第8話:芝居で戦争を止めた男
移動舞台を引いて軍事国家の駐屯地に向かうと言った時、ハインリヒが水を飲んでいた。
水を噴いた。
「お前……何を言っている」
「ゲリラ公演。許可なしで始める」
「軍の駐屯地だぞ!? 許可どころか通行証もない!」
「いつものことじゃん」
「いつものことじゃない!!」
ハインリヒが帳面を叩きつけた。
俺はパンをかじりながら地図を広げた。
ゼクト軍事国家の駐屯地がいくつかある。
その中でも、この地域の前線拠点が一番近い。二日で着く。
「見てよ、ここ」
俺が地図の一点を指した。ハインリヒが渋々覗き込んだ。
「前線拠点は補給が遅れる。兵士たちは退屈してる。娯楽がない。食事と命令だけの毎日だ」
「……それが何だ」
「退屈な人間に劇を見せたら、どうなると思う?」
ハインリヒがゆっくりと顔を上げた。計算している顔だった。
「……胃が、また痛い」
「お大事に」
ハインリヒが帳面を拾い上げながら言った。
「全員で行くか」と。俺は頷いた。
ハインリヒが盛大に溜め息をついた。
それが了承のサインだと、俺はもう慣れていた。
―――
二日かけて駐屯地に近づいた。
正面から行った。移動舞台は目立つ。隠しようがない。
哨戒の兵士が「止まれ」と声を上げた。
俺は馬車の前に降りた。子どもが一人、降りてきた格好だ。
兵士が眉を寄せた。
「何の用だ」
「劇をやりたくて来ました」
「劇?」
「芝居です。物語を演じるやつ。通行証はないですけど、一回だけ見てもらえれば話が早いので」
兵士が一瞬固まった。それからもう一人の兵士と顔を見合わせた。奇妙な間があった。
やがて上の者が出てきて、俺たちを見て、同じように固まった。
子どもが一人と、変な集団と、でかい荷馬車。
「……上官に確認する」
「ありがとうございます。待ってます」
俺はパンをかじりながら待った。
グスタフが馬車の陰で腕を伸ばしていた。
ジャハルが眠そうな顔をしていた。
ルーチェが手の光を抑え込んでいた。
ハインリヒが遠い目をしていた。
三十分後に、許可が出た。
―――
駐屯地の広場で移動舞台を展開した。
兵士たちが最初から集まっていたわけではない。
何をしているのかと覗きに来た者が数人いて、それが十人になり、三十人になり、気づけば広場の端まで埋まっていた。
今日の演目はグスタフの番だった。
台本には「片腕の兵士が戦場から帰り、それでも立って生きている」というだけしか書いていない。
あとはグスタフが埋める。それが俺の演出指示だった。
「いいのか。こんな指示で」とグスタフが聞いた。
「いい。お前の体が台本だ」と俺は言った。
グスタフが珍しく、ちゃんと笑った。
グスタフが舞台に立った。
最初は何も言わなかった。ただ、立った。
片腕の男が、舞台の中央に立った。それだけだった。
だがその沈黙の中で、何かが変わった。
兵士たちが黙った。誰も笑わなかった。
腕を失った同僚を見てきた目が、舞台の上のグスタフを見た。見続けた。
グスタフが口を開いた。
「……俺は、戦場から帰ってきた」
声が広場に広がった。
「腕を置いてきた。仲間を置いてきた。何のために戦ったのかを、途中から忘れた。それでも最後まで戦った。命令だったから。それだけだ」
前列の兵士が顔をそらした。自分のことを言われているように聞こえたからだと思う。
「帰ってきて、誰も俺の話を聞かなかった。傷の話も。死んだ奴の話も。俺の腕がなくなった話も。みんな前を向いていた。世の中は続いていた」
グスタフが残った腕を上げた。
「俺は……何のために戦ったんだ……!」
一言一言が、石を落とすように重かった。
広場が静止した。
どこかで誰かが息を吐いた。その音が聞こえるほど、静かだった。
俺は舞台の袖で、兵士たちの顔を見ていた。
前列の男が目を赤くしていた。隣の男が唇を噛んでいた。後ろの方で、若い兵士が両手で顔を覆った。
(これが、グスタフの舞台だ)
グスタフが演じているのではない。グスタフが立っているだけだ。その立ち方が、全部語っている。
終演した。グスタフが頭を下げた。
静寂の後に、拍手が来た。最初の一人が拍手をして、それから次々と続いた。
お捻りが飛んだ。銀貨が、また銀貨が。
前列の男が立って、言った。
「……もういいだろ。帰らせてくれ」
隣の男が頷いた。後ろの方から「そうだ」という声がいくつか上がった。
―――
ハインリヒが翌朝、震えた声で言った。
「お前の劇のせいで、軍が機能しなくなってるぞ!」
「え」
「各地の駐屯地から脱走者が出てる! いや、脱走じゃない、命令無視だ! 兵士たちが武器を置いて帰り始めてる!」
俺は帳面を見た。収益が書かれている。昨日の公演だけで相当な額が集まっていた。
「劇って、心を動かすものだからね。動きすぎたみたいだけど」
「反省してないのか!」
「反省というか……台本通りだよ」
「お前の台本には"軍を解体せよ"と書いてあったのか!?」
「書いてない。グスタフの体が書いた」
ハインリヒが帳面を持ったまま崩れ落ちた。
地面に膝をついて、額を帳面に押しつけた。
「……坊主。頼む。次からは事前に教えてくれ。心の準備というものが必要なんだ」
「次も同じような感じになると思う」
「なんで先に言うんだ!!」
―――
収益は予想の三倍になった。
弱体化した軍事国家から、売りに出された元兵士の奴隷を買い取った。
手続きはハインリヒが対応した。記録帳が分厚くなっていった。
「戦うより、こっちのほうがずっと面白いよ」
俺は新しく加わった男たちに言った。何人かが半信半疑の顔をした。何人かは「騙されてみよう」という顔をした。
いい顔だ。半信半疑は稽古で消える。
ルーチェが灯した照明が夜の空に映えた。
ベルントが拡張した移動舞台は以前より広く、頑丈になっていた。
グスタフが「飯食ったか」と新入りたちに声をかけていた。
ジャハルがパンを半分渡していた。
―――
夜、焚火が落ち着いた頃。
空のどこかで、声がした。
「こいつ面白いな。劇で軍を解体してるぞ」
「……興味深い案件ですが、報告書は私が書くんですが」
「がんばれ」
「……」
聞いた者は誰もいなかった。俺も聞いていなかった。台本の続きを頭の中で書いていたから。
ただハインリヒだけが、なんとなく空を見上げた。
「……なんか嫌な感じがした」
胃に手を当てた。それから帳面を開いた。新しい収益を書き込んでいた。
数字が増えるたびに、ハインリヒの顔が少しだけ穏やかになる。俺はそれを知っていた。
この男の「胃が痛い」は、劇団の平和のバロメーターだ。今夜は、ほんの少しだけましな顔をしていた。




