしかない。
次に閃光玉。
土の下に潜る相手に効くかは分からない。
最後に雷撃札。
これは本当に最後の保険だ。
今使うものではない。
俺はナイフを構え、足を少しだけ下げた。
「単体なら、様子を見ます。階段は背中にあります。危なければすぐ戻ります」
『戦うな』
『いや一体だけなら確認にはなる』
『初二層で土潜り蛇は嫌だな』
『足元注意』
『噛まれたら終わるぞ』
黒い砂が盛り上がった。
次の瞬間、細長い影が床から飛び出した。
蛇。
だが、地上の蛇とは違う。
太さは俺の腕ほど。
長さは一メートル半くらい。
体表には土色の硬い鱗が並び、頭部だけが石のように角張っていた。
土潜り蛇が、口を開ける。
牙が見えた。
俺は横へ飛んだ。
遅い。
石爪犬ほど速くない。
そう思った直後、土潜り蛇の頭が床を叩いた。
どん、と重い音がした。
床の黒い砂が跳ねる。
「っ……!」
当たっていない。
当たっていないのに、足元から衝撃が伝わった。
重い。
第一層の小型牙鼠とはまるで違う。
動きの速さだけなら、小型牙鼠でもそれなりにある。
けれど、こいつは一撃の重さが違った。
体が小さくても、魔力の密度が違う。
そう感じた。
『避けた』
『今の音やば』
『二層の雑魚でこれか』
『当たったら足持っていかれる』
『戻れ戻れ』
戻る。
その選択肢は頭にある。
でも、土潜り蛇は俺と階段の間にはいない。
まだ逃げ道はある。
俺はナイフを握り直した。
土潜り蛇が体をくねらせる。
その動きに合わせて、黒い砂が広がった。
次は、低く滑るように来た。
俺は真正面から受けず、壁側へ避ける。
そのまま胴体へナイフを振った。
硬い。
刃が鱗に弾かれる。
「通らない……!」
石殻虫の殻とも違う。
あれは硬いが、小さい。
角度を探せば何とかなる。
土潜り蛇の鱗は、しなりながら刃を逃がした。
浅い傷すらついていない。
『弾かれた』
『鱗硬い』
『ナイフじゃ厳しい』
『やっぱ装備足りてない』
分かっている。
装備は足りていない。
それでも、ここで慌てたら終わる。
俺は一歩下がった。
土潜り蛇が、また頭を低くする。
次の瞬間、床の砂を弾いて飛び込んできた。
噛みつき。
俺は横に避けようとした。
だが、黒い砂に足を取られた。
第一層にはなかった感触。
踏み込みが少しずれる。
土潜り蛇の牙が、俺のすねをかすめた。
「ぐっ!」
すね当てを買えなかったことを、一瞬で後悔した。
浅い。
深くはない。
だが、防具のない部分を裂かれ、痛みが走る。
土潜り蛇はそのまま体を巻きつけようとしてきた。
まずい。
俺は防爪グローブをはめた手で、土潜り蛇の首元を掴んだ。
鱗がざらついている。
力が強い。
腕に、ぐっと重さがかかる。
小型牙鼠を押さえる感覚とは違う。
石爪犬を相手にした時の恐怖が、背中を走った。
このまま巻かれたら、動けなくなる。
俺はナイフを逆手に持ち替え、首元の鱗の隙間を探した。
暴れる。
蛇の体が腕に絡み、締めつけてくる。
痛い。
包帯の下の傷が引きつる。
コメント欄を見る余裕はない。
「っ、離れろ……!」
俺は膝を使って、土潜り蛇の体を床に押しつけた。
岩皮猿の時に入った筋力。
石爪犬の時に入った瞬発力。
それがなければ、たぶん押さえ込めなかった。
それでも、ぎりぎりだ。
土潜り蛇の頭が暴れ、牙が腕に迫る。
俺は防爪グローブを信じて、左手を前に出した。
牙がグローブの表面をかすめる。
嫌な音がした。
中古の防爪グローブに、白い傷が走る。
買っておいてよかった。
そう思う余裕は一瞬だけだった。
俺はナイフの切っ先を、頭の下の柔らかそうな部分へ突き込んだ。
浅い。
土潜り蛇が激しく暴れる。
腕が持っていかれそうになる。
俺は歯を食いしばり、もう一度突いた。
今度は、少し深く入った。
