「奪い」とる「盾」その①
東テール海
地球で最も波の無い場所だ。水面は鏡のように静まり返り空と海の境界すら曖昧だった。風も音もない。まるで世界そのものが息を潜めているかのような不気味な静寂。その静寂を切り裂くように一隻の船が進んでいた。豪華客船「ギガンテス」全長四百メートルを超えるその巨体は海上に浮かぶ一つの都市そのもの。上層には豪奢なラウンジやレストランが並び富裕層のための優雅な時間が約束されている。中層には無数の客室と商業区画が広がり非日常的な賑わいが息づく。そして下層には巨大な機関部と乗員区画が張り巡らされ船の心臓として静かに脈動していた。だがその内部構造はあまりにも広大で複雑だった。無数に分かれた通路、幾重にも重なる階層、区画ごとに閉鎖可能な重厚な隔壁ひとたび異常が発生すれば、そこは容易に「出口がない迷宮」へと変わる。さらにこの船が航行する東テール海は波ひとつ立たない異様な静寂に包まれている。音は逃げ場を失いわずかな足音や物音さえも船内に不気味に響き渡る。外界との通信も不安定なこの海域においてギガンテスは完全な孤立空間となる。助けは来ない。逃げ場もない。この船は豪華客船ではない。一度牙を剥けば数千人を閉じ込める巨大な檻と化す。そんな船内では乗客たちが思い思いの時間を過ごしている。くだらない話題で発生する笑い声や、普段味わうことのない豪勢な食事で食器の触れ合う音が船内に当たり前のように響き渡っていた。異変はあまりにも些細な違和感から始まった。「……おい、大丈夫か?」通路の隅でひとりの男が膝をついていた。顔色は異様に青白く呼吸は荒い。次の瞬間、男の身体が不自然に震えた。関節が軋むような音を立て首がゆっくりとあり得ない角度へ傾く。「が……あ……」喉の奥から漏れた声は明らかに人間のものではなかった。そして男の首に噛みついた。悲鳴が船内に響く。噛まれた者は数十秒後に同じように崩れ落ち、そして再び立ち上がる。目は濁り理性は消え失せただ「生きているもの」を求めて彷徨う存在へと変わる。「ドアを閉めろ!!閉めろォ!!」誰かが叫ぶ。だが遅かった、既に船内の至る所で“それ”は増殖していた。逃げ場のない海の上。波の無いこの場所では救助も来ない。静寂の海はいつの間にか絶望を閉じ込める檻へと変わっていた。そして、そのすべてをどこかで見下ろす者がいた。「……やっぱり密室はよく広がる」男は薄く笑う。その瞳には明確なクズの意志が宿っていた。この惨劇を実験として楽しむゴキブリ未満の能力者の意志が。船内は「ゾンビパニック」そのものだった。中層から広まったそれは次第に上層へと蝕んでいく。当然ただの客船なので銃火器等の武器を一般客に配布する訳もなく、抵抗できない者は「感染者」となって「非感染者」を襲い続けた。船員室には海賊対策の為の武器を置いていたため、必死の抵抗ができ何とか船を運航出来ている状態にあった。そんな状態の船のとある客室に「青年」がいた。その「青年」は睡魔に襲われたまたま一人客室で眠っていたのだった。青年は空腹がてら食堂へ向かっているところでゾンビに襲われ客室に逃げ込み事無きを得た。しかしこの抵抗も陸地に着くまでには破られてしまうだろう。青年の名前は「ドリアス・オー・ジョット」愛称は「ドージョット」今年厄年の大学2年生だ。能力は「バリア」手のひらから直径50㎝程の円形状のバリアを発生させられる。この能力を上手く使いこなすために研究している途中だった。この旅の後、更なる研究をする予定だったがいきなりの実戦となってしまい内心かなり焦っている。そして同じく客室にいる「妹」も。妹の名前は「リシア・オー・ジョット」愛称は「リーア」去年旅行中に事故現場にて大量発生した怨霊に呪われてしまい、糸の切れたマリオネットのように動かなくなってしまった。生きてはいるものの自力で動くことは出来ない。現在は家族で除霊師を探すべく世界各地を周るこの船に乗っていた。能力は「吸収」攻撃防御問わず全ての力を吸収し消化する。限界量は自分感覚で25ℓプール程らしい。とりあえず今妹を担いでこの船内をうろつくのは非常に危険だ。しかし妹を客室に残して行動するのも危険。どうすべきか締め切った室内で頭を抱えていた。外の気配があまりにも濃い。「……っ」ドージョットは息を殺したままドアの方へ視線を向ける。廊下の向こうでは引きずる音が嫌なくらい響いている。ズ……ッ……ズ……ッ……何かが確実に近づいてきている。(このままじゃ時間の問題だ……)バリアは張れるが直径50センチ。防ぐことはできても突破する力には乏しい。そして何より「……リーア」ベッドの上で微動だにしない妹。守る対象がある時点で選択肢は大きく制限される。「置いていくなんて論外だ…!」ならば答えは一つ。「……動くしかない」小さく呟きドージョットは決断した。彼はシーツを引き裂き手早くロープ状に結ぶ。それを自分の身体に巻き付けリーアを背負えるように固定する。「ちょっと揺れるぞ我慢してくれ」返事はない。だがそれでもいい。守ることに相手の意思は必要ない。ズ……ッ……ズ……ッ……音がドアの前で止まった。ドンッという鈍い衝撃。ドンッドンッ扉が外側から叩かれる。「がぁ……あ……」低く濁った声。間違いない「感染者」だ。(数は……一体か?いや音的に二、三……)ドージョットは右手を前に突き出す。淡い光が集束し円形のバリアが展開された。直径50センチの透明な盾。人を一人守るには十分な大きさ「……よし」息を整える。ここから先は実験じゃない。失敗=死だ。ドンッ!!ついに扉の一部が軋みヒビが走る。「行くぞ……!」ドージョットは一気にドアノブを捻り自ら扉を蹴り開けた。開いた瞬間三体の感染者が雪崩れ込む。腐敗したような目と歪んだ顎。そして関節が外れ異様に伸びる腕。ガンッ!先頭の一体がバリアに激突した。勢いそのままに弾かれ後ろの個体を巻き込んで転倒する。(いける!!)その隙を逃さない。ドージョットは体ごと突進しバリアで押し切るようにして通路へ飛び出した。だが廊下の奥や曲がり角、階段付近。そこかしこにそれがいた。数十、いや、それ以上。すでにこのフロアは制圧されている。「っ……マジかよ……」背中のリーアの重みが現実を引き戻す。退路はもうない。「もうここまできたら突破するしかねぇか!!」ドージョットはバリアを前方に構え絶望の群れへと踏み込んだ。その姿はまさしく子供の頃から憧れていた「キャプテンアメリカ」そのものだった。いざ行こうとした時に異変が起きた。背中のリーアの指先が微かに動いた。すると最前列の感染者がまるで何かを吸い取られたかのように崩れ落ちた(今の……まさか……)リーアの能力である「吸収」が無意識下で発動している。果たしてそれは希望なのか。それともさらなる地獄の引き金か。




