第39話 漆黒の傷跡と白装束と
試験当日。
夜明け前から、ルメンヴァル公邸へと続くメインストリートは人の列で埋め尽くされていた。
民衆たちは、午後に控えたフェリクスと照平の対決、『国家の審判』をこの目で見届けようと、整然とした隊列を作り、公邸の門が開くのを今か今かと待ち構えている。
「おい、聞いたか? 賭け率はフェリクス様が圧倒的優勢らしいぞ」
「当たり前だろう。由緒正しきサリバン家のご嫡男だ。異邦人にこの国を預けるなど、民衆の誰も願っちゃいないさ」
「……だが、あの『漆黒のカレンデュラ事件』で、泥にまみれて奔走する照平の姿を見たか? 理屈じゃない。あいつが俺たちのために尽力したのは本物だ。……もしかすると今日、この国の常識が根底から覆るかもしれないぞ」
街を包む空気は、単なる見世物への興奮ではない。
それは、自分たちの生活、そして国の命運を左右する「次代の執政官」が選ばれる瞬間への、祈りにも似た緊張感だった。
酒場の店主も市場の商人も、今日ばかりは店を閉め、『国家の審判』に注目している。
国を背負う十五歳の少女の隣に立つ資格を得るのは、由緒正しき貴族の血統であるフェリクスか。
それとも、数々の難題を打ち破ってきた異邦人、照平か。
ルメンヴァルに満ちる張り詰めた空気は、午後の決戦へと向かって、さらに熱を帯びていく。
◇
ルメンヴァル公邸内にある『王の広間』。
その最奥、一段高い場所に玉座がある。
主不在の玉座は、今はただ、知恵の試練に挑む十五歳の少女を静かに見守る。
『国家の審判』を午後に控え、王の広間ではルメンヴァル中の有力貴族や組合の代表たちが、ヴァレリアへの拝謁に訪れていた。
玉座の手前、広間の中央に、ヴァレリアが国家の重みを一身に背負うかのように凛として鎮座している。
彼女の左側には、サリバン家の嫡男として非の打ち所のない礼法で立つフェリクス。
フェリクスは綺麗な金色の髪をしており、歳は二十歳過ぎ。
小柄で上背はないが、その立ち居振舞いから、貴族としての自信が感じられる。
フェリクスの姿は、富、地位、容姿......その全てを兼ね備えた、正に俺の理想を絵に描いたような『勝ち組』だった。
俺はどんなに努力をしても勝ち組になれないのに、フェリクスは大した苦労も努力もなく生まれながらにして勝ち組なのだ。
ルメンヴァルでも有数の貴族の出であるフェリクスは、日頃から他の有力貴族たちとも交流がある。
「サリバン家の誉れ、フェリクス殿。今日の審判、一族の悲願成就を信じておりますぞ」
代々の付き合いがある有力貴族たちは、ヴァレリアへの拝謁もそこそこに、フェリクスの元へ歩み寄り、当然の勝利を確信した笑みを浮かべる。
フェリクスはそれに対し、傲慢さを微塵も見せない完璧な微笑で応えていた。
その一方で、俺はヴァレリアの右側に立ち、貴族からの冷たい視線をひしひしと感じていた。
考えてみれば当然のことだ。
国の行く末を左右する『知恵の試練』。
それを補佐する従者に、どこの馬の骨とも知れない異邦人を推す者などいない。
拝謁に来るすべての貴族や組合の代表は、フェリクスの勝利を願っているのだ。
ヴァレリアからの推薦と聞いてこの話を受けたが、これについてヴァレリアとは一度も話ができていなかった。
ここまで来ると、本当に推薦されたのか、それさえ怪しく思えてくる。
くそっ......
「お前などお呼びではない」と言わんばかりの状況に、惨めさと憤りを感じる。
俺は唇を噛み、拝謁が終わるまでただ耐えるしかなかった。
「次の方、カスピアン・ヴァン・サリバン様」
拝謁に来る者を紹介する役人が、高らかにその名を呼ぶ。
サリバン?!