黒っぽい血がにじむ。
土潜り蛇の締めつけが、さらに強くなった。
「ぐ、う……!」
腕がきしむ。
これ以上長引けば、こっちが先に限界になる。
雷撃札。
一瞬、頭をよぎった。
でも、まだ使わない。
ここで雷撃札を使ったら、また魔法道具で勝っただけだと、自分で思ってしまう。
いや、それでも生き残るなら正しい。
三浦さんも言っていた。
探索者は使えるものを使って生き残る。
でも、今はまだ使う場面ではない。
土潜り蛇は一体。
逃げ道は後ろにある。
俺の手は、まだ動く。
なら、ここで確かめる。
俺は床に膝をつき、体重をかけた。
土潜り蛇の頭を押さえ込む。
暴れる胴体が、俺の脇腹を叩いた。
重い。
一撃一撃が、第一層の魔物とは違う。
息が詰まる。
それでも、離さない。
俺はナイフを握り直し、三度目の突きを入れた。
刃が、硬いものの隙間を抜ける感触。
土潜り蛇の体が大きく跳ねた。
もう一度。
今度は、首の奥へ。
ナイフの柄まで押し込む。
土潜り蛇の体が、びくりと震えた。
締めつけが緩む。
俺はすぐに離れ、後ろへ転がった。
まだ油断しない。
魔物は倒れたように見えても動くことがある。
ナイフを構え直し、息を荒くしながら距離を取る。
土潜り蛇は、床の上で何度か体をくねらせた。
そして、動かなくなった。
視界の端に、文字が浮かぶ。
――土潜り蛇を討伐しました。
――魔力を吸収します。
――スキル《強化》が発動しました。
熱が来た。
第一層の魔物とは、まるで違った。
岩皮猿ほどの重い熱ではない。
石爪犬ほど鋭い火花でもない。
けれど、灰色スライムや小型牙鼠とは明らかに違う。
体の奥に、濃い魔力が流れ込む。
土の匂いに似た重たい熱が、足から腰へ沈むように広がった。
「……っ」
俺はその場で膝をつきそうになった。
疲労ではない。
魔力が入ってくる感覚に、体が一瞬ついていけなかった。
表示が続く。
――土潜り蛇の特性を吸収しました。
――脚力がわずかに上昇しました。
――締めつけ耐性がわずかに上昇しました。
――土属性への適性がごくわずかに上昇しました。
俺は息を止めた。
出た。
特性吸収。
第一層では、何体倒しても出なかった表示。
岩皮猿と石爪犬の時にしか出なかった、あの表示。
それが、今また出ている。
土潜り蛇。
第二層の魔物。
強さとしては、きっと第二層の中でも低い方だ。
岩皮猿や石爪犬ほど分かりやすい相手ではないのかもしれない。
それでも、第一層の魔物とは違った。
伸びが、違う。
俺は震える手でメモ帳を取り出そうとして、うまく開けなかった。
指がまだ強張っている。
コメント欄が流れている。
『倒した?』
『討伐入った?』
『今の自力だよな?』
『雷撃札使ってない』
『土潜り蛇って二層魔物だよな』
『めちゃくちゃ苦戦してた』
『最後危なかったぞ』
『強化くん、今何か見えた?』
今何か見えた。
そのコメントに、胸が跳ねた。
見えた。
でも、言えない。
まだ全部は言えない。
俺は息を整えながら、どうにか声を出した。
「討伐……入りました。雷撃札は使ってません。ただ、かなり危なかったです」
『見れば分かる』
『戻れ』
『一体倒したなら十分』
『初二層で一体なら撤退でいい』
『調子乗るなよ』
『帰れ帰れ』
帰れ。
コメント欄が、ほとんどそれで埋まっていく。
俺も同じ考えだった。
足は痛い。
腕も痛む。
魔力は増えたような感覚があるが、戦闘で体力はかなり削られた。
それに、目的は達成した。
第二層の魔物を一体倒した。
その結果、第一層より大きな《強化》の反応があった。
これ以上進む理由はない。
いや。
本当は、少しだけあった。
もっと確かめたい。
別の魔物ならどうなるのか。
もう一体倒したら、どれくらい変わるのか。
この熱が本当に積み重なるのか。
そんな考えが、胸の奥に一瞬だけ浮かんだ。
俺はすぐに首を振る。
「……今日は戻ります」
『よし』
『えらい』
『それでいい』
『生きて帰るまでが探索』
俺は土潜り蛇の魔石と、わずかな素材を回収する。
その時、手元の感覚が少し変わっていることに気づいた。
しゃがんだ姿勢から立ち上がる時、足元が安定している。
さっきまで黒い砂に取られた足が、今は少し踏ん張りやすい。
これで第二層を自由に歩けるようになったわけではない。
でも、第一層の魔物を倒した時とは違う。
確かに、伸びている。
俺は階段の方へ戻り始めた。
背中を見せるのが怖くて、何度も振り返る。
奥の通路から、かすかな音が聞こえた気がした。
すぐに足を速める。
戦わない。
今日はもう戦わない。
階段に足をかけた時、ようやく息を吐いた。
第二層の空気が、背中から少しずつ離れていく。
階段を上りながら、俺は配信に向けて言った。
「今日分かったことがあります」
『何?』
『スキル?』
『言える範囲で』
『無理に説明しなくていいぞ』
「第一層の魔物を倒した時より、第二層の魔物を倒した時の方が、明らかに魔力吸収の感覚が強いです。体の変化も、第一層の時より分かりやすい」
言えるのは、ここまでだ。
特性吸収の表示までは言わない。
でも、感覚として違うことは隠しきれなかった。
『やっぱり』
『格上ボーナスか?』
『強化スキル関係ありそう』
『二層一体でこれなら先が気になる』
『でも無理するな』
『検証成功じゃん』
検証成功。
そのコメントを見て、俺は小さく息を吐いた。
成功。
そう言っていいのかは分からない。
戦闘は危なかった。
ナイフは鱗に弾かれた。
足は切られた。
土潜り蛇一体に、かなり苦戦した。
でも、生きて帰っている。
雷撃札も使わなかった。
煙玉も使わなかった。
閃光玉も残っている。
そして、《強化》は確かに反応した。
俺はまだ第一層の探索者だ。
第二層で余裕を持って戦える実力なんてない。
それでも、今日一体を倒したことで分かった。
この場所には、俺のスキルを確かめるだけの意味がある。
階段を上りきり、第一層の通路に戻る。
空気が軽い。
これまで重く感じていた第一層の空気が、今は少しだけ優しく感じた。
俺は壁に手をつき、ようやく深く息を吐いた。
「第二層入口付近の確認は、ここまでにします。今日は撤退します」
『おつ』
『生還』
『よく戻った』
『一体倒して帰るの偉い』
『次は装備整えてからな』
土潜り蛇を倒した時に入ってきた、第一層とは違う濃い魔力。
脚に残る、ほんの少しの安定感。
体の中心に沈むような熱。
俺の《強化》は、やはり魔物によって伸び方が違う。
そして、第一層より第二層の方が、その伸びは大きい。
まだ確信というには早い。
けれど、これまでよりずっと近づいた。
俺は配信終了のボタンに指をかける。
「見に来てくれてありがとうございました。今日はこれで終わります。ちゃんと帰ります」
『帰るまで配信つけとけ』
『地上まで映せ』
『油断するな』
『最後まで気を抜くな』
俺は指を止めた。
確かに、その通りだった。
「分かりました。地上までつけておきます」
コメント欄に、少しだけ安心したような反応が流れる。
俺はゆっくり歩き出した。
第一層の通路を戻る。
体は疲れている。
足も痛い。
腕も重い。
それでも、胸の奥には消えない熱があった。
怖かった。
苦しかった。
危なかった。
でも、進んだ。
そして、一体倒した。
たった一体。
第二層では弱い部類の魔物を、ぎりぎりで倒しただけ。
それでも、俺にとっては大きな一歩だった。
俺は初めて、自分の意思で第二層に降り、自分の手で第二層の魔物を倒した。
その事実が、足の痛みよりも強く胸に残っていた。