その名を聞くと、こちらに向かってくる貴族の顔を見る。
そして思わず眉をひそめる。
その男は背丈が二メートル近くあるだろうか、体格もよく、とても威圧感がある。
顎には立派な髭を生やしており、右の目に金縁の片眼鏡を着けている。
そして最も特徴的なのは、顔の左半分に負っている、火傷のようなひどい傷痕だ。
カスピアン・ヴァン・サリバン、彼はフェリクス・ヴァン・サリバンの父親であり、ルメンヴァルでも最上位に位置する貴族の一人である。
カスピアンはヴァレリアに形式的に挨拶すると、フェリクスの元へ向かう。
「我が息子よ、ルメンヴァルを支えるのはサリバン家の使命だ。父に代わりしっかり役目を果たしなさい」
鋭い眼光がフェリクスに向けられる。
それとは対照的に、フェリクスは穏やかな表情でうなずく。
「父上の悲願。果たして見せます」
カスピアンは深くうなずくと、踵を返して広間を後にしようとした。
だが、その振り返りざまのことだ。
凄まじい憎悪に満ちたカスピアンの視線が、音もなく俺の喉元を突き刺した。
それは紛れもない「殺意」そのものだった。
そのあまりの威圧感に、俺は首に手を掛けられじわじわ締め上げられるような感覚を覚え、息ができなくなる。
目の前が白くなり、意識を失いかけたその時。
「ショウ!おい、大丈夫か?」
気づくと俺は立っていた場所にひざまずいていた。
そして目の前にいたその人を見て、何とか大きく息を吸い込むことができた。
「バルカス......親方」
俺の前に立っていたのは、ルメンヴァル採掘協会会長でバルカス鉱業の社長、バルカス親方だ。
そしてその傍らにはジークもいる。
緊張の糸が切れ、頭に上った血液がゆっくり全身に巡っていくのを感じる。
冷静になって横を見ると、ヴァレリアとフェリクスが心配そうにこちらを見ていた。
「申し訳ありません。大丈夫です」
まだ若干震えが残る足を両手で押さえ、立ち上がる。
「ショウ、大変な役目を背負っちまったな。でも、バルカス鉱業を救ったようにルメンヴァルにはお前さんの力が必要だと思う。全員が敵でも、俺たちはお前さんの見方だ。それを忘れるな」
バルカスは照平の片を軽く叩く。
そうだ。
俺はヴァレリアの力になるって決めたんだ。
もう一度息を大きく吸い込み、バルカスの目を見て力強くうなずく。
「親方......ありがとうございます」
バルカスは少し安心したようにうなずくと、広間を後にする。
その時、ジークが照平の元に駆け寄ると、耳元でこうささやいた。
「フェリクスは頭のいい男だ。くれぐれも気を付けろ」
◇
「次の方が最後となります。『掌の会』代表、サムエル・ド・ヴァイス様」
やっと終わるのかと胸を撫で下ろしたのも束の間、最後に現れたその男の姿に、俺は思わず身構えた。
その男は、これまで拝謁に訪れた者たちとは明らかに違う、どこか異質な空気を纏っていた。
彼が身に纏うのは、ルメンヴァルの伝統的な法衣ではない。
それは、驚くほど潔白な純白の布地を、極めて精密な幾何学的な裁断で繋ぎ合わせた、異形の装束だった。
それはまるで、真っ白な陰陽師を思わせる、呪術的でありながら極めて論理的な美しさを湛えている。
「お初にお目にかかります。サムエルと申します。隣国アグストリアを拠点に『掌の会』を主宰しております」
サムエルはすべての善と悪を包み込むような穏やかな笑顔を湛えている。
「お噂は伺っております。貧困に苦しむ民衆の支援をされているとのこと、本来であれば、それらはこのルメンヴァル行政が、救い上げるべき領域です。我々の手が届かぬ場所で、我が民が貴方の慈愛に頼らねばならぬ現状を、次代を継ぐ身として、不甲斐なく、申し訳なく思っております。命を繋ぎ止めてくださっていること、心より感謝申し上げます」
どうやらサムエルは、慈善団体の代表のようだ。
サムエルは袖で口元を隠す素振りをみせながら大袈裟に謙遜して見せた。
「あぁ、なんともったいなきお言葉。光あるところには必ず影ができます。それはどうしようもないこと。我々は微力ながらその影に灯火を与えんとするまででございます。姫様、どうかそのようにご自身を責めないでください」
サムエルはさらに続けた。
「……そもそも姫様は、本来であれば親の慈しみを受け、学びに励み、友と無邪気に語らわれるべきお年頃。高貴な血筋ゆえ、この国を一身に背負わねばならぬお立場ですが、そのか弱きお背中には似つかわしくないほど、あまりに重い責任が積み重なりすぎております」
サムエルは、まるで我が子を慈しむかのような潤んだ瞳で、ヴァレリアを一歩踏み込んで見つめた。
「どうか、どうかご自身を責めないでください。王として振る舞う前に、貴女は一人の、愛されるべき少女なのですから。……もしも、その重圧に心が折れそうになった時は、いつでもこのサムエルをお呼びください。貴女の代わりにその重荷を背負い、夜明けまで手を引く準備は、既にこの『掌』に整っております」
そう言うと、ヴァレリアに向けてひざまずき、右の掌を差し出した。
ヴァレリアはそれに対して表情を変えず、ただ一言、「ありがとう」と返す。
その凛としたたたずまいの僅かに一瞬、前に組んだ手の指先が微かに震えたような気がしたのは俺の見間違いだろうか。
サムエルはフェリクスと俺に穏やかに会釈をすると、音もなく広間を後にした。
白一色の背中が扉の向こうへ消えても、俺の脳裏には、彼が残した得体の知れない余韻が残っていた。
静まり返った『王の広間』に、正午を告げる鐘の音が重く響き渡る。
午前の拝謁が終わり、午後はいよいよこの国の命運を天秤にかけるメインイベント、『国家の審判』が幕を開ける。
俺とフェリクス、どちらの知恵が勝るか。
その結果だけで、ヴァレリアと共に「知恵の試練」に挑む資格が、そしてこの国の明日が決まるのだ。
国の存亡をかけた一世一代の勝負が、今、始まろうとしていた。
つづく




